エフェソの手紙第2章
19節「そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである」(口語訳)
1~10節 絶大な普遍的なキリストの支配とその御業は、個々人の過去と現在を対照にして示される。
1~3節は救いに至る以前のわたしたちが描き出される。
2節「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました」。それは肉の欲望の赴くまま、肉の心の欲するままに行動し、生れながら神の怒りを受けるべき者であった(3節)。しかし(大いなる否定)、憐れみ豊な神の愛がイエス・キリストによって与えられ、罪過によって死んでいた者を、十字架と復活によって新しく生かされたのである(4~5節)。
8節「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」。行いによるのでないから誰も誇ることは出来ない(9節)。わたしたちは「神の作品」(口語訳)である(10節)。
11~22節 個々人ではなく、ユダヤ人と異邦人の過去と現在
過去においては、手による割礼の有無と、約束の契約に関わっていたか否か、神との関係についての有無が問われた(11~12節)。しかし今はそれらに関わることなくキリスト・イエスに於いて十字架の贖いにより、近い者になったのである(13節)。「近い者となった」とは、神と人の断絶した関係が、キリストの十字架の罪の贖いにより、回復したことを指している。この出来事は、個々人においても、異邦人ユダヤ人においても新しい関係がつくられたこととなる。
14節「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊した」。ここにキリストの平和宣言がなされる(イザヤ57章17節)。「敵意という隔ての壁」 エルサレムの壁に「異教徒が入れば死刑という字が刻まれていた。ユダヤ教徒の憎悪は激しかった。異邦人は地獄の火を燃やす焚き木だとも言った。かつてパウロはこの「敵意」を持ち、ステファノの石打ち刑の時も(使徒言行録8章1節)、ダマスコ行きを願った時(同9章1節)も抱いたが、回心によって、その間違いを正した(ガラテヤ1章13節)。
十字架は双方を一人の新しい人に造り上げて平和を実現したのである(15節)。キリストにより、聖霊の一致に結ばれて、御父に近づくことが出来るのである。三位一体の神が証しされる(18節)。
19節「 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である」。
かくして、新しいキリストの共同体が描かれる。
神の契約から言えば、旧約に表わされた預言者と新約に証言された使徒たちを建物の土台として、その上にキリストがかなめ石となって積み上げられた神の神殿である。建物全体は麗しく組み合わされて更に素晴しくされていく。そこでキリストに結ばれたすべての民が礼拝を捧げることとなる。
丘の上からエフェソの街を見おろす巨大なアルテミス神殿(アテネのパルテノン神殿の約四倍)があり、世界の各国から祭りを祝いに集まった。パウロはここで大胆に福音を語ったのである(使徒言行録19章21~40節)。
キリストによって建設される神の神殿は、それに遥かに超えた宇宙的なものであり、麗しいものであることは言うまでもない(1章22~23節、3章17~18節see)。
19節「そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである」(口語訳)
1~10節 絶大な普遍的なキリストの支配とその御業は、個々人の過去と現在を対照にして示される。
1~3節は救いに至る以前のわたしたちが描き出される。
2節「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました」。それは肉の欲望の赴くまま、肉の心の欲するままに行動し、生れながら神の怒りを受けるべき者であった(3節)。しかし(大いなる否定)、憐れみ豊な神の愛がイエス・キリストによって与えられ、罪過によって死んでいた者を、十字架と復活によって新しく生かされたのである(4~5節)。
8節「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」。行いによるのでないから誰も誇ることは出来ない(9節)。わたしたちは「神の作品」(口語訳)である(10節)。
11~22節 個々人ではなく、ユダヤ人と異邦人の過去と現在
過去においては、手による割礼の有無と、約束の契約に関わっていたか否か、神との関係についての有無が問われた(11~12節)。しかし今はそれらに関わることなくキリスト・イエスに於いて十字架の贖いにより、近い者になったのである(13節)。「近い者となった」とは、神と人の断絶した関係が、キリストの十字架の罪の贖いにより、回復したことを指している。この出来事は、個々人においても、異邦人ユダヤ人においても新しい関係がつくられたこととなる。
14節「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊した」。ここにキリストの平和宣言がなされる(イザヤ57章17節)。「敵意という隔ての壁」 エルサレムの壁に「異教徒が入れば死刑という字が刻まれていた。ユダヤ教徒の憎悪は激しかった。異邦人は地獄の火を燃やす焚き木だとも言った。かつてパウロはこの「敵意」を持ち、ステファノの石打ち刑の時も(使徒言行録8章1節)、ダマスコ行きを願った時(同9章1節)も抱いたが、回心によって、その間違いを正した(ガラテヤ1章13節)。
十字架は双方を一人の新しい人に造り上げて平和を実現したのである(15節)。キリストにより、聖霊の一致に結ばれて、御父に近づくことが出来るのである。三位一体の神が証しされる(18節)。
19節「 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である」。
かくして、新しいキリストの共同体が描かれる。
神の契約から言えば、旧約に表わされた預言者と新約に証言された使徒たちを建物の土台として、その上にキリストがかなめ石となって積み上げられた神の神殿である。建物全体は麗しく組み合わされて更に素晴しくされていく。そこでキリストに結ばれたすべての民が礼拝を捧げることとなる。
丘の上からエフェソの街を見おろす巨大なアルテミス神殿(アテネのパルテノン神殿の約四倍)があり、世界の各国から祭りを祝いに集まった。パウロはここで大胆に福音を語ったのである(使徒言行録19章21~40節)。
キリストによって建設される神の神殿は、それに遥かに超えた宇宙的なものであり、麗しいものであることは言うまでもない(1章22~23節、3章17~18節see)。