第Ⅱコリントの手紙第8章
21節「わたしたちは、主のみまえばかりではなく、人の前でも公正であるように、気を配っているのである」(口語訳)
1節「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう」これは自発的な募金についてである。パウロは既にエルサレム周辺に起きた飢饉に対する救援募金を勧めている(第Ⅰ・16章1~4節)。
マケドニア州が「激しい試練」を受けたとは、ローマ支配下で鉱物や農産物が搾取されたこと、それにもかかわらず「満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」という(2節)。「惜しまず施す」(アプロテートス)は「単純な、純情な」と「物惜しみしない」と意味で、エフェソ6章5節では「真心を込めて」となっている。喜びに満ちた心と極度の貧しさは本来一致しないが、それを結びつけるものは何か。
「…わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げた」(5節)。それは神の御心にそったアプロテートス(真心)である。自発的に、力以上に財を捧げて慈善(恵み=カリス)を表わした(3~4節)。
「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから~」(7節)。これらの点でコリントの教会は豊かなのだから、恵みの業にも豊かな者となって欲しい。何故なら、豊かであった主イエスが貧しくなられたのは、あなたがたが豊かになる為だったからである(9節)。そこで、一層進んで実行して頂きたいと勧める(10~11節)。
「他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく…」(13節)。この様な反対論があったと思われる。これに対して出エジプト記16章18節(七十人訳)を引用して、多く集めた者も少ししか集められなかった者も過不足が無かったことを実例として諭した(14~15節)。
16節「あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱かせてくださった神に感謝します」。テトスがこの募金で諸教会に働きかけてよい協力者が与えられていることを、ここで紹介している。一人は福音のことで評判の高い人で、テトスに同伴させると伝える。彼は主の栄光を表わす熱意をもってこの恵みの業に加わっている(18~19節)。もう一人同伴させる人物も熱心で、コリント教会に厚い信頼を寄せている(22節)。
23節「テトスについて言えば、彼はわたしの同志であり、あなたがたのために協力する者です。これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています」。
このようにパウロが募金活動に際して細心の注意を払うのは何故なのか。それは批判や消極的な人々に対する明確な態度を表わす為だったと言えよう。その言葉が20~21節に出ている。
「わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています」。「公明正大に」(カロス)は「立派な、良い、公正な、見事な、尊敬に値する」という言葉、岩波訳「潔白であることを心がけている」、英訳「~providing honorable things,」である。
いつでも、金銭トラブルは憑き物である。キリストの共同体はそうであってはならない。
21節「わたしたちは、主のみまえばかりではなく、人の前でも公正であるように、気を配っているのである」(口語訳)
1節「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう」これは自発的な募金についてである。パウロは既にエルサレム周辺に起きた飢饉に対する救援募金を勧めている(第Ⅰ・16章1~4節)。
マケドニア州が「激しい試練」を受けたとは、ローマ支配下で鉱物や農産物が搾取されたこと、それにもかかわらず「満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」という(2節)。「惜しまず施す」(アプロテートス)は「単純な、純情な」と「物惜しみしない」と意味で、エフェソ6章5節では「真心を込めて」となっている。喜びに満ちた心と極度の貧しさは本来一致しないが、それを結びつけるものは何か。
「…わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げた」(5節)。それは神の御心にそったアプロテートス(真心)である。自発的に、力以上に財を捧げて慈善(恵み=カリス)を表わした(3~4節)。
「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから~」(7節)。これらの点でコリントの教会は豊かなのだから、恵みの業にも豊かな者となって欲しい。何故なら、豊かであった主イエスが貧しくなられたのは、あなたがたが豊かになる為だったからである(9節)。そこで、一層進んで実行して頂きたいと勧める(10~11節)。
「他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく…」(13節)。この様な反対論があったと思われる。これに対して出エジプト記16章18節(七十人訳)を引用して、多く集めた者も少ししか集められなかった者も過不足が無かったことを実例として諭した(14~15節)。
16節「あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱かせてくださった神に感謝します」。テトスがこの募金で諸教会に働きかけてよい協力者が与えられていることを、ここで紹介している。一人は福音のことで評判の高い人で、テトスに同伴させると伝える。彼は主の栄光を表わす熱意をもってこの恵みの業に加わっている(18~19節)。もう一人同伴させる人物も熱心で、コリント教会に厚い信頼を寄せている(22節)。
23節「テトスについて言えば、彼はわたしの同志であり、あなたがたのために協力する者です。これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています」。
このようにパウロが募金活動に際して細心の注意を払うのは何故なのか。それは批判や消極的な人々に対する明確な態度を表わす為だったと言えよう。その言葉が20~21節に出ている。
「わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています」。「公明正大に」(カロス)は「立派な、良い、公正な、見事な、尊敬に値する」という言葉、岩波訳「潔白であることを心がけている」、英訳「~providing honorable things,」である。
いつでも、金銭トラブルは憑き物である。キリストの共同体はそうであってはならない。