日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

愛として働く信仰

2010-11-26 | Weblog
  ガラテヤの手紙第5章 

   6節「まことにキリスト・イエスにあっては、割礼も無割礼も問題ではなく、愛として働く信仰のみが意味を持つのである」(ATD訳)

  1節「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。…奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」。4章後半にある通り信仰による自由の身にされているのだから、二度と律法の元にある奴隷となるな、しっかりせよと態度表明を促す。
3節「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います」。既に2章4~5節でテトスの場合を取り上げ、割礼を強制して福音の自由を奪おうとしている偽兄弟らに決して妥協しないことを告げている。割礼を求めるなら律法全体を行う義務がある。そこではキリストの恵みは失われ、義とされる希望もない(4~5節)。
   6節「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」。割礼の有無は問題でない。愛を通して働く信仰のみが意味があり効力を持つ(NTD訳)。
誰が邪魔をして真理に従わなくしているのか。あなた方を惑わす者は裁きを受ける(7~10節)。かき乱す者は自ら去勢してしまえばよい(12節)。
   今一つ注意したい。キリストが自由の身にして下さったが、それを「肉に罪を犯させる機会とせずに愛によって互いに仕える」ことである(13節)。つまりキリストの自由は、誤った自由主義に陥る。罪を犯させる「機会」(アホルメー)とは軍事用語で「根拠地、前進基地」を指している。つまり自由が無律法に陥り、罪を犯す根拠となる。これを否定し、自由を得させて下さるキリストの愛をもって仕える信仰である。「互いに仕え合う」とは、キリストに対して互いに仕えることである。
   これは「愛を通して働く信仰」(6節)である。律法の本質はイエスが説かれたマルコ12章29~31節にある通り、神の愛に応答し、「自分を愛するように隣人を愛する」ことである(14節)。これは愛を条件とする信仰では無ない。「隣人を愛さなければ信仰ではない」と言っているのではない。私たちを愛するキリストヘの信仰が働いて、お互いが愛し合うのであり、これを混同すると再び律法主義に落ちてしまう。これは危険である。パウロはこれを「共食いし、互いに滅ぼされる」といった(15節)。
   この明確な愛の実践を促すのが、「霊の導きに従って歩みなさい」(16節)である。「歩みなさい」は現在命令形で継続性を示す。そして「霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」という結論になる。

   19~21節にある15項目が「罪の目録」(カタログ)である。律法の下では肉の働く罪を滅ぼすことは出来ない。性的不道徳(姦淫、わいせつ、好色)、非信仰(偶像礼拝、魔術)、人間関係の破綻(敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ)、過度の飲酒(泥酔、酒宴)。26節に具体的行為が示される。
   22~23節の九項目は霊に従って歩む者(16節)に結ぶ実である。「…愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」。留意すべきことは、「肉の業」は複数形であるが、これは全て単数形である。次に最初に結ぶのは「愛」(アガペー)である。つまり最高の賜物である(第Ⅰコリント12章32節)。そしてこの徳目がすべて他者に向けられるものである。最後の「節制」(口語訳「自制」)も他者に向けられる自己抑制である。これが可能なのは「肉の欲情や欲望もろとも十字架につけてしまった」からである(24節)。