第1コリントの手紙第14章
4節「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます」(新共同訳)
1節「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」。最大の賜物である愛を追い求めよと告げ、次に預言と異言の賜物について語る。異言は神に向かって神秘を語るが(2節)、預言は人に向かって語る。それは「人を造り上げ、励まし、慰める」ものである(3節)。
4~19節 異言と預言とが対比される。
先ず異言は自分を造りあげるが、預言は教会を造り上げる(4節)。「造り上げる」(オイコドメオー)は「建て上げる」「建設する」であるが、口語訳「徳を高める」と訳している。異言は自分を高めようと神秘を追い求める個人的排他性を帯びるが、預言は相互の奉仕と交わりを求め励ましと慰めになる。
この相違を楽器に擬えて語る。
「笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているか、どうして分る…。ラッパがはっきりした音を出さなければ、誰が戦いの準備をしますか」(7~8節)。笛、竪琴、ラッパがそれぞれの音色で、一つのメロディを奏でる。もし演奏者が勝手にプープー、ピーピーと奏でているだけなら、何の意味も無い。異言を語っている状況は、これと同じではないか。
預言の場合は違う。「霊で祈り、理性でも祈る~。霊で讃美し、理性でも讃美する~」(15節)。異言を唱える人々の祈りと賛美とは違い、初心者は感謝に「アーメン」と応える(16節)。
この相違が明確なのは、「わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言を一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」(19節)。
一万語に対して五語は二千分の一である。五つの言葉とは何か。「イエスース」(イエス)「クリストス」(キリスト)「セオス」(神)「フィオス」(御子)「ソーテール」(救い主)という説がある。頭文字を綴ると「イクスース」(魚)で、ローマ迫害時代に地下廊(墓地)に潜んで礼拝を守った時、壁に魚が刻まれている。他に15章3節の五つの単語という説もある。
27~30節は、異言と預言の問題に関連した事柄で、秩序を保ち、混乱を招かないように、場合によっては28、30節「黙っていなさい」と勧めている。無闇やたらに質問して騒ぎ立てる人々への戒めである。
既婚の女性に対しては「教会では黙っていなさい」(34節)。「何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい」(35節)と勧める。これは霊的でない質問とも考えられ、家に帰って二人で話しい解決するようにということであろう。集会の秩序が求められていることが判る。
この背景に、コリント教会にある問題の一つに「グノーシス」思想があり、知識に偏重した信仰理解から「霊的」と称して独断に陥り、忘我的陶酔や、誤った女性解放を唱える様なことが起きた(第1テモテ2章8~12節)。
結論的な勧めが39~40節にある。
先ず聖霊の賜物として「預言を熱心に求めなさい」。第二は「異言を語ることを禁じない。しかしすべてを適切に、秩序正しく行いなさい」(40節)。
「適切に」(タキス)はローマ13章13節「品位をもって」となっている。それは行儀よく、見苦しくなくということである。秩序を取戻して神の平和が支配するような交わりが求められている。ここに信仰共同体の形成がある。
4節「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます」(新共同訳)
1節「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」。最大の賜物である愛を追い求めよと告げ、次に預言と異言の賜物について語る。異言は神に向かって神秘を語るが(2節)、預言は人に向かって語る。それは「人を造り上げ、励まし、慰める」ものである(3節)。
4~19節 異言と預言とが対比される。
先ず異言は自分を造りあげるが、預言は教会を造り上げる(4節)。「造り上げる」(オイコドメオー)は「建て上げる」「建設する」であるが、口語訳「徳を高める」と訳している。異言は自分を高めようと神秘を追い求める個人的排他性を帯びるが、預言は相互の奉仕と交わりを求め励ましと慰めになる。
この相違を楽器に擬えて語る。
「笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているか、どうして分る…。ラッパがはっきりした音を出さなければ、誰が戦いの準備をしますか」(7~8節)。笛、竪琴、ラッパがそれぞれの音色で、一つのメロディを奏でる。もし演奏者が勝手にプープー、ピーピーと奏でているだけなら、何の意味も無い。異言を語っている状況は、これと同じではないか。
預言の場合は違う。「霊で祈り、理性でも祈る~。霊で讃美し、理性でも讃美する~」(15節)。異言を唱える人々の祈りと賛美とは違い、初心者は感謝に「アーメン」と応える(16節)。
この相違が明確なのは、「わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言を一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」(19節)。
一万語に対して五語は二千分の一である。五つの言葉とは何か。「イエスース」(イエス)「クリストス」(キリスト)「セオス」(神)「フィオス」(御子)「ソーテール」(救い主)という説がある。頭文字を綴ると「イクスース」(魚)で、ローマ迫害時代に地下廊(墓地)に潜んで礼拝を守った時、壁に魚が刻まれている。他に15章3節の五つの単語という説もある。
27~30節は、異言と預言の問題に関連した事柄で、秩序を保ち、混乱を招かないように、場合によっては28、30節「黙っていなさい」と勧めている。無闇やたらに質問して騒ぎ立てる人々への戒めである。
既婚の女性に対しては「教会では黙っていなさい」(34節)。「何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい」(35節)と勧める。これは霊的でない質問とも考えられ、家に帰って二人で話しい解決するようにということであろう。集会の秩序が求められていることが判る。
この背景に、コリント教会にある問題の一つに「グノーシス」思想があり、知識に偏重した信仰理解から「霊的」と称して独断に陥り、忘我的陶酔や、誤った女性解放を唱える様なことが起きた(第1テモテ2章8~12節)。
結論的な勧めが39~40節にある。
先ず聖霊の賜物として「預言を熱心に求めなさい」。第二は「異言を語ることを禁じない。しかしすべてを適切に、秩序正しく行いなさい」(40節)。
「適切に」(タキス)はローマ13章13節「品位をもって」となっている。それは行儀よく、見苦しくなくということである。秩序を取戻して神の平和が支配するような交わりが求められている。ここに信仰共同体の形成がある。