日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

神の御心に適った悲しみ

2010-11-15 | Weblog
  第Ⅱコリントの手紙第7章 

  10節「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(新共同訳)

  1節「愛する人 、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう」。ここでいう「このような約束」とは、生ける神の神殿とされ神を迎え入れる約束である。そうでなければいつでも逆行し、一層悪くなる(マタイ12章43~45節see)。「神を畏れて」とは、神の臨在を持つことである。
  2節「わたしたちに心を開いてください。…」。パウロに対する批判で偏狭な心をもつことにないようにと願う(6章11~12節)。何故なら「生と死を共にする」という厚い信頼を寄せているので、わたしは慰めに満たされ、苦難にあっても喜んでいると告げる(3~4節)。
 
  5~16節は、既に学んだ通り2章1~13節からの文脈につながっている。パウロは3章から7章4節までは、手紙が大きく脱線している箇所と理解される。
   パウロはコリントに「涙の手紙」を携えてテトスを先に送ったのだが、マケドニヤで彼の報告をうける迄は、不安で気落ちしていた(5節)。
   ところがテトスに再会し、コリント教会の様子を伺って大きな慰めを得ることができたのである(6~8節)。
   「わたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ…」(7節)。手紙によってパウロの心情に強く共感したことを指す。
   あの手紙であなた方を悲しませたことを知ったが、わたしは後悔していない。何故なら「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ」(9節)、更にあなた方にどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたか知れないからである(11節)。
   「例の事件」とあるのは定かではないが、第Ⅰの手紙5章1~2節にあった不道徳とその処置に関する事柄であろうと思われる。
 ここで留意したいのは、二種類の悲しみがあると述べていることである。パウロは手紙を書いたことを後悔しないと言っているが、この後悔(repentance)は「世の悲しみ」で救いには至らないもの、これに対して「神の御心に適った悲しみ」は、救いに至る「悔改め」(conversion)である。ここで、俗に「後悔先に立たず」と言われるように、悔い多き人生を送るのではなく、悲しみが慰めと喜びに変えられるconversionが示されるのである。
 
   13節以下には、テトスに手紙を託してコリント教会に送りだした時の様子が伺える。彼はコリントの信徒たちを信頼していて、テトスに誇っていたが、それが裏切られることがなく真実であったと述べているのである(14節)。更にパウロは
 「テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せている」と言う(15節)。全幅の信頼である。 

あらゆる場合に神に仕える者

2010-11-14 | Weblog
第Ⅱコリントの手紙第6章 

   3~4節「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないようにどんな事にも…、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています」(新共同訳)

   1節「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。…」。キリストの使者の務め(5章20節)を、ここでは神の協力者と称した。そして務めが無駄にならないように勧める。何故なら今は恵みの時、救いの日だからである(2節)。
 勧めの内容が二つ示される。先ず「この奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えない」(3節)。口語訳「…人に躓きを与えないように」。
   次に「あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示す…」(4節)ことである。
 「どんな事でも」として、ここに九つ挙げている。「苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」である(~5節)。
ここで求められるのは「大いなる忍耐」である。これに連動して「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉」と合わせて九つ挙げる(6~7節)。これらは、神に仕える者の両手に持つ「義の武器」である。
   これは終始一貫変わらないもので、様々な情況に出合っても対応することが出来るもので無ければならないものである。
「あらゆる場合」(4節)とあるのは、栄誉も辱めも受け、悪評を浴びても好評を博してもということである(8節)。
9~10節は、既に4章7~9節で述べられていたことと同じで「土の器に秘められた宝」であり、パウロにとっては「ありとあらゆる境遇に処する秘訣」(フィリピ4章12節口語訳)なのである。

   神の僕としての態度表明から、一致と不一致を14節以下述べる。それは「不信仰者と一緒に不釣り合わない軛に繋がれないように」ということである(14節)。
   それは、混合を遺棄することである(レビ記19章19節)。それは「正義と不法」「光と闇」「キリストとベリアル」「信仰と不信仰」「神の神殿と偶像」で、一致は不可なのである。「ベリアル」とは、この「世の君」(エフェソ2章2節口語訳)のこと。
  16節は、エゼキエル37章27節、レビ記26章12節。
  17節は、イザヤ52章11節、エゼキエル20章34節。
  18節は、サムエル記下7章14節、イザヤ43章6節、サムエル記下7章8節。
いずれも七十人訳(ギリシャ語訳)からである。

 

神の和解を受けなさい

2010-11-13 | Weblog
  第Ⅱコリントの手紙第5章  
 
  20節「神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい」(口語訳)

   1節「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています…」。これは4章18節を言い換えている。つまり見える地上の天幕と神によって備えられている見えない永遠に存続する天上の住家である。遊牧民は天幕を折り畳んで移動するが、それを地上の住み家を終えて、天上の住み家に移ることに擬えている(2節)。それは脱ぎ捨てて新しい着物を纏うという表現になる(3~4節、第1コリント15章53節see)。
   「死ぬはずのものが命に飲み込まれる」は第Ⅰコリント15章54節を引用する。
体を住み家とした生活は、天上の住み家から離れているが、しかし保証として神が霊を与えて下さっているので、心強く信仰によって歩むことが出来るとパウロは言うのである(5~7節)。
   体を離れて主のもとに住むことを望むが、離れていても只管主に喜ばれる者でありたい(9節)。なぜなら、だれもキリストの審判の座の前に立ち、善であれ悪であれ体を住み家としていた時行ったことに応じて報いを受けるからである(10節)。
   ここでパウロは、使徒の推薦状を持たないという批判について弁明する。三章のはじめに述べていた事柄であるが、人の目や言葉を気使い評価を気にすることはしない、何故なら「神の前にありのままに知られて」いるからである(11節)。「あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません」(12節)。推薦状を求めるのは「内面ではなく、外面を誇っている人々」である。
   パウロに対する今一つ「正気でない」(エキステーミ)という批判に応える(13節)。口語訳「気が狂っている」、英語ではエクスタシーである。「自分の外に立つ、びっくりする、脇に離れる」つまり忘我状態だという。彼は神に対してなら確かに正気ではない、然し正気だとすれば、それはあなた方のためであると言った。何故なら「キリストの愛が…駆り立てているからである」(14節)。口語訳「~強く迫っている」。キリストの愛がしっかり捕えているのである(岩波訳)。
   その理由はキリストがすべての人のために死んで復活され、もはや自分の為でなく、その方の為に生きる者となっているからである(15節)。
   これがすべての判断の基準となる。つまり「今後だれをも肉に従って知ろうとしません」(16節)。常識的、表面的なスケールで判断しないのである。積極的な判断基準は「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者」(17節)ということである。
新しい創造の業とは、キリストを通して「神との和解」がなされ、罪によって断絶していた神との関係が回復したことである(18節)。それは「新創造」という出来事である(ヨハネ3章3~5節)。
   神はこの「和解の言葉をわたしたちにゆだねられた」ので、「キリストの使者の務め」がある(19~20節)。「使者」(プレスベウオー)とは「全権大使」(ambassador)という意味である。これは神から要請されたものである。
  そこで「キリストに代って願う。神の和解を受けなさい」(口語訳)。ここは命令形である。

宝を土の器に納めている

2010-11-12 | Weblog
  第Ⅱコリントの手紙第4章
 
   7節「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」(新共同訳)

   1節「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません」。3章で神の栄光を帯びた霊に仕える務めを与えられたので落胆しないという(8節)。反対者が批判するような「卑劣な行い、悪賢く歩み、神の言葉を売り物にする」ことなど無く、神の前に正直に務めている(2節)。福音に覆いがかかっているというのは、あなた方のことだ(4節)。
   サタンが人々の心の目をくらまして福音の光が見えないようにしたが、「闇から光が輝き出よ」(創世記1章3節)と命じられた神がわたしたちの心の内に輝いて、その栄光を悟ることが出来るようになった(5~6節)。

   一見すると、そのように見えないかもしれない。しかしわたしたちの「土の器」に宝が納めてある。それは何か。「わたしたちの心の内の輝き」、そしてそれは「並はずれて偉大な力」(7節)である。「土の器」とは素焼きですぐに欠け、ひびが入る器で、人の脆弱性をしめす。それは人が神よって形ち造られた器である(創世記2章7節)。それを四様に述べる。
   四方から苦しめられ~、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒される。まるでリング場で連打されダウン寸前のようである。しかしそうならない。往き詰まらず、失望せず、見捨てられず、滅ぼされない(8~9節)。何故か。口語訳が判りやすい。
  11節「わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである」。同じ表現を、ガラテヤ2章19~20節で知る。
   14節「それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを、知っているからである」。主イエスの死と復活が、あなた方と一緒の出来事となるのである。
  そこで、「多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためである」(15節)ことを願っている。

  16~18節では、土の器に納めた宝について述べたことを(7~10節)、時空を超えた拡がりの中で一層明確にしている。
 1)『外なる人』は衰えても『内なる人』は日々新たにされる(16節)。
 2)一時の軽い艱難は、重みのある永遠の栄光に比べられない(17節)。
 3)見えるものは過ぎ去るが、見えないものは永遠に存続する(18節)。


主と同じ姿に変えられていく

2010-11-11 | Weblog
  第Ⅱコリントの手紙第3章 

  18節「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。…」(口語訳)

  1節「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、…推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか」。報酬を求めて福音を語らないことが、自己推薦だと非難されるのかと問いかける。エルサレムからの推薦状を持たないのは、あなた方が推薦状だからだ(2節)。
   3節「あなたがたは、…生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」。その文字はあなたがたの心に神の霊によって書かれていて、石の板ではない(エゼキエル11章19節see)。
 勿論自己推薦する資格があるとは思っていない。わたしたちは神から新しい契約に仕える資格をあたえられたのである(5~6節)。 

   ここでパウロは、文字の推薦状と心に刻まれた霊の推薦状を、石の板に刻まれた律法を授受した時の輝きと、イエスの福音の輝きと対比して語る。
   7節「ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために…、彼の顔を見つめえないほどであったとすれば~」。これは出エジプト34章29~33節。これは「つかの間の栄光」である。そして「人を罪に定める」律法の務めのためにモーセは栄光をまとっていた。しかし「霊に仕える務め」であり「人を義とする務め」の栄光ははるかに優るものであり、それゆえにかつての栄光は失われている(8~10節)。
   11節「なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです」。この「消え去るべき」(カタルゲオ)は「実を結ばなくする」「絶やす」で、7節「つかのま」、13節では「口語訳」消え去って行くものの最後(テロス=the end)となっている。そこで
   13節「…最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません」。
 顔覆いのままで旧い契約が読まれる時は、考えが鈍くなってしまった。しかしそれは、キリストにおいて覆いが取り去られるまでである(14節)。今に至るまでそれが続いている(15節)。
   16節「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」(出エジプト34章34節)。ここでは二つの意味が込められている。一つは旧約の律法に対する真実が明らかになる。それはパウロにとっては回心前の律法のもとにおける罪と死の裁定(7、8節)である。しかしそれは終わったのである。従って「主の方に向き直る」「覆いを取り去る」とは主イエスと向き合うことである。
   17節「ここでいう主とは『霊』のことです」。従って
   18節「 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」。「主と同じ姿に造り変えられる」とは、「神の似姿」the same image of Godへと変貌する。これはキリストの福音による、驚くべき神の約束事である。

キリストのかおり

2010-11-08 | Weblog
   第Ⅱコリントの手紙第1章23~2章17節 

   15節「わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである」(口語訳)。

   旅行変更に関して22節までに弁明したパウロは、その理由を23節から述べている。それは悲しませることをすまいという思いやりである(1節)。口語訳「寛大でありたい」とある。信仰を支配するのではなく、喜びの共労者になることである(24節)。先に「涙ながら書いた手紙」も、悲しませる為ではなく、溢れるほどに抱いている愛を知って貰うためであると告げた(3~4節)。この「涙の手紙」が7~9章に挿入されているとしているが、確定はできない。パウロはこの外にも別な手紙を書いている(第Ⅰ・5章6節)。
   「悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、…あなたがたすべてをある程度悲しませたのです」(5節)。これは悲しみの共有である。これは、そこに留まらないで、神の前に出て赦しを願い執り成す「寛容」の心にある。そこで「あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです」(7節)と勧める。あなた方が赦す相手は、わたしも赦します。それはキリストの前で悔改めによって赦しを得るからであるという(10節)。
   悲しみがキリストの赦しへと変えられた理由が示されないで、12~13節で旅行計画の説明に戻っている。ここで文脈が中断することになる。
  パウロが予定を変更しコリントに直行しないで、トロアスに向けて出発したという。それは宣教の門が開かれていたからである(12節)。しかし先にコリント教会に宛てた「涙の手紙」(4節)をテトスに託していたが、彼に会えないため不安を抱いたままマケドニアに向かったという(13節)。
  この続きは本来なら7章14節以下で、テトスと再会し手紙の結果の報告を聞いて慰めと平安を得たという結果になるところである。
   14節「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、…キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」。ここで神に感謝する状況が与えられた。それを凱旋将軍と勝利を告知する例で語る。神によるキリストの勝利を宣べ伝える使徒を指している。
  「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです」(15節)。行進を歓迎する沿道の群衆が花束を道に投げると隊列を組んだ将軍に続く兵士と捕虜たちに踏み付けられ、香りが一帯に漂う有り様が想定される。勝利者イエスの福音に生かされている使徒たちにはその香りは救いに至る命の香りであるが、イエスの福音に従っていない人々は繋がれた捕虜と同じでその香りは滅びに至る死の香りとなる(16節)。
  これは救いか滅びか、命の道か死に至る道かの岐路に立って選択を促される決断なのである。
  しかし「神の言葉を売り物に」している人々が多くいるのである(17節)。つまり曖昧にして、神の言葉に対して決断をしない人々を指している。
   わたしたちに求められるのは「誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語る」ことだと告げたのである。

『アーメン』となられた神の子イエス

2010-11-07 | Weblog
  第Ⅱコリントの手紙第1章12~22節

   19節「わたしたちが…あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては『然り』だけが実現したのです」(新共同訳)

   ここから手紙の本文で、内容は大きく1~9章を「和解の手紙」、10~13章を「弁明の手紙」に区分できよう。
 12節「わたしたちは…あなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは…わたしたちの誇りです」。「コリント訪問の変更」(新共同訳・小見出し)について述べるに際し、コリントの人々との関係は神からの「純真と誠実」であることを、誇りにしていると告げる。「純真」(ハギオテース)は「聖(きよ)い」(口語訳)と訳される。「誠実」は虚偽のないことである。これが「誇り」であると繰り返す(14節)。
   15節「このような確信に支えられて、わたしは…もう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました」。ここで旅行変更を告げる。最初の計画は第Ⅰ・16章6節にある。この変更についていろいろ取り沙汰されているが、決して軽率なことではないと言う(17節)。その理由については23節~2章1節に述べている。
   「肉の思いによって計画した」とは自分の気儘な判断による計画のことであり、これに対し、そうでないことを「真実なる神が証人となって下さる」という(18、23節)。
   ここで神の真実(ピスティス・ヘブライ語「アーメン」)について三点が示される。
   先ずそれはイエス・キリストによって神の真実(「然り」アーメン)が実現したこと(19節)。イエス・キリストは「アーメンたる方」である(ヨハネ黙示録3章14節)。キリスト者が天の御父に祈る時に、「キリストの名によりアーメン」と呼ぶ事実をここで示されよう。
   次に「神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます」(20節)である。パウロの手紙の幾つかはその最後を「アーメン」で結ぶ(ローマ16章27節、ガラテヤ6章18節、第Ⅰテモテ6章16節)。また祈りの結びに唱える(ローマ9章5節、エフェソ3章21節、フィリピ4章20節)。ヨハネ黙示録は天上の賛美に「アーメン」の合唱を響かせる(5章14、7章12節)。これはヘンデルのメサイアに取り入れられた。
   第三に、神の真実(アーメン)が21節「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付ける」のである。祈りの時の「アーメン」は神に向かって真実を告白することであるが、同時に礼拝の祈りで一同が「アーメン」と唱和するのは、相互の心を結び合わせる告白である。第Ⅰコリント14章15~16節にそれが語られている。

慰めに満ちた神

2010-11-06 | Weblog
   第Ⅱコリントの手紙第1章1~11節
 
   3節「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように」(口語訳)

   「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(2節)。手紙の冒頭に来る挨拶であるが、内容は、必ずしも一通でない文書になっている。色々な質問状や問題に応える形になっているからである。続いて讃美がある。3節「ほめたたえられますように」。口語訳は文頭に「ほむべきかな」となっている。詩篇などにある感謝の仕方で、崇拝と敬慕を表し、神に対してだけ使われる。それは三通りの言葉で三位一体の神を賛美する。(1)「主イエス・キリストの父である神」(御子イエス)、(2)「慈愛に満ちた父」(御父)、 (3)「慰めを豊かにくださる神」(慰め主-聖霊)
   先ず神を「父」と呼ぶが、これはイエス・キリストによって初めてわたし達の神に対する呼称となった。ローマ8章15節に、神の子の身分を授けた霊によって「アッパ父よ」と呼ぶことが出来るとある。かつて父権制度時代のような絶対的権威で君臨するような「父」ではなく、「慈愛に満ちた父」であり、そして「慰めを豊かにくださる神」なのである。特に「慰めを豊かに」という時、慰めの根拠が神にあることを様々な体験の中から告白する呼び方である。彼はそのことを4~節に証している。「慰め」がここには繰り返され、実に10回も出てくる。
   この「慰め」(パラカレオー)は、「傍らに」パラと「呼ぶ」カレオという二つの言葉から出来ていて「下から支え、強め、そばで支持する」という意味である。この他にも「勧める」(使徒言行録2章40節)、「懇願する」(マタイ8章6節)、「励ます」(第Ⅱコリント13章11節)、「指図する=口語訳」(テトス1章9節)等とも訳される。
  この派生語のバラクレートスは聖霊を指し、「弁護者」(ヨハネ14章26節、助け主=口語訳)となっている。
この慰めを得たのは、「あらゆる苦難に際して」(4節)だった。「苦難」とはどんなものだったのか。原語は「圧迫」を意味する言葉である。それを伺わせるのは、
   「耐えられないほど圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました」(8節)。そして「死の宣告を受けた思いでした」(9節)とある。
  福音宣教によって経験する様々な苦難と、牧会者としての心遣いである。これをパウロは11章23~28節に述べている。
  「苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります」。
  パウロの伝道者生涯はダマスコの回心(紀元33年頃)から、ローマ幽閉と殉教(紀元61年頃)の三十年に満たないものであった。その中で上記のような出来事は使徒言行録には詳らかにされていない。それは記録されなかった14年間(ガラテヤ2章1節)であろう。「死の宣告」の経験もそこに含まれるのか?(9節)。パウロの生涯に決して変わらなかった確信はこの「死者を復活させてくださる神を頼りにする」ことであった。
  これが10節である。「神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。…神が今後も救い出して下さることを望んでいる」(口語訳)。

マラナ・タ(主よ、来てください)

2010-11-05 | Weblog
  第1コリント手紙第16章

   22節「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)」(新共同訳)

  1~4節 エルサレム教会のための救援募金
  紀元47~48年にユダヤ地方に飢饉が起きアジア諸教会は救援募金を行った(使徒言行録11章27節)。
2節「わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい」。募金の方法から、教会生活が具体的に伺える。既に主の復活日に礼拝が守られていた。教会は一週毎に、各自の収入の中から感謝して、その一部を集めている。
  5~12節 旅行の計画
  パウロの牧会的な労苦が伺われる。
  9節「わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです」。五旬節までエフェソに滞在する理由を述べ(5~8節)、コリントに行く気持ちが語られる。反対者とは、グノーシス(主知主義者)だけでなく、彼の使徒職を批判する者や、教会内部のトラブルなどが想定されている。
  13~24節 終りの挨拶
  「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい」(13節)。「目を覚ましていなさい」は歴史の完成者、主イエスが再臨する終末の日に対する心備え(マルコ13章35~37節、第1テサロニケ5章2~4節)。眠りの状態は無防備で判断が奪われる。誘惑に陥らぬ為目覚めて祈らねばならない。
  「雄々しく強く~」。口語訳「男らしく」。新約ではここ一ヶ所しかない。これは戦闘の姿勢である(ヨシュア記1章6、9、18節)。この反対は「臆する」(ヨハネ黙示録21章8節)。
  「何事も、愛をもって行いなさい」(14節)。直訳「あなたがたのすべてを愛の中で実行しなさい」(all hings/ of you/ in/ love/ let be)。愛を動機として行動する事で救援募金もその実践である。また同労者への配慮も同じであった(15節)。
  「わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します」(21節)。筆記者に替わって自らペンを取る。彼はしばしば代筆していた(ガラテヤ6章12節、コロサイ4章18節)。
   「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)」。「~見捨てられるがよい」(アナセマ)。(口語訳)「呪われよ」。この訳がよい(12章3節、ガラテヤ1章8節)。呪いも祝福も神がなされる扱いである(申命記12章26節)。
  「マラナ・タ(主よ、来てください)」。アラム語で礼拝の時に交わす挨拶用語だったと言われている。このマラナ・タを、「マラン・アタ」(主は来られた)と読むこともできる。そうすると、前者は主の来臨を待望する呼び掛けであるが、後者は聖餐式の時の挨拶となる。
   「わたしの愛が、…あなた方一同と共にあるように」(24節)。キリストの体に結ばれた神の教会が、愛と配慮をもって仕え合うことを願う。


死は勝利にのまれてしまった

2010-11-04 | Weblog
  第1コリントの手紙第15章  

  54~55節「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。…」(口語訳)

 1~11節 伝承された福音
  新しく主題として復活が取り上げられる。先ず福音について「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」(3節)
  使徒と教会から伝承として受けたと告げる。そして客観的事実として「キリストが聖書に書いてある通りわたしたちの罪のために死に…葬られ…三日目に復活した」ことである(4節)。更に復活の証言者が今なお生存しているという(6~7節)。
  そして「月足らずで生れたようなわたしに現われた」(8節)。彼のダマスコ途上の体験である。使徒と呼ばれる値打ちも無いが「神の恵みにより今のわたしがあるのです」(10節)。原文は「…エイミ・ホ・エイミ」(~I am what I am)。神の恵みにわたしは在(あ)るということである。だからわたしは神の恵みを無駄には出来ない。

 12~34節 復活の証明
  「…あなたがたの中のある者が死者の復活などない、と言っている~」(12節)。それは何故か。復活がないというなら、キリストの復活も否定され(13節)、宣教も信仰も無駄となり、神の偽証人になるだろう(14節)。そして「今もなお罪の中にあることになる」(17節)。
   キリストは死者の復活の初穂となられ(20節)、再び来臨する時にはすべての支配と権威を治め、最後の敵である死を滅ぼされる(23~26節)。
   死者の代理受洗(29節)は難解で諸説があったが395年フィリポ会議で否定された。
 宣教に死を賭しているのは復活信仰があるからだとパウロは証する(30~32a節)。また唯物的、刹那的、享楽的生き方を否定する(32b~33節)。彼らは神について無知なのである(34節)。

 35~49節 復活の身体性と将来性
  35節は復活の身体性についての問いである。死により朽ちて塵になるが、神の創造行為により「後でできる体」(37節)で「それぞれ体をお与えになる」(38節=受動形)。「天上の体の輝きを持つ」(40節)とある。それは「太陽の輝き」(41節)とは異なる(黙示録22章5節see)。
  相異なった形態として42節「朽ちるものと、朽ちないもの」、43節「卑しいものと輝かしいもの」、「弱いものと、力強いもの」、44節「自然の命の体と、霊の体」(口語訳肉の体)と四つ挙げる。Natural bodyとSpiritual bodyである。霊肉二元論を否定する。「霊の体」は「最後のアダム」キリストに結ばれた者である(45節)。
  復活は「天に属するその人の似姿」になること(49節)。どこを切っても切り口は「金太郎飴」のように「キリストの死と命」という同じ神の似像(Image of God)である。

 50~58節 キリストの勝利
  「見よ、兄弟たちよ」(50節)と注意を喚起し、明確なメッセージが二つ示されている。先ずイザヤ書25章8節、ホセア書13章14節を引用し「既に死に勝利している」という勝利宣言である(54~55節)。
次に「勝利を賜わる神に感謝し…動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい」である(58節)。「励みなさい」は満ち溢れる、豊かに増し加わるという意味で、口語訳「全力を注いで励みなさい」となっている。

教会を造り上げる

2010-11-03 | Weblog
 第1コリントの手紙第14章

  4節「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます」(新共同訳)

 1節「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」。最大の賜物である愛を追い求めよと告げ、次に預言と異言の賜物について語る。異言は神に向かって神秘を語るが(2節)、預言は人に向かって語る。それは「人を造り上げ、励まし、慰める」ものである(3節)。
 4~19節 異言と預言とが対比される。
 先ず異言は自分を造りあげるが、預言は教会を造り上げる(4節)。「造り上げる」(オイコドメオー)は「建て上げる」「建設する」であるが、口語訳「徳を高める」と訳している。異言は自分を高めようと神秘を追い求める個人的排他性を帯びるが、預言は相互の奉仕と交わりを求め励ましと慰めになる。
この相違を楽器に擬えて語る。
 「笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているか、どうして分る…。ラッパがはっきりした音を出さなければ、誰が戦いの準備をしますか」(7~8節)。笛、竪琴、ラッパがそれぞれの音色で、一つのメロディを奏でる。もし演奏者が勝手にプープー、ピーピーと奏でているだけなら、何の意味も無い。異言を語っている状況は、これと同じではないか。
  預言の場合は違う。「霊で祈り、理性でも祈る~。霊で讃美し、理性でも讃美する~」(15節)。異言を唱える人々の祈りと賛美とは違い、初心者は感謝に「アーメン」と応える(16節)。
  この相違が明確なのは、「わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言を一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」(19節)。
  一万語に対して五語は二千分の一である。五つの言葉とは何か。「イエスース」(イエス)「クリストス」(キリスト)「セオス」(神)「フィオス」(御子)「ソーテール」(救い主)という説がある。頭文字を綴ると「イクスース」(魚)で、ローマ迫害時代に地下廊(墓地)に潜んで礼拝を守った時、壁に魚が刻まれている。他に15章3節の五つの単語という説もある。
  27~30節は、異言と預言の問題に関連した事柄で、秩序を保ち、混乱を招かないように、場合によっては28、30節「黙っていなさい」と勧めている。無闇やたらに質問して騒ぎ立てる人々への戒めである。
既婚の女性に対しては「教会では黙っていなさい」(34節)。「何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい」(35節)と勧める。これは霊的でない質問とも考えられ、家に帰って二人で話しい解決するようにということであろう。集会の秩序が求められていることが判る。
  この背景に、コリント教会にある問題の一つに「グノーシス」思想があり、知識に偏重した信仰理解から「霊的」と称して独断に陥り、忘我的陶酔や、誤った女性解放を唱える様なことが起きた(第1テモテ2章8~12節)。
結論的な勧めが39~40節にある。
  先ず聖霊の賜物として「預言を熱心に求めなさい」。第二は「異言を語ることを禁じない。しかしすべてを適切に、秩序正しく行いなさい」(40節)。
  「適切に」(タキス)はローマ13章13節「品位をもって」となっている。それは行儀よく、見苦しくなくということである。秩序を取戻して神の平和が支配するような交わりが求められている。ここに信仰共同体の形成がある。

存続するものは信仰と希望と愛

2010-11-02 | Weblog
   第1コリントの手紙第13章 

   13節「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」(口語訳)。

  この13章「愛の賛歌」は、「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に務めなさい」(12章31節)から始まる。つまり多くの賜物の中で「愛」が最も優れた大いなるものと告げている。そして14章1節「愛を追い求めなさい」と続く。
  1~3節 主語は「わたし」で、自分のこととして実際的な問い掛けをする。4~8節から「愛は~」となる。
 まず12章28~29節を受けて「異言と預言」について語る。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしい銅鑼(どら)、やかましいシンバル」(1節)。「銅鑼」「シンバル」は宗教儀式に用いる楽器で、人の感情を盛り立てる打ってつけの効果音、思考停止させ忘我の心境に誘う。
 2~3節「山を動かすほどの完全な信仰」「全財産を貧しい人々のために使い尽くす」「誇ろうとしてわが身を死に引き渡す」。自分の高めるだけの信仰、栄誉を求める慈善行為、名声を得ようとする死は、愛がなければ、虚しく、無益であると告げられる。口語訳「自分のからだを焼かれるために渡しても」とあるが殉教でなく自分の死を美化する意味である。
   「愛がなければ」(1、2、3節)とあるが、最高の賜物としての愛とすれば、人が愛そうと懸命に努力奮闘して得られる人間愛でないことは明らかである。
   お互いが「キリストのからだ」につながる部分であり、相互に調和し、共存して行く愛は、神がキリストによって示している愛である(ヨハネ福音書15章12節)。この愛を一般的な自然の愛=「兄弟愛、友愛」(フィレオー)と区別して、「アガペー」(1、2、3、4、8節)として表わす。「性愛」(エロス)は新約には出てこない。

   4節から主語が「愛」で、7節までに愛の働きが15ある。「愛は~でない」が八つ「愛は~である」は七つ挙げられる。「愛」に「わたし」と入れ替えて読むと、否定が肯定に、肯定が否定になってしまう。つまり自らの愛の不完全さが暴露される。
  4節「愛は忍耐強い。愛は情け深い」。口語訳「愛は寛容であり」七度を七十倍まで赦すキリストの愛が示される。「ねたまない」他者を認める。「愛は自慢せず」は他者と比較して自分を褒めない。5節「高ぶらない」は自負しない。「礼を失せず」荒荒しく聞かず苦しいことを言わない。「自分の利益を求めず」他者への配慮を持つ。「いらだたない」機嫌を悪くすることがない。「恨みを抱かない」、悪を心に記帳しない。6節「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」。記帳しない理由はこれである。7節「すべてを忍び」はすべてを覆い隠す意味になる(創世記9章20~22節、Ⅰペテロ4章8節)。「すべてを信じる」は、すべて最善を信じることに熱心である(モファット)。疑い深くないのである。「すべてを望む」は、あらゆる状況下で希望を抱く(同上)。

  8~13節では、この愛が永遠性と完全性とを持つことが示される。つまり預言や異言、知識は一部分であり不完全な部分をもっているが、この愛はキリストの日を待望して生きる者には、すべてを明らかに教え示してくれる根拠となる。今は幼児らしい知り方であるが、「その時」(主の日)には明解に判断し理解できるのである。
  「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」(口語訳)。

共に生きる喜び

2010-11-01 | Weblog
第1コリントの手紙第12章
 
  26節「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(新共同訳)

  1~11節 霊的な賜物
  「…聖霊によらなければ誰も『イエスは主である』とは言えないのです」(2節)。イエスのパンと杯によって一つの共同体(コイノニア)に結ばれた者は『イエスは主』と告白し『イエスはアナセマ』(神から見捨てられよ)とは言わない(3節)。これは霊の賜物である(使徒言行録2章4、38節)。
 霊の賜物(カリスマ)は主から与えられるもので、色々あり、その働きも色々ある(4~6節)。ある人には知恵の言葉、知識の言葉、信仰、癒し、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、異言、異言の解釈などである(8~10節)。「信仰」とは一般とは異なるもの(13章2節see)である。これらはすべて唯一の神から一人一人に現われ、全体の「益となる」(7節)。「スムフェロー」は共に助け合うということで、12節以下で展開される。
11節「これらすべてのことは、同じ唯一の霊の働きであって…一人一人に分け与えて下さる」。ここで厳密に区別しなければならない事は、当時の諸宗教に見られた諸霊信仰(アニミズム)である。

  12~31節 一つの体、多くの部分
   12節「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」。すでに7、11節で述べている通り、それぞれの賜物を「多くの部分」の働きとして持つ「一つの体」であると説く。「一つの体」という場合、ユダヤ人ギリシャの区別はなく、奴隷と自由人という身分の差もなく、結ばれている(13節)。
 体の部分はその働きを共有し、排除することが出来ない賜物として連なっている(14~21節)。つまり多様性の一致である。
 特に体の弱い部分、見劣りのする部分に対してはそれをカバーし、また引き立てることをする(23~24節)。うるわしいキリストの共同体が形成されるのである。互いに配慮し合い、苦しみも喜びも共有するのである(25~26節)。ローマ12章15~16節にある。
 27節から、7~10節に述べている賜物の働きを、順序を変えて語る。
28節「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです」。
 最初の三つはキリストの共同体(コイノニア)の中核となる賜物で、一致と連帯の鍵を持つ。何故ならその賜物は、聖霊が語らせることば「ケリグマー・宣教」(1章21、ローマ16章25節etc)だからである。
 ここで最後に置かれている「異言を語る」賜物と、その解釈する賜物(10節)とが大きなものと考えるな、「もっと大きな賜物を受けるように熱心に求めよ」(31節)とある。それは祈りによってである(14章12~15節)。