第Ⅱコリントの手紙第7章
10節「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(新共同訳)
1節「愛する人 、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう」。ここでいう「このような約束」とは、生ける神の神殿とされ神を迎え入れる約束である。そうでなければいつでも逆行し、一層悪くなる(マタイ12章43~45節see)。「神を畏れて」とは、神の臨在を持つことである。
2節「わたしたちに心を開いてください。…」。パウロに対する批判で偏狭な心をもつことにないようにと願う(6章11~12節)。何故なら「生と死を共にする」という厚い信頼を寄せているので、わたしは慰めに満たされ、苦難にあっても喜んでいると告げる(3~4節)。
5~16節は、既に学んだ通り2章1~13節からの文脈につながっている。パウロは3章から7章4節までは、手紙が大きく脱線している箇所と理解される。
パウロはコリントに「涙の手紙」を携えてテトスを先に送ったのだが、マケドニヤで彼の報告をうける迄は、不安で気落ちしていた(5節)。
ところがテトスに再会し、コリント教会の様子を伺って大きな慰めを得ることができたのである(6~8節)。
「わたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ…」(7節)。手紙によってパウロの心情に強く共感したことを指す。
あの手紙であなた方を悲しませたことを知ったが、わたしは後悔していない。何故なら「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ」(9節)、更にあなた方にどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたか知れないからである(11節)。
「例の事件」とあるのは定かではないが、第Ⅰの手紙5章1~2節にあった不道徳とその処置に関する事柄であろうと思われる。
ここで留意したいのは、二種類の悲しみがあると述べていることである。パウロは手紙を書いたことを後悔しないと言っているが、この後悔(repentance)は「世の悲しみ」で救いには至らないもの、これに対して「神の御心に適った悲しみ」は、救いに至る「悔改め」(conversion)である。ここで、俗に「後悔先に立たず」と言われるように、悔い多き人生を送るのではなく、悲しみが慰めと喜びに変えられるconversionが示されるのである。
13節以下には、テトスに手紙を託してコリント教会に送りだした時の様子が伺える。彼はコリントの信徒たちを信頼していて、テトスに誇っていたが、それが裏切られることがなく真実であったと述べているのである(14節)。更にパウロは
「テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せている」と言う(15節)。全幅の信頼である。
10節「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(新共同訳)
1節「愛する人 、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう」。ここでいう「このような約束」とは、生ける神の神殿とされ神を迎え入れる約束である。そうでなければいつでも逆行し、一層悪くなる(マタイ12章43~45節see)。「神を畏れて」とは、神の臨在を持つことである。
2節「わたしたちに心を開いてください。…」。パウロに対する批判で偏狭な心をもつことにないようにと願う(6章11~12節)。何故なら「生と死を共にする」という厚い信頼を寄せているので、わたしは慰めに満たされ、苦難にあっても喜んでいると告げる(3~4節)。
5~16節は、既に学んだ通り2章1~13節からの文脈につながっている。パウロは3章から7章4節までは、手紙が大きく脱線している箇所と理解される。
パウロはコリントに「涙の手紙」を携えてテトスを先に送ったのだが、マケドニヤで彼の報告をうける迄は、不安で気落ちしていた(5節)。
ところがテトスに再会し、コリント教会の様子を伺って大きな慰めを得ることができたのである(6~8節)。
「わたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ…」(7節)。手紙によってパウロの心情に強く共感したことを指す。
あの手紙であなた方を悲しませたことを知ったが、わたしは後悔していない。何故なら「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ」(9節)、更にあなた方にどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたか知れないからである(11節)。
「例の事件」とあるのは定かではないが、第Ⅰの手紙5章1~2節にあった不道徳とその処置に関する事柄であろうと思われる。
ここで留意したいのは、二種類の悲しみがあると述べていることである。パウロは手紙を書いたことを後悔しないと言っているが、この後悔(repentance)は「世の悲しみ」で救いには至らないもの、これに対して「神の御心に適った悲しみ」は、救いに至る「悔改め」(conversion)である。ここで、俗に「後悔先に立たず」と言われるように、悔い多き人生を送るのではなく、悲しみが慰めと喜びに変えられるconversionが示されるのである。
13節以下には、テトスに手紙を託してコリント教会に送りだした時の様子が伺える。彼はコリントの信徒たちを信頼していて、テトスに誇っていたが、それが裏切られることがなく真実であったと述べているのである(14節)。更にパウロは
「テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せている」と言う(15節)。全幅の信頼である。