何でもかんでも、みゆきさんと結びつけるな!と言われそうですが、ここ数日、
「小さき負傷者たちの為に」(「真夜中の動物園」)
が、頭の中をぐるぐる回っています。
特に、2番の歌詞が。
『♪仕方なく 小さき者たちは
己が身を 比べることなく
傷ついて 小さき者たちは
己が身の 落度かと詫びる
心ある人間と 心ない人間の
さしのべるその腕を 選びとるすべもなく
助け無く 運命に耳を澄ます』
悲しみと怒りと、悔しさと恐怖。
せめて、負傷者であってくれたら、そんな思いと一緒に頭の中を回ります。
両親によって、五才の彼女が命を奪われた事件。
最初は、かわいそうにというくらいの気持ちでしたが、事件の詳細がわかるにつれて、やりきれない思いでいっぱいになりました。
朝4時からひらがなの練習をしていた彼女。
ちゃんとした言葉、そして、ちゃんとした文章を書いていた彼女。
言葉を書くことが、唯一の彼女の希望だったような気がします。
その希望も踏みにじられる現実。
もし、自分が、彼女なら。
想像するだけで、絶望感で息苦しくなり、身体が硬直してきます。
絶望感と書きましたが、五才の彼女は希望や絶望という言葉は知らなかったでしょう。
普通、五才で知る必要も必然もない言葉ですから。
言葉は知らないのに、そういう状況におかれる理不尽さに、怒りと恐怖を感じます。
彼女の苦痛の欠片も想像できなかった犯人(あえて両親とは書きません)に対して。
いや、想像はしていたのでしょう、ただそれは我が身に置き換える想像ではなく、自分の影響力の大きさを計り、自己満足するための想像だったような気がします。
犯人の気持ちは、正直理解できません。
理解できなくても、何となく想像はできます。
八つ当たりやストレスの捌け口というのもあると思いますが、自分が上の立場で他者を支配しているという歪んだ自己満足が大きいような気がするんです。
虐待という事実を「しつけ」という都合のいい言葉にすり替えて、自己を正当化して、自分が偉くなった気になっていたのではないでしょうか。
これは、愚かさというより、人間の恐ろしさを感じます。
恐ろしいことをしているという、自覚を持つことなく、自己正当化できれば、どんな残虐なことでも、歯止めなくやってしまう、恐ろしさ。
この恐ろしさは、この事件だけではなく、日大の事件の時にも感じていました。
あの監督の指導法として紹介されていたのが、有望選手を試合から外したり、練習から外したり、部員の前で叱責したりと精神的に追い込んでいく方法。
「ハマる」と言われていたようです。
そうして、精神的に追い込んた後に、試合に出された選手は、何でも監督の言うことを聞く選手になる。
これって、洗脳ではないですか?
選手の殻を破るため、一段引き上げるためとか言って、好んで、この監督は行っていたというのです。
選手の能力を上げると自己正当化をして、人を思い通りに操る、支配することを楽しんでいたんじゃないかと思えたんです。
その指導法に対しての有識者の方のコメントで、
「昔は、そういう指導もありましたが、今の時代には合わない指導法ですね」
というのがありました。
わりと、サラリと言われたのを聞いて、背筋がゾッとしたんです。
昔とか今の問題なのか?と。
洗脳だとは、思われてないんだなと思うと、恐ろしくなってきました。
考え過ぎだと言われるかもしれませんが、私は恐ろしんいです。
みゆきさんの「4.2.3」に、
『この国は危うい』
というフレーズがありますが、この時にそれを思い出しました。
日大の事件も彼女の事件も、歪んだ人の欲望ほど恐ろしいものはないと、思わされる事件でした。
不謹慎かもしれませんが、こういう事件があると、ここまで生き延びてきたことが、いかに幸運であったかと思い知らされます。
そして、今は亡き両親や回りの人々に感謝の気持ちでいっぱいになります。
当たり前に思っていることが、とても幸運なことなんだと認識させてもらえました。
本当に不謹慎かもしれませんが、彼女に感謝です。
何もできなくてごめんなさい、という気持ちと、教えてくれてありがとうという気持ちです。
ありがとうございました。
ご冥福をお祈りします。
安らかにお眠りください。
『♪卑怯と闘う同志でありたい
小さき小さき負傷者たちの為に』
支離滅裂で、すみません。m(._.)m
やりきれない気持ちを整理するつもりで、書き出したのですが、、、。
それでも、お読みいただいて、ありがとうございます。
では、また。
「小さき負傷者たちの為に」(「真夜中の動物園」)
が、頭の中をぐるぐる回っています。
特に、2番の歌詞が。
『♪仕方なく 小さき者たちは
己が身を 比べることなく
傷ついて 小さき者たちは
己が身の 落度かと詫びる
心ある人間と 心ない人間の
さしのべるその腕を 選びとるすべもなく
助け無く 運命に耳を澄ます』
悲しみと怒りと、悔しさと恐怖。
せめて、負傷者であってくれたら、そんな思いと一緒に頭の中を回ります。
両親によって、五才の彼女が命を奪われた事件。
最初は、かわいそうにというくらいの気持ちでしたが、事件の詳細がわかるにつれて、やりきれない思いでいっぱいになりました。
朝4時からひらがなの練習をしていた彼女。
ちゃんとした言葉、そして、ちゃんとした文章を書いていた彼女。
言葉を書くことが、唯一の彼女の希望だったような気がします。
その希望も踏みにじられる現実。
もし、自分が、彼女なら。
想像するだけで、絶望感で息苦しくなり、身体が硬直してきます。
絶望感と書きましたが、五才の彼女は希望や絶望という言葉は知らなかったでしょう。
普通、五才で知る必要も必然もない言葉ですから。
言葉は知らないのに、そういう状況におかれる理不尽さに、怒りと恐怖を感じます。
彼女の苦痛の欠片も想像できなかった犯人(あえて両親とは書きません)に対して。
いや、想像はしていたのでしょう、ただそれは我が身に置き換える想像ではなく、自分の影響力の大きさを計り、自己満足するための想像だったような気がします。
犯人の気持ちは、正直理解できません。
理解できなくても、何となく想像はできます。
八つ当たりやストレスの捌け口というのもあると思いますが、自分が上の立場で他者を支配しているという歪んだ自己満足が大きいような気がするんです。
虐待という事実を「しつけ」という都合のいい言葉にすり替えて、自己を正当化して、自分が偉くなった気になっていたのではないでしょうか。
これは、愚かさというより、人間の恐ろしさを感じます。
恐ろしいことをしているという、自覚を持つことなく、自己正当化できれば、どんな残虐なことでも、歯止めなくやってしまう、恐ろしさ。
この恐ろしさは、この事件だけではなく、日大の事件の時にも感じていました。
あの監督の指導法として紹介されていたのが、有望選手を試合から外したり、練習から外したり、部員の前で叱責したりと精神的に追い込んでいく方法。
「ハマる」と言われていたようです。
そうして、精神的に追い込んた後に、試合に出された選手は、何でも監督の言うことを聞く選手になる。
これって、洗脳ではないですか?
選手の殻を破るため、一段引き上げるためとか言って、好んで、この監督は行っていたというのです。
選手の能力を上げると自己正当化をして、人を思い通りに操る、支配することを楽しんでいたんじゃないかと思えたんです。
その指導法に対しての有識者の方のコメントで、
「昔は、そういう指導もありましたが、今の時代には合わない指導法ですね」
というのがありました。
わりと、サラリと言われたのを聞いて、背筋がゾッとしたんです。
昔とか今の問題なのか?と。
洗脳だとは、思われてないんだなと思うと、恐ろしくなってきました。
考え過ぎだと言われるかもしれませんが、私は恐ろしんいです。
みゆきさんの「4.2.3」に、
『この国は危うい』
というフレーズがありますが、この時にそれを思い出しました。
日大の事件も彼女の事件も、歪んだ人の欲望ほど恐ろしいものはないと、思わされる事件でした。
不謹慎かもしれませんが、こういう事件があると、ここまで生き延びてきたことが、いかに幸運であったかと思い知らされます。
そして、今は亡き両親や回りの人々に感謝の気持ちでいっぱいになります。
当たり前に思っていることが、とても幸運なことなんだと認識させてもらえました。
本当に不謹慎かもしれませんが、彼女に感謝です。
何もできなくてごめんなさい、という気持ちと、教えてくれてありがとうという気持ちです。
ありがとうございました。
ご冥福をお祈りします。
安らかにお眠りください。
『♪卑怯と闘う同志でありたい
小さき小さき負傷者たちの為に』
支離滅裂で、すみません。m(._.)m
やりきれない気持ちを整理するつもりで、書き出したのですが、、、。
それでも、お読みいただいて、ありがとうございます。
では、また。