テレビや新聞、その他諸々のメディアの解説を読むたびに、
ジハードについての解説が足りない印象を受ける。
ジハードは、日本では「聖戦」と訳されるが、これは少し意味が違う。
(私はこの手の直訳主義の翻訳は非常に問題があると考えている)
実のところ、ムスリムにとってジハードは良い意味を持つ言葉だ。
ジハードは、その第一義として、自分との戦い、奮闘努力を意味する。
次に、「改革」を意味するジハードがあり、
例えば、識字教育のジハード、衛生のジハード、汚職追放のジハードという風に用いる。
西洋にも、クルセイド(十字軍)という言葉を、改革運動を意味するために使うが、
それと同じもので、特に宗教的な意味はない。
仮に宗教的な意味を含めるさいには、
「イスラームの」や「聖なる」という形容詞がつく。
では、なぜこの言葉が何やら物騒な言葉として使われるようになったかというと、
イスラム「原理主義者」とイスラム差別主義者(イスラモフォビア)が
お互いに、この言葉をもって自身の主張を正当化させてきたからである。
(原理主義者というのも問題のある訳語で、
実際にはイスラム直訳主義あるいは単純解釈主義とでも訳すべきものだ。)
どちらも、コーランに戦争を賛美する部分があることをもって、
テロリズムを美化あるいは批判している。
では、コーランにはどのように書かれているのか?
例えば、次のような一文がある。
「汝らに戦いを挑む者があれば、アッラーの道において堂々とこれを迎え撃つがよい。
だが、こちらから不義をしかけてはならぬぞ。
アッラーは不義なす者どもをお好きにならぬ。
そのような者と出くわしたらどこでも戦え。
そして彼らが汝らを追い出した場所から、こちらで向こうを追い出してしまえ。」
読みようによっては、アメリカやイギリス、フランスのような
侵略国と戦えとも解釈できるが、重要なのは赤文字の部分で、
この文言で言いたいことは、自衛の正義であり、
自分たちから攻撃をしかけることではない。
人質などは、もってのほかなのである。
ムスリムの戦争観を表すのにもっとおあつらえ向きの言葉もある。
「あなたに歯向かって攻撃してくる者とは、神の道において戦うがよい。
だが、公正さと権利というラインを踏み越えてはならない。
誠に、神は侵略者をお好みにならない」
他にも、初代シーア派の指導者イマーム・アリーは、自らの軍勢に対しこう述べた。
「神の助けにより、
敵が敗北して戦場から敗走したならば、
逃げる者や逃げ遅れた者を殺したりしてはならない。
命乞いする女性たちが、
たとえあなた方の指揮官たちにまで
罵詈雑言を浴びせても、彼女達を苦しめてはならない」
2代目のオマルは、聖地ベイトルモガッダスを征服した際、
イマーム・アリーに相談した上で用意してあった次の書簡を読み上げた。
「この書簡は、ベイトルモガッダスの人々に対し、
イスラム政権の支配者オマルが出したものである。
全てのキリスト教会や、全ての人々の生命と財産にかけて次のことを約束する。
キリスト教会を占領、破壊したり、そこから何かを持ち去ることは許されない。
キリスト教徒は、宗教の問題において完全に自由である」
要するに、住宅への放火や民間人の殺害は、
イスラム教の教えに反しており、世界各地のイスラム教の権威者は、
原理主義者の言い分は、まったく的外れだと考えているし表明もしている。
自爆テロにしても、イスラム教では自殺を禁じているので、これもまた教えに反する。
一部知ったかぶりのジャーナリストや学者は「場合によっては許される」と説明するが、
その言い分は原理主義者のそれであり、イスラム教のものではない。
最後に、なぜ原理主義者や過激テロが生まれたかというのを考えると、
これは何といっても、歴史的に欧米列強が中東やアジア、アフリカを
侵略し、その際に近代式の戦争を教えたからに他ならない。
住宅への放火、民間人の殺害は英米仏侵略トリオの得意技だ。
特にアメリカは現地のゲリラに拷問などの非人道的な手段を伝授し、
自分たちの代わりに転覆させたい政府と戦わせてきた歴史がある。
アルカイダやイスラム国はその典型とみなされている。
加えて、中東やアフリカというとイスラム一色というイメージがあるが、
実のところ、かの地では部族主義というものが未だに色濃く存在する。
暴力を受け入れる素地はある程度あったということだ。
まぁ、どちらにせよ、自爆テロなどはアメリカがムスリムの兵士を
養成しだした1983年以降から見られる現象であり、
列強の影響が全くないというのは、完全に誤りと言えるだろう。
ジハードについての解説が足りない印象を受ける。
ジハードは、日本では「聖戦」と訳されるが、これは少し意味が違う。
(私はこの手の直訳主義の翻訳は非常に問題があると考えている)
実のところ、ムスリムにとってジハードは良い意味を持つ言葉だ。
ジハードは、その第一義として、自分との戦い、奮闘努力を意味する。
次に、「改革」を意味するジハードがあり、
例えば、識字教育のジハード、衛生のジハード、汚職追放のジハードという風に用いる。
西洋にも、クルセイド(十字軍)という言葉を、改革運動を意味するために使うが、
それと同じもので、特に宗教的な意味はない。
仮に宗教的な意味を含めるさいには、
「イスラームの」や「聖なる」という形容詞がつく。
では、なぜこの言葉が何やら物騒な言葉として使われるようになったかというと、
イスラム「原理主義者」とイスラム差別主義者(イスラモフォビア)が
お互いに、この言葉をもって自身の主張を正当化させてきたからである。
(原理主義者というのも問題のある訳語で、
実際にはイスラム直訳主義あるいは単純解釈主義とでも訳すべきものだ。)
どちらも、コーランに戦争を賛美する部分があることをもって、
テロリズムを美化あるいは批判している。
では、コーランにはどのように書かれているのか?
例えば、次のような一文がある。
「汝らに戦いを挑む者があれば、アッラーの道において堂々とこれを迎え撃つがよい。
だが、こちらから不義をしかけてはならぬぞ。
アッラーは不義なす者どもをお好きにならぬ。
そのような者と出くわしたらどこでも戦え。
そして彼らが汝らを追い出した場所から、こちらで向こうを追い出してしまえ。」
読みようによっては、アメリカやイギリス、フランスのような
侵略国と戦えとも解釈できるが、重要なのは赤文字の部分で、
この文言で言いたいことは、自衛の正義であり、
自分たちから攻撃をしかけることではない。
人質などは、もってのほかなのである。
ムスリムの戦争観を表すのにもっとおあつらえ向きの言葉もある。
「あなたに歯向かって攻撃してくる者とは、神の道において戦うがよい。
だが、公正さと権利というラインを踏み越えてはならない。
誠に、神は侵略者をお好みにならない」
他にも、初代シーア派の指導者イマーム・アリーは、自らの軍勢に対しこう述べた。
「神の助けにより、
敵が敗北して戦場から敗走したならば、
逃げる者や逃げ遅れた者を殺したりしてはならない。
命乞いする女性たちが、
たとえあなた方の指揮官たちにまで
罵詈雑言を浴びせても、彼女達を苦しめてはならない」
2代目のオマルは、聖地ベイトルモガッダスを征服した際、
イマーム・アリーに相談した上で用意してあった次の書簡を読み上げた。
「この書簡は、ベイトルモガッダスの人々に対し、
イスラム政権の支配者オマルが出したものである。
全てのキリスト教会や、全ての人々の生命と財産にかけて次のことを約束する。
キリスト教会を占領、破壊したり、そこから何かを持ち去ることは許されない。
キリスト教徒は、宗教の問題において完全に自由である」
要するに、住宅への放火や民間人の殺害は、
イスラム教の教えに反しており、世界各地のイスラム教の権威者は、
原理主義者の言い分は、まったく的外れだと考えているし表明もしている。
自爆テロにしても、イスラム教では自殺を禁じているので、これもまた教えに反する。
一部知ったかぶりのジャーナリストや学者は「場合によっては許される」と説明するが、
その言い分は原理主義者のそれであり、イスラム教のものではない。
最後に、なぜ原理主義者や過激テロが生まれたかというのを考えると、
これは何といっても、歴史的に欧米列強が中東やアジア、アフリカを
侵略し、その際に近代式の戦争を教えたからに他ならない。
住宅への放火、民間人の殺害は英米仏侵略トリオの得意技だ。
特にアメリカは現地のゲリラに拷問などの非人道的な手段を伝授し、
自分たちの代わりに転覆させたい政府と戦わせてきた歴史がある。
アルカイダやイスラム国はその典型とみなされている。
加えて、中東やアフリカというとイスラム一色というイメージがあるが、
実のところ、かの地では部族主義というものが未だに色濃く存在する。
暴力を受け入れる素地はある程度あったということだ。
まぁ、どちらにせよ、自爆テロなどはアメリカがムスリムの兵士を
養成しだした1983年以降から見られる現象であり、
列強の影響が全くないというのは、完全に誤りと言えるだろう。