運動会の絵を描いてて…
そういえば少し前、60歳前の人と話題になった話。
今、運動会で1等賞をとっても何もご褒美はない 。
随分昔、1等から3等までくらいはノートや鉛筆を貰ったりした。
(参加賞もあったかもしれない。)
勉強で目立たなかった子もこういうことを励みに頑張ったし、
取るに足らないような微々たる褒美だが嬉しかった。
何故ご褒美はなくなったんだろうね、という話をした。
いつからか平等と言う観念の下、こういうことが廃止されてしまった。
この場合の平等、ずれた論点で採り上げられているようで、
何とも気持ちが悪く、納得がいかない。
モンスターペアレントという言葉が近頃蔓延っているが、
この頃から密かにであるが、もう既に水面下で蔓延し、
教育のブレインを洗脳し始めていたかもしれない。
学校が社会に出るための人間を育てる場なら、
少なからず競争と言うものと向き合うことを教えるべきだと思う。
私は全然スポーツは得意ではないし(寧ろ運痴)、
手放しで運動会が楽しかったとは決して言えない。
勿論この頃のような褒美に値する働きも出来ていない。
でも、褒美を貰った人を同じ赤組或いは白組として誇りに思い、
称え、自分は自分のできるジャンルで自分を表現しようと思った。
運動会の場で滲めな思いをしてもそれを跳ね除ける打たれ強さは、
運動会に限らず、実際の経験を積んでいくことでしか身に付かないと思う。
多感な子供は時として卑屈になり、歪んだ意識に支配されたりするが、
それを汲み取り正しい方向へ導くのが教師の役目であろうと思う。
人間の感情や感性は多様であるから、卑屈や嫉妬のような歪んだものを
闇雲に悪い感情として否定してはいけないと思うのだ。
それらは社会を生きる逞しさを身に付けるための切欠で、
そういう能力を得る絶好のチャンスのように思う。
子供がそういう負の感情を得た時、
それを発露として正しく転換するか否かは、そうすることが出来るか否かは、
それこそ教育者の仕事であり、その能力に掛かっているように思う。
社会に出た時、そうして身に付けた能力で、
味わった悔しさや惨めさをバネにして、社会の荒波を乗り越えていく。
そしてそのことが正しく評価される事が望ましいのだと思う。
勿論、表面的な成果をちやほやするのではなく、
逆境を乗り越え賞賛を得た者が正しく認められ受け容れられる、
そんな世の中がなければいけないのだけれど。
仮にその部分で世の中は厳しく理不尽だとしても、
負の感情を正しく転換する事ができれば、
つまり子どもの頃に教育によってしっかりと培われた自己の尊厳、
裏づけの上に成り立つ自信があれば、世の中の理不尽は苦にならない、
そんな気がする。
悪戯に、卑屈になり人を羨み自己を否定し、自己嫌悪に陥ったり、
自暴自棄になる、なんて事にはならない、
自ずと、自分は自分、自分ができることを一生懸命やるだけ、
そんな答えに行き着く。
人と比べない教育が、逆に競争社会の社会に放り出されたあとの、絶望感、焦燥感、劣等感・・を生むってことに、なぜ教育者は気づかなかったのか、はたまた気づいている人もいたけど、動かせない力があったのか・・。
世の中の不条理に、時々諦めの気持ちも抱いてしまいますが、さて・・私なんかにもできることがないのかな・・と唸ってます。。
競争には勝ち負けがあるからよくないというけれど、社会は
勝ち負けがやっぱりあるし負ける悔しさも学ばないでどうするか?!
って思う。
善くも悪くも人は競うものだ。そこからいいものがうまれてくるし
負けたものもずっと負けたままではいられないと奮起するもの
だろうと思う。一度の挫折で人生を投げてしまえる人が増えた気が
するがそれは挫折に耐性がないからだと思う。
もったいない、人生一度なんだから何度でも諦めずにがんばりたい
反対派の私は希少かなと思っていました。
なぜこんな風になっちゃったんですかね~。
是非再構築して、私たちの子孫の代には良い形になって欲しいです。
何故か曇り・・・白い影がかかってしまい・・・
人影も・・・楽しさも薄らいでしまって・・・
私の記憶にあるモノとはかなりかけ離れた印象でした・・。
こうしてみると結構沢山の方が同様のことを感じているのかも。
>一度の挫折で人生を投げてしまえる人が増えた気が
するがそれは挫折に耐性がないからだと思う。
私も同感です。
人間の凄いところって、良くも悪くも慣れることが出来るところ。
打たれ強さはそういう経験の上に成り立つのですよね。
雲の上から眺めてる気分になっちゃいました。
roseさんはかけっこ得意でしたか?
私は苦手だったけど、一丸となって
チームのみんなを応援するのも楽しかったです。
四国の方とかは、かけっこのご褒美とかありましたか?