気づきの日々

毎日、何気ない言葉や思いつきに、ふと気づかされる時があります。
そんな日々のことを書いてみることにしました。

乗り越える

2012-05-06 14:39:25 | 日記

昨日書いた記事で、はっとした事がありました。

「どうやら雛鳥同士の戦いで 負けたら記憶を失くす みたいで…」

逃げずに間違いを修復する 事で、消えていた記憶が戻る のかなと。。。」

繋がっていました。
自分で書いてて、まだよく解っていなかったけど、
戦いで負けて記憶を失くすのは、もしかしたら
「自分との闘い」が鍵を握っているんじゃないのかなって思ったんです。

自分に負けて逃げるから(その場から離れるから)、その事を「忘れたくなる(忘れる)」。
結果的に記憶を失くす。 → 悪い記憶は思い出したくない。
記憶は誰かに失くされたのではなく、自分が逃避する事で失くしていたのかもしれない。
だから逃げずに現実を受け入れる事で、過去に逃げて逃避した分の記憶が戻る。
結果的に、過去の記憶を思い出す事になる。
そういう事もあるんじゃないのかなと思えました。

実際、通り魔のような怖い現場に出会ったら、やっぱり真っ先に逃げ出すと思う。
一番遠くに逃げて行くのが私だと思う。
そういう弱い自分を知っているからこそ、目の前の事から逃げないようにしたい。

誰かに突然、自分の思ってもいない事を言われるのは、
ある部分では言い方は悪いが「心の通り魔に合っている」事と似ていると思う。
ある日突然、自分の心に「グサリ」と突き刺さるのだから。

でもそれは自分が気付かなくちゃいけない事に気付いてないからとも言える。
「グサリ」の度合いが強ければ強いほど、気付いていない度合いも大きい。
何度もそこから逃げて放置してきたから、
溜まりに貯まって気付きのショックも大きくなるのだと思う。
心の痛みを自覚できたら、それは自分が変われる大きなチャンスなのかもしれない。

もし、そんな痛い目に合わないようにと「書かない」事で、
そこから遠ざかったら自分の心の傷は守られるかもしれない。
でも、それは「逃げて誰にも触れられない安全な場所に隠れている」だけだと思う。
私が過去に草となって「話すことをやめた」事と同じ。
きっと、過去に何度も同じように逃げていたんだと思う。

実家近くのバス停に「おしの浦分かれ道」という名前があるが、
昔は何でこんな変な名前なんだろうと思っていた。
でも今は、その名前の意味が解る。
きっと「話すことを止めて裏(見えない世界)に行くか、行かないかの分かれ道」という
そんな意味があったのではないかな。
そしてその近くで育ったのだから、そういう過去を送っていたという事だと思う。
バス停で目にする度に「(今度は)逃げるなよ!」と言われていたのかもしれない。

だから逃げる事で怖い事に合わなくなっても、それは前進ではなくて後退なんだよね。
自分から遠ざかって壁を作り、それ以上進歩する事がないのだから。
やはり前に進むには怖くても逃げてはいけないんだよ。
自分の中の怖さを克服しなくてはいけない。
私も心の葛藤があったけど、最後に逃げたくないと思ったから解ったことがあるもの。
やはり逃げずに経験する事で、理解出来る部分があるし、それはとても大きいと思う。

前のコメントで書いたように、「通り魔に何故遭遇するのか解らないから、
私は自分の波長を上げて遭遇しないようにするしかないと思っていた。」
でもそれは「逃げて現場から遠ざかる」事と同じだと、理解した。
「見ざる、言わざる、聞かざる」となって現場から遠く離れた高い所から
傍観しているのと同じだと、夢で教えてくれた。
それが昨日の夢の、山の上の方に向かって案内された「展望コース」だと思う。
「おしの裏」の方に行く道と同じなんですよね。
それでは怖い事は無くならない。
むしろそんな自分が怖い事の因を作っている事になる。

どんな小さな事でも逃げないで進む事が大事なのかな。
大きな借金を一度に返すのは難しいから、日頃の小さな借金を作らないようにする。
そういう事で防げるのかな。

日頃からそうやって逃げない選択を繰り返していたら
逃げたり放置したする因は、きっと出来ないと思うから。

弱い心があると自覚するからこそ、逃げちゃいけないんだね。
自分の心の葛藤と向き合って、乗り越えなくちゃいけない。
それで、怖い事はなくなるのかもしれない。
少なくとも、自分の中の恐怖は乗り越えることで消化できると思うから。

 

コメント (2)
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