次に生きている中で感じる喪失感について感じた事を書きたいと思います。
既にあったものが無くなるという欠けの喪失感。
大切な人を失う、自分の所有していた大事なモノを失う(自分で無くした、誰かに盗まれた)
そう言った時、喪失感を感じると思います。
最初はあったのに、今は自分の元にない。
人にしろモノにしろ、形あるものは常に変化しています。
ただ、今まで側にあったものが無くなるというのはとても辛いです。
生きている中で家族や恋人、友人知人、ペットなど誕生とお別れの繰り返しを何度も経験し、その度に喜びと喪失感を味わいます。
特に喪失感は、もう二度と逢えないという事実がそうさせるのでしょうね。
病気とかでさよならの準備期間があると心の整理も少しは出来るのかもしれませんが、突然去ってしまうケースも多々あってそちらの方はやるせ無さも大きいと思います。
私もここ数年で父と兄を病気で亡くし、天涯孤独の身となってしまいました。
ペットの猫は、保護して一年目のお祝いをした数日後に帰ってこなくなりました。
今となっては、もっと母や父や兄とそしてペットと会って話しておけば良かったと後悔する事も多いです。
でも毎朝手を合わせて話かけているせいか、不思議と魂が側にあることを感じます。
もう二度と逢えないのだけど、思い出は私の胸の中にあり、今も魂を感じることが出来、そして未来もいつも一緒にあると感じられる。
夢でもたまに逢えます。
過去、現在、未来と魂は永遠に側にあり続けて私を見守ってくれているように感じます。
今、父が、母が、兄が、こんな事を言っているのではないかなと、そう感じる事も多いです。
これは過去の思い出のシーンではなくて、ちゃんと今も一緒に私の中で存在し続けているという事です。
だから形はなくても魂をちゃんと感じる事ができているので、寂しいという感覚は薄らぎました。
形は見えないけど、決して存在していないわけではないのですね。
月と一緒です。
満月は目に見えて会う事ができるけど、新月は見えないから会えない。
でも例え見えなくても、月はちゃんとそこに存在している。
人間の目には見えなくても存在している魂はたくさんあるという事ですね。
これも多様性と言えるのかな。
家族を亡くして感じることは、今生きている大切な人たちともっと会って話しをして理解を深めたいという思いが強くなった事です。
過去に戻って会いたい人に会う事は出来ないけど、生きていればこれから先に会う事は可能なのです。
今は会えない事情があったとしても、未来は会える可能性が限りなく広がってます。
だから過去の苦い経験をふまえて、今できる事を探して行った先に、自分が行きたい未来に行けるような気がします。
コロナ禍の時代でも過去を経験して解ってきたことがあるし、制限があっても今出来る事はたくさんある。その制限さえも、自分が作っている狭い世界のモラルなのかもしれない。
今出来る事を見つけて自分が望んでいる方を選んで行った先に、望んでた未来へと繋がって行くと思える。
だからこれからの世界は他人の価値観で進むのではなく、自分のオリジナルな価値観で創造して行きたいなと強く思ってます。
喪失感については、まだ「見える世界と見えない世界の境界線」が自分の中でもやっとしてているので、また別の感じ方が出てくるかもしれません。
その時に、また書きたいと思います。