美里町の探検日記GP

津市美里町(旧美里村)に住んでいるコレクターです。コレクション自慢(?)のほか、津のこと、美里のことも書いていきます。

幕府奉公衆 長野忠三郎(増補改訂版)

2024-12-15 21:15:39 | 津のこと


「幕府奉公衆 長野忠三郎(増補改訂版)」
編集:美里ボランティアガイド会
発行:2024年11月

室町時代後期、幕府将軍直属の軍事勢力として編成された「幕府奉公衆」に所属し、
京都を舞台に活躍した長野工藤家の若者たちを描いた歴史小説集です。
2022年に第1話から第3話を発表しましたが、
これに第4話から第7話を加え、増補改訂版として刊行したもの。

応仁の乱以後の、幕府の力が弱まり、混沌としていく社会を背景に、
武力だけを頼りにするのではなく、
若者たちが、知恵とチームワークで、痛快に事件を解決していきます。
読みながら、室町時代とは、長野工藤氏とは、が理解できる内容となっています。

登場人物や事件はすべてフィクションですが、
この時代だったら、こんなことも起きたのだろうなと
妙に納得させられる出来事が、各話において設定されています。

現在のところ、配布あるいは販売の予定はありません。
「美里ふるさと資料館」の蔵書として複数冊を所蔵しており、
館内で読むことができます。

美里ふるさと資料館
津市美里町北長野1445
TEL 059-279-3501

写真展 美里のお地蔵さま(美里ふるさと資料館)

追記)
「幕府奉公衆 長野忠三郎(増補改訂版)」は三重県立図書館にも所蔵されています。
美里ふるさと資料館には遠くて行けない、という方は
ご近所の公共図書館に、三重県図から借りていただくようご相談ください。

長野工藤三郎左衛門尉、騎馬で敵陣に突入する

長野政高、応仁の乱に出兵する
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延命地蔵(津市美里町五百野)

2024-12-13 21:15:35 | 津のこと

(延命地蔵の紙芝居/美里ボランティアガイド会)

津市美里町五百野、
下之郷集会所の前に、大小2つの祠があり、
大きいほうの祠に祀られているのが「延命地蔵」と呼ばれる地蔵さんです。



この地蔵さんは、
江戸時代に、五百野の外山(とやま)の人が江戸で発注し、
牛込(うしごめ)で作られました。
江戸から安濃津の港まで船で運ばれ、港からは外山(とやま)の人らが荷車で運びました。
ところが、荷車が吹上の坂に差しかかったところ、あまりの重さに荷車が壊れてしまいました。
そこで、外山の池村久八(いけむらひさはち)という人が、
地蔵さんを背負い、吹上の坂の上の山にお地蔵さんを運んだそうです。

それから毎年、外山の村で地蔵盆の祭礼を行っていましたが
祭礼に多額の費用が掛かるため、
地蔵さんに田んぼ(山ともいう)をつけて、下之郷の村に譲ることにしました。
地蔵さんは下之郷に移され、現在も下之郷の集落で祀られています。
 
この地蔵さんは、霊験(れいげん)あらたかと言われ、
第二次世界大戦中、下之郷から出征した若者は
一人も死なずに戦地から帰ってきたことから、
この地蔵さんのことを「延命地蔵」と呼ぶようになりました。



「延命地蔵」さんは、
ふくよかで慈悲深い顔をしておられます。
機会がありましたら、この地蔵さんをご覧になってください。

また、地蔵さんの台座には大きな傷があり、
運ぶ途中に荷車から落ちた時の傷だと言われています。

地域の歴史・伝承・昔話 過去記事リスト

辰ノ口の地蔵堂(津市美里町家所)

義犬塚(いぬづか)/津市美里町平木
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大戦中、津市美里町桂畑に墜落した米軍戦闘機

2024-12-12 19:15:54 | 津のこと

(五式戦闘機とP-51戦闘機)

昭和20年7月16日、三重県上空で日米の戦闘機の空中戦が行われ、
日本機に撃墜された米軍機が、津市美里町桂畑の山に墜落しました。

墜落した米軍機は、硫黄島から飛来した陸軍P-51戦闘機。
交戦した日本機は、陸軍明野飛行隊所属の五式戦闘機でした。

P-51は、桂畑の長野城址がある山の頂上から100m下の斜面に墜落し、
乗員(パイロット)は即死。
地元の警防団により現地に埋葬されたが、
戦後に米軍が遺体を回収し、米国の陸軍墓地に埋葬した。
機体の残骸についてはどのように処分されたか不明で、
津市白山町で撃墜されたB-29のように部品は保存されていない。

撃墜した檜與平(ひのきよへい)大尉は、徳島県出身、
南方で空戦中に脚に被弾し、義足となって戦線に復帰、
明野飛行隊(三重県伊勢市小俣町)に所属して、終戦まで生き残った。
(上の画像の五式戦は、明野飛行隊所属機)
当該空戦時に使用していた義足は、
航空自衛隊入間基地の資料館に展示されている。

以上の記述は、
津市在住の戦史研究家・雲井保夫さんの調査による成果です。



桂畑の長野城址の頂上から見た、津市街です。
画像右の鉄塔からさらに下の斜面に墜落しました。

30年ほど前、地元の老人(空戦の当時は小学生)に聞いたところ、
「墜落していったのが、自分の家からも見えた。
 集落の大人が山に登って見てくるというので、
 自分たち子どもも大人と一緒に登ったんや」
とのことです。

大戦中、白山町上空でB-29に体当たりした陸軍の戦闘機

白山町でB-29に体当たりしたのが
陸軍の三式戦闘機「飛燕」でした。
「飛燕」は陸海軍で唯一の水冷式エンジンを搭載した戦闘機でしたが、
エンジンの生産が遅れがちになり、
未完成の機体がどんどん増えていったので、
「空冷式エンジンを持ってきて、機体に載せて完成させよ」
となって生まれたのが五式戦闘機です。
元の「飛燕」の機体が優秀だったので、
急造した五式戦も良好な戦闘機になった、ということです。
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義犬塚(いぬづか)/津市美里町平木

2024-11-29 09:15:41 | 津のこと


津市美里町平木、
新長野トンネルの手前を左折し、旧国道に入ったところにある小さな御堂です。
この御堂は「義犬塚(いぬづか)」と呼ばれています。

この御堂の付近には、江戸時代まで犬塚村という村があり、
現在の地名も犬塚です。

こちらには「義犬塚」の伝承があり、
来年の干支であるヘビ(大蛇)が登場します。
この伝承をご紹介します。


(「義犬塚」の紙芝居/美里ボランティアガイド会)

室町時代のこと、長野氏の家臣に鹿間某という狩りの好きな男がいた。
狩りには猟犬が必要であったが、鹿間は猟犬を持っていなかったので、
寺の御堂に籠って「私に素晴らしい猟犬をお授けください」と願をかけた。

堂内で眠ってしまった鹿間の枕元に、観音様が現れ、
「明日の朝、東の海のほうに行きなさい。そこで犬を得ることができるだろう」と言った。
翌日、鹿間は海のほうまで歩いて行き、影重という村に非常に賢い犬がいると聞いて、
犬の持主を訪ね、犬を譲ってもらうよう懇願した。
鹿間は犬を連れて帰り、それからは毎回、犬を連れて狩りに出るようになった。

ある日のこと、いつものように犬を連れて山に入ると
犬が急に唸り声をあげ、鹿間の着物の裾に噛みつき、離そうとしない。
「おい、何をするのだ、離せ」と叱っても、犬はさらに大きな唸り声を出している。
「賢い犬だと喜んでいたが、気でも狂ったか」
鹿間は刀を抜き、犬の首をめがけて振り下ろした。
切られた犬の首は、鹿間の背後の藪の中へ飛んでいった。

鹿間が薮に入っていくと、そこには大きな大蛇が横たわっていた。
その大蛇の首には、切られた犬の首が噛みついていたという。
「大蛇が狙っているのに気付いて、私に教えようとしていたのか。
 そして切られても、私を助けようとしてくれたのか」
鹿間は犬に感謝し、御堂を建て、犬の首を埋葬した。
また犬の胴は、生まれ故郷の影重村に埋葬し、塚を建てたという。

この伝承は、山中為綱という津藩士が著した「勢陽雑記」に収録されています。
上記では、わざと四段にして書いてみましたが、
いわゆる「起承転結」がしっかり押さえられて構成されているという点で、
江戸時代に書かれた文章としては秀逸だと思います。

が、この伝承、美里だけでなく、
全国各地に似たような伝承があります。
鹿間は津市北部や鈴鹿市南部にある姓で、影重という地名も実在しますが、
この「自分の命を投げ出しても主人を守るのが誠の家臣である」というテーマが、
江戸時代の武家社会に受け入れられたことにより、各地に広まり、
その土地の人物や地名に置き換えられながら伝承されたものと想像します。

>追記
この昔話の原型は「今昔物語」の巻29第32話であったようです。
ただし「今昔物語」では、犬は生きたまま大蛇に喰らいつき、
感謝した主人に連れられて、家に帰ったことになっています。

地域の歴史・伝承・昔話 過去記事リスト

延命地蔵(津市美里町五百野)

目無し地蔵(北長野)
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足利義視が訪れた北長野細野の宝寿寺

2024-11-05 21:15:08 | 津のこと


足利義視は、室町幕府6代将軍・足利義教の子、
8代将軍・足利義政(銀閣寺を建てた将軍です)の異母弟です。

将軍義政に男の子がいなかったことから、
次の9代将軍になるであろうと言われていた人ですが、
将軍家内部の家督争いや、同時期に勃発した応仁の乱に嫌気が差したのか、
わずかな家臣を連れて京都を出奔し、
1年にわたって伊勢国を放浪しています。

その旅の途中に、
伊勢国北長野村細野にあった時宗寺院・宝寿寺に滞在したと伝えられています。

時系列で示すと
1464年 将軍義政が義視を将軍職の後継者に表明
     将軍義政に男子(後の9代将軍・義尚)が産まれる
1467年 応仁の乱が勃発、義視は東軍の総大将に
    長野工藤一族が京都に出兵、東軍に属して戦う
    義視が伊勢に下向する
1468年 義視が北長野・宝寿寺に滞在する
     義視が京都に帰還するも西軍に加わる
1477年 義政との和睦が成立せず、義視は美濃へ

この年表の最初のところ、
将軍義政は、妻が懐妊していたにも関わらず、
弟義視を後継者に指名しているのは矛盾しているように見えますが、
無事に男子が産まれたとしても、
その子が元服するまでの間は、義視に将軍を務めさせるつもりだったからです。

その後も義政は、
自分や息子に何かあったときのために
義視を傍に置くようにし、
伊勢での義視の滞在費も支援しながら
再三にわたり京に戻るように伝えていたそうです。

義視が将軍になることはありませんでしたが、
子の義稙が10将軍となり、
義政の死後は「大御所」と呼ばれて
幕府の実権を握ったということです。

さて、義視が滞在したという北長野・宝寿寺、
長野工藤氏の廟所であり、
南北朝期にはすでに時宗の「道場」として
栄えていたということですが、
廃寺となって、その跡地も不明です。

冒頭の画像のどこかに在ったと思われるのですが。

長野政高、応仁の乱に出兵する

長野満藤、土岐持頼を暗殺する

長野工藤氏一族としばしば間違えられていた工藤高景とは
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