津市藤方にある、結城(ゆうき)神社です。
建武中興十五社のひとつ、というよりも「結城さんのしだれ梅」で津市民に知られています。
この結城さんが有名なので、その隣にある津八幡宮の存在感が薄いのですが、
実は現在の位置に神社ができたのは、津八幡宮のほうが古いのです。
今回は、津八幡宮と結城さんの関係をご紹介します。
まず、津八幡宮が出来たのは、
江戸時代初期の、津藩2代藩主・藤堂高次公の時代です。
もともとは垂水の山の中にあった小さな社でしたが、
狩りの最中にその社で雨宿りした高次公が、
「八幡様と言えば源氏の氏神、その社がこのような山の中で埋もれているのはしのびない」と
1632年、現在地に神社を移し、神社西の伊勢街道沿いを八幡町と命名、
町衆には煙草の専売権を与えて、八幡様を祀るように命じた、
というのが始まりです。
で、話はそこから300年ほど前に戻ります。
室町時代初期の後醍醐天皇側の武将に、結城宗広という人物がいました。
新田義貞らと、奥州から鎌倉に攻め入って鎌倉幕府(北条氏)を倒し、
その後の建武の動乱では、南朝方として北畠親房・顕家親子とともに、足利尊氏と激しく戦いました。
しかし、北畠顕家の戦死により、南朝側の軍は総崩れとなり、
結城宗広も京都から敗走、紀伊半島から海へ出て奥州に逃れようとしましたが、
暴風雨に遭って、伊勢国に漂着しました。
1339年、ここ津市で高熱のため73歳で亡くなったということです。
結城宗広公の臨終の地には、
塚が盛られ「結城塚」と呼ばれていましたが、
いつしか忘れ去られてしまったようです。
(結城宗広公の墓、カメに乗っているのは何故?)
さて結城公の臨終から500年ほどの後の時代、
津藩10代藩主・藤堂高兌(たかさわ)公の時代です。
水戸藩より、
「建武の忠臣・結城宗広公の臨終の地に墓石などが残っているのではないか」と
調査の依頼があったので、
津藩の学者・津坂東陽に命じて、津八幡宮の森を探索させます。
注)藤堂高兌公も、津坂東陽も、津の歴史上特筆すべき有名人なのですが、
ここでは詳しい説明はパスします。
どうして水戸藩なのでしょうね?
水戸藩は「水戸の黄門様」で有名なように、徳川将軍家の親戚(徳川御三家)ですが、
江戸時代後半には「水戸学」と言って、
「日本国は天皇を中心に統治されるべき」という思想が流行します。
そういう水戸藩の風潮もあって、
幕藩体制下で忘れられていた「建武の忠臣」を見直す動きになったのでしょうね。
さて、探索の結果、
津八幡宮の森の中から「結城塚」の祠が発見されたので、
1824年、藩主・藤堂高兌公が社殿を造営し、結城神社としました。
(結城神社の銅製の狛犬、長崎の平和記念像で有名な北村西望の作品である)
さらに明治になって、三重県を訪れた明治天皇が200円を祭祀料として寄付されました。
これを機に県が内務省に願い出て、1882年(明治15年)に別格官幣社に列せられ、
現在のような結城神社になったということです。
もしも、
「水戸の黄門様」が水戸藩に国学を奨励していなかったら、
後の時代に「結城塚」が発見されることも無かったのかもしれません。
そうすると、結城神社も「しだれ梅」も無かったのですね。
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