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(津城)
津藩出身の新撰組隊士としては
藤堂平助(とうどう へいすけ・新撰組八番隊組長)が
知られるところですが、
この人の場合は「藤堂公の落胤」と自称していただけで
津藩士だったのではなく、津で生まれ育ったわけでもありません。
津藩出身で新撰組隊士となった人物として
水口市松(みずぐち いちまつ)という人物がいることが、
新撰組ファンの間で知られています。
ウィキペディア等における水口市松に関する記述は
以下の通り
↓
水口市松
文政7年(1824年)? - 慶応4年1月5日(1868年1月29日)
新選組隊士。全盛期には剣術教授並を務めていた。忠輝。本名は藤田。一刀流剣術免許皆伝。
生涯
伊勢津藩士。元は若狭藩側用人。藤田兵助忠善の子で、津藩藤堂家に仕えていたが脱藩。
京都に流れてきて、医師・水口家の養子となる。
新選組の川島某(川島勝司か?)と仲が良く、よく壬生屯所に遊びに来ていたという。
それが縁で元治元年(1864年)10月前後に入隊した。その後の編成では武田観柳斎の六番組に所属。
慶応2年(1866年)9月12日の三条制札事件に原田左之助七番組に所属し、参戦。奮戦し、十五両の褒賞金を賜る。
慶応3年(1867年)の幕臣取立では見廻組御雇の格を受けるが、
同4年(1868年)1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いに身を投じ、5日に淀で銃撃を浴び、戦死する。享年45。
御香宮神社の東軍戦死者名簿では伏見で戦死とされている。明治9年(1876年)に永倉新八が建立した新選組慰霊碑に名がある。
人物と逸話
性格は明朗快活で子供好きと伝わる。
吹き矢を得意とし、的に当て、賞品を得ては彼を慕う子供達にプレゼントしていたという。
これによると、
新撰組が一躍有名になった「池田屋事件(元治元年6月5日)」の後、
10月に伊東甲子太郎らと同期で、40歳で入隊しています。
翌年の三条制札事件においては、
原田左之助の七番隊に属し、犯人の土佐藩士を尾行、
犯行を視認したうえで戦闘となり、
1人を刺殺、1人を捕縛するという手柄をあげました。
翌々年には、新撰組が正式に幕臣に取り立てられ、
水口も他の平隊士90名と同様に
「見廻組御雇10人扶持」に格付されています。
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(新撰組記念館/京都市下京区)
しかしながら
これだけの記述では、不明なところが多々あります。
1)水口は何故、若狭藩側用人を辞したのか
2)水口はどのようにして津藩に仕官することができたのか
3)その津藩(武術指南役だったという)を何故やめたのか
4)京都に行って、水口家の養子となった経緯は
5)新撰組に入隊した動機は何なのか
地元の津市でも
これまであまり話題になっていませんでしたから、
水口に関する史料は少ないのかもしれませんが、
津藩での記録が出てくることに期待します。
3および5については、
当時の津藩が、11代藩主藤堂高猷(たかゆき)を中心に
藩の兵制改革=洋式の陸軍部隊の整備と海防の強化、
に取り組んでいたため、
剣術師範としての活躍の場が無かったので、脱藩を決意、
そして、一度はその道を諦め、町医者になろうとしたところを
新撰組から勧誘され、再び剣の道へと進もうとした、
と考えると、
水口は根っからの剣客であり、
自分の剣の腕を買ってくれるところを求めていた、
と想像するところです。
京都市右京区鳴滝の三寶寺というお寺に
水口市松の供養塔があります。
境内の中川家墓所に建立された供養塔には、
水口市松忠輝、藤田兵助忠善、藤田慶三音人の名前が刻まれています。
中川家は、水口市松の弟が養子に入った家で、
藤田兵助忠善は市松の実父、
藤田慶三音人は市松の末弟、とのことで、
中川家に入った市松の弟が、
父、兄、弟を供養するために建立したもののようです。
三寶寺
京都市右京区鳴滝松本町32
TEL 075-462-6540
京都編22/新撰組記念館(下京区中堂寺壬生川町)
演武荘(津藩の武道場)