
足利義視は、室町幕府6代将軍・足利義教の子、
8代将軍・足利義政(銀閣寺を建てた将軍です)の異母弟です。
将軍義政に男の子がいなかったことから、
次の9代将軍になるであろうと言われていた人ですが、
将軍家内部の家督争いや、同時期に勃発した応仁の乱に嫌気が差したのか、
わずかな家臣を連れて京都を出奔し、
1年にわたって伊勢国を放浪しています。
その旅の途中に、
伊勢国北長野村細野にあった時宗寺院・宝寿寺に滞在したと伝えられています。
時系列で示すと
1464年 将軍義政が義視を将軍職の後継者に表明
将軍義政に男子(後の9代将軍・義尚)が産まれる
1467年 応仁の乱が勃発、義視は東軍の総大将に
長野工藤一族が京都に出兵、東軍に属して戦う
義視が伊勢に下向する
1468年 義視が北長野・宝寿寺に滞在する
義視が京都に帰還するも西軍に加わる
1477年 義政との和睦が成立せず、義視は美濃へ
この年表の最初のところ、
将軍義政は、妻が懐妊していたにも関わらず、
弟義視を後継者に指名しているのは矛盾しているように見えますが、
無事に男子が産まれたとしても、
その子が元服するまでの間は、義視に将軍を務めさせるつもりだったからです。
その後も義政は、
自分や息子に何かあったときのために
義視を傍に置くようにし、
伊勢での義視の滞在費も支援しながら
再三にわたり京に戻るように伝えていたそうです。
義視が将軍になることはありませんでしたが、
子の義稙が10将軍となり、
義政の死後は「大御所」と呼ばれて
幕府の実権を握ったということです。
さて、義視が滞在したという北長野・宝寿寺、
長野工藤氏の廟所であり、
南北朝期にはすでに時宗の「道場」として
栄えていたということですが、
廃寺となって、その跡地も不明です。
冒頭の画像のどこかに在ったと思われるのですが。
長野政高、応仁の乱に出兵する
長野満藤、土岐持頼を暗殺する
長野工藤氏一族としばしば間違えられていた工藤高景とは