◆切り絵下絵「和歌山城・御橋廊下」
こんもりと緑茂る虎伏山に白亜の天守閣がそびえ、御三家の威容にふさわしい風格を醸し出しています。
和歌山城は、天正13年(1585)に紀州を平定した豊臣秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりです。
その築城を担当したのが、築城の名人藤堂高虎でした。
元和5年(1619)には徳川家康の第10男・頼宣(よりのぶ)が入城し、紀州55万5千石の城となり、
以来水戸・尾張と並び、徳川御三家のひとつとして、長い歴史を刻んできました。
御橋廊下は、江戸時代には藩主とお付の者だけが藩の政庁や藩主の生活の場である、二の丸と紅葉渓庭園のある西の丸を
行き来するために架けられた橋で、屋根を設け、外からは見えないつくりになっていました。
約11度の角度で斜めになっているため、滑り止めのために段差がつけられています。
こんもりと緑茂る虎伏山に白亜の天守閣がそびえ、御三家の威容にふさわしい風格を醸し出しています。
和歌山城は、天正13年(1585)に紀州を平定した豊臣秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりです。
その築城を担当したのが、築城の名人藤堂高虎でした。
元和5年(1619)には徳川家康の第10男・頼宣(よりのぶ)が入城し、紀州55万5千石の城となり、
以来水戸・尾張と並び、徳川御三家のひとつとして、長い歴史を刻んできました。
御橋廊下は、江戸時代には藩主とお付の者だけが藩の政庁や藩主の生活の場である、二の丸と紅葉渓庭園のある西の丸を
行き来するために架けられた橋で、屋根を設け、外からは見えないつくりになっていました。
約11度の角度で斜めになっているため、滑り止めのために段差がつけられています。
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