8月2日放送報道ステーションに二人の東大工学部原子力工学科(国策学科)の一期生二人の方が取り上げられました。
「安全神話」と「原子力村」がどのようにして作られたのかについてでした。
小西さんはある時点から、日本の原子力についての、「閉鎖性」に気が付いていたと、述べられました。
JCOの臨界事故があっても、「われわれは違う。発電所は事故を起こさない」として、「学ぶ」ことをしなかった。「事故は起きないはず」から、いつしか「事故は起きない」に、変わっていたとも。
「電子力を選択したこと自体は、間違いではない。そのおかげで日本は発展した。しかし、やり方が完璧ではなかった。どこかに間違いがあったと思う」とも。
「選択自体が間違っていたのでは?」と私は思います。
日本の発展は「原発」がなくても、他のエネルギーで、なし得たたと思います。
そして、「完璧」など、どの分野でもありえないこと。「間違いがあった」で済まされることと、すまされないことがあります。
今回の原発事故は「この部分が間違っていた」などと言って許される問題ではないと思います。
もう一方、安斉育郎さんも、同じ一期生です。
「原発過酷事故」などを巡って、原発の危険性を感じ、反対の意見を持つに至りました。
そのため、研究室では、無視、差別、監視などが行われ、研究が出来ないよう「研究費」も出されない日々を過ごしました。
「避難する人」を抑圧する、排他的体質が「原子力村」を産んだとい言っています。
自分たちに都合が良い人たちだけで、構成された「村」が、「原子力村」だと。園芸日記
原発廃炉に向けて
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