昭和25年11月号 きやりの村田周魚(本名の一字泰から?鯛坊、鯛を偏と旁に分けたのが号・・・趣がある!)の記事を紹介します。
(前略) 生活に即した時事を読んだものすべてが非文芸だとは云い切れない。 ・・・・意識すると、しないにかかわらず、その句の中には多分に社会性、政治性が織り込まれてある。それが、内在的より外面的のほうが時事吟として強みを発揮するわけであるが、これを一歩誤ると一般からはたんなる落首としてしか迎えられないことになる。
特に時事吟としての狂句が一般に面白いと受け入れられている今日時事吟、落首、雑俳視されることの無いようにしたいものである。(川柳きやり 平成16年6月号 65)
この矜持!しかし川柳を巡る状況は時代を超えて同じということなのだろうか?
(前略) 生活に即した時事を読んだものすべてが非文芸だとは云い切れない。 ・・・・意識すると、しないにかかわらず、その句の中には多分に社会性、政治性が織り込まれてある。それが、内在的より外面的のほうが時事吟として強みを発揮するわけであるが、これを一歩誤ると一般からはたんなる落首としてしか迎えられないことになる。
特に時事吟としての狂句が一般に面白いと受け入れられている今日時事吟、落首、雑俳視されることの無いようにしたいものである。(川柳きやり 平成16年6月号 65)
この矜持!しかし川柳を巡る状況は時代を超えて同じということなのだろうか?
鯛坊の話しは面白いですね。昔は号に坊を付けていた方が多いですね、やはり柳樽寺、剣花坊の影響でしょうかね。