活字になった川柳など

日常と川柳
各種公募入選句
川柳についての個人的意見

俳風狂句百人集

2004-06-28 16:53:29 | Weblog
同志社大学国文学専攻の枝松・丈達・本石・山本・石本五名の方々の解説付の図版。狂句について学ぶことができる資料として紹介したい。私もくずし書き、変体仮名をすらすら読みたいと思う。
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川柳論番外編・・・・究極の短詩

2004-06-27 10:49:37 | Weblog
篠原資明氏の新書を読んだのは川柳の短詩としての位置付け
を考えていた時期だった。新書のタイトルは’心にひびく短詩の世界’書誌的なことは下記の通り
著者:篠原資明|出版社:講談社|発行年月:1996年 11月
サイズ:新書|ISBN:4061493310|本体価格:631円 (税込:663円)
残念なことに絶版とある。

 同時期手に入れた本に言葉遊びの本がある。
鈴木棠三 ことば遊び  中公新書 418,1975,660円
佐藤紫蘭 短詩文芸のバイブル 雑俳作法ーことば遊びのいろいろ
葉文館、1999、1800円

 篠原資明氏の超絶短詩が私の知る限り最も短い日本語の詩である。その作法は
① ひとつの語句を、二つの語句に分解すること。
② 分解後のどちらか一方が、間投詞であること。
 間投詞とは、擬音語と擬態語を含む広義のそれ
 超絶短詩を作るにあたり望まれる準則は、次のとおり。
① 分解前と分解後とで、漢字の重複がないこと。
② 分解後のどちらか一方に漢字ひと文字を用いる場合、そのひと文字は、該当する読 みとともに通常は、ひと文字で用いられるものであること。

例句の一つとして あ 芽(雨)がある。
(二つとも間投詞は作法外れであろうが例句ー礼 苦!―自作)
関心のある方へ超絶短詩募集中の篠原先生のURLを紹介する。まぶさび
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川柳のプロ

2004-06-26 12:09:42 | Weblog
 川柳のプロとはどんな人かについて考える。
それは川柳に評論家がいないという議論とも関連をもつ。
私が愛読している’きやり’には昭和、大正の評論が温故知新のタイトルで掲載されている。今行われている議論が繰り返されていること気がつく。発表年月を見なければ何時の議論かわからぬこともしばしばである
 曰く川柳は詩か?選者の条件とは?などなど

 ところで最新6月号に再録されている昭和22年4月の談話会の中では’川柳の道を商売や生活に利用してはいけない’’生活第一、趣味第二’などと書かれている。


 現在プロの川柳家として名前のあがるのは川柳公論の尾藤三柳氏、川柳大学の時実新子氏、番傘本社の森中恵美子氏、札幌の斎藤大雄氏、柳都の大野風柳氏くらいではないだろうか。

 有名なプロは十人に満たない。生活の糧にしたくても出来ないのが現状ではなかろうか。結局川柳の愛好者は多くても本来の意味で読者が少ないのが現実であろう。ここに名前をあげた方々は
作者として超一流、選者・鑑賞者として超一流、評論家としても然りそして結社、川柳社、事務所などの主宰者・責任者などそしてある程度部数が出る句集、評論集、指導書の著作をもつという共通点をもつ。

 小説・ほかの短詩と比べてプロの少なさ、当然評論家は内輪にはいても外にはいない。その証拠に新聞文芸欄に詩、短歌、俳句の時評が出ることがあっても川柳の時評はほとんど出ない。毎日の万柳や時事川柳で秀句集が選者の評とともに出るのを時折目にする程度である。

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川柳の読者とは?

2004-06-20 08:52:40 | Weblog
川柳の定義を簡単に言うのはなかなか難しいですが
やはり歴史的な流れもおさえて欲しいと思うのは
望みすぎでしょうか?

 川柳は人名だと言う方が居りましたが継承されている号
ともいえます。しかし宗家の方が「これが川柳だ」などと
言わないところに川柳のよさがあると思います。
東京川柳会

 ところで川柳家として目指すのは作家であると同時に観賞家(選者)、評論家などと考えてきましたが純粋の作者・非作家の読者・鑑賞者と言う関係を期待できるようになる素地があると感じるのですがいかがでしょう。(柄井川柳については無作の指導者・・・選者と言う評もあり、田辺聖子氏は小説家ですが優れた川柳評論家と思います。でも川柳を作らない読者は従来あまり想定してこなかったのではと思います。)
 私達は普通句会に宿題を提出したり同人誌に雑詠を送ったり、大会・コンテスト・懸賞(企業の場合は川柳風の短詩の場合も)・公募に応募して誰か川柳作家の選を受けます。ですから読者は自分と同じ川柳作者と思ってきました。自選は自分の句集を出版する時ぐらいそれも入選句が多いのではないでしょうか。(現在ではホームページやBLOGに作品を
公開することもありますが・・・)

今回は川柳の読者とは?について考えてみました。

追記
 田辺聖子さんには番傘の水府の評伝のほか文庫で古川柳の鑑賞、鶴彬・時実新子さんを含む現代川柳鑑賞、新書で武玉川鑑賞などがあり百人一首の解説、俳人の評伝も書いていて短詩一般の良い鑑賞家と思います。でも本業は小説家でしょうね。(小説家で古川柳のファンは多いようですね。日本の名随筆 別巻53  
川柳 時実新子 編 ISBN 4-87893-873-0 発行1995.7 は面白い本です。)


文庫・新書といった部数の多い書籍の川柳論は少ない
ですし
古川柳のファンはさほど多くありませんから勢い
第一生命のサラリーマン川柳
毎日新聞の万柳などの方が
耳目を集めることになります。(つまり読者が多い)

一般に川柳といえば頭に浮かぶのはそちらです。
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川柳と雑俳

2004-06-07 18:14:40 | Weblog
 川柳という言葉を解釈するときその立場で’575音を主とする季語のない定型短詩ー人情中心’つまり柳樽を範とする人達といわゆる’形式が575ならー字余り字足らずも大目に見ましょうー面白ければなんでもあり’の雑俳のひとつに位置付ける人達と大きく二つに分かれると思うのです。こんな乱暴なことを言えば作法に則り雑俳を作っておられる方にお叱りの言葉を受けるかもしれません。(私の知識は都都逸で有名な佐藤紫蘭氏や今は亡き渡辺新一郎氏の著作によるものであくまでも種々の形式を知っているという表面的なものです。)参考までに雑俳の資料をお示しする。雑俳作法
 川柳マガジンなどは折衷的な立場を示すためわざと雑俳のひとつである前句付けを復活させているのでしょう。柳多留が前句が無くても理解できるこれはなかなかと思える句(面白いといえばまさしくそうです。)を勝句集から選択して選者の柄井川柳の名をとり文芸的な位置づけをしたはずなのに・・・不満はある私ですが毎月前句付けにも応募はしています。自分の作品を作る勉強になるからです。

 私は川柳は狂句、冗句?、万柳、語呂合わせ、駄洒落とは少し違うと思い句作しているのですが、何が川柳かは時代、大衆が決めることで、だからこそ斎藤大雄先生が現代大衆川柳論を展開しているのだと思います。
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雅号

2004-06-06 14:30:02 | Weblog
 このごろ雅語が昔の戯号のように少しふざけていると受け取れるものが目立つ気がします。皆さんの印象はいかがですか?
 姓プラス号が普通の表記と思うのですが号だけの人もいるようです。かく言う私も横書きの川柳のときは別の号にしているのですが・・・・
 川柳が狂句から袂をわかった証拠が雅号だったような気がするのですが・・・
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川柳と作者

2004-06-06 14:16:19 | Weblog
 私が雅号にこだわりを持つのは文芸作品は作者を離れて独り歩きしないと言う前提でのことでした。
つまり同じ短句の形でも懸賞標語の作者は覚えている人はいないでしょうしCMのコピーも(ごく一部の流行語大賞をとるようなものを除き)ほとんどが消費されていく、流行とともに忘れ去られる商品のイメージです。でも俳句、短歌そして川柳は作品とともに作者の名が記憶されるていくべきものと思いました。

 江戸時代の前句付け川柳は賞品付きのコンテスト(一種のばくちと言う人も)で作者は仲間内ではわかっていても匿名が基本だったようです。それは言論規制を避ける方策であったのかもしれません。作品が政治批判そのものの場合名前が出ることは危険ですから匿名であることが必要だったのでしょう。(落書狂歌狂句は匿名ですね。)

 言論の自由が保証されている現代において川柳は匿名である必要はないでしょうしむしろ本名で発表することがふさわしいのかもしれません。自分を示すサインでありさえすれば姓雅号と記載すべきと言う必要もないのかもしれないと思い直しています。(野球でイチローというスーパースターやSHINJOという名前で登録されている選手がいますものね。)

 しかし川柳が文芸(文学かどうかは桑原武雄の俳句第二芸術論を蒸し返す必要?)であるためには作品と作者が離れずある必要があると思うのです。

 テキスト論については来月号の川柳総合誌で斎藤大雄先生の現代大衆川柳論をめぐる議論があるはずなのでその議論を見てから発言することにしたいと思います。
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引田六郎名義作品

2004-06-01 14:21:38 | Weblog
ばっちりと化粧はしても細い線

ひっそりと暮らしていても積もる塵

さようなら切る音聞いて切る電話

思い切る夢は心の底に置き

なんとなく期待をあおる工事中

時々はチェックしてみる最後尾

変換のキー押し正解をさがす

言えば愛なのか妻へのこの気持ち

出向で肩書きだけは上に行く

思い出の箱の中身を磨く日々

歩き続けて終点見えず

暖色のセーターを着て待ち合わせ

塾もない宿題もない空の下

和食には杜氏の腕の冴える酒

熱帯夜サッカー熱は疾うに冷め

真実と事実の違い回顧録

特売のチラシ片手に列にいる







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