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私の好きな作者は、宮沢賢治と上橋菜穂子さんが同率で一位。
どちらもファンタジーと言えばファンタジー。
でも、ファンタジーって何だろう?
上橋作品を読むと、こんなにリアルな世界をファンタジーと呼ぶのかと疑問に思います。
上橋さんの作品では、「守り人(もりびと)シリーズ」を読みました。
上橋さんにお手紙を書きたいと思いつつ、あまりに素晴らしい世界、筆の力に何を書けばよいのか、何も書けないというジレンマ。
表題作は一冊で完結した物語。(私の読んだのはこの写真の1991年出版のものではなく、2000年に上橋さんが少し手直ししたものですが、この写真の方が物語のイメージに合うように思います。)
あらすじというよりも読後感を。
文化人類学者としてオーストラリアの先住民族アボリジニの研究をされた上橋さんは、文化が変わっていく様や、一人の人間(一つの文化)の中に二つ、あるいは複数の文化を宿すということをテーマにしていらっしゃると感じます。
最後の解説を書かれた石堂藍さんの言葉の中にも、「歴史意識」という視点をもらうとありますが、本当に歴史というか、自分が今、ここにこうして生きているその土台について、人間の長い歴史が何層にも重なって形作られ、ここに不自由なく暮らしていることについて、等身大の一個の人間の目線で考えさせてくれます。
子どものころは、本でも映画でもアニメでも、必ずその中の主人公に自分を置きかえて見ていましたが、年を重ねるにつれて、他の登場人物にも目が向くようになりました。
また、時代をさかのぼっても、子どものころにはその時代に身を置くことが難しい、想像しにくかったことが、戦国時代のドラマを見ていても、なんとなく、自分だったらどうするか、ということを考えるようになってきました。
「月の森」を読んだ後に、私は、時空を超えてどこかのだれかを想像しました。
第二次大戦後、虫けらのように扱われた戦争孤児、京の都にはいつの世にも戦が絶えず、物乞いをして暮らしていた母子、インドで今も路上で暮らす人々・・・。
今では、芸術という、一見食べることに関わらないような職業や、パソコンを操ることでお金を得るなど、自給自足からどんどん分業が進んだ暮らしが当たり前になっていますが、このことを不思議なくらいに感じました。
村を出ることも、仕事を変えることもままならない時代がありました。
稲を育てる土地がなく、森林を切り拓いた、気の遠くなるような労働をされた人々もいました。
「月の森」では、このやせた森で木の実や獲物が取れない貧しさを感じ、その上に朝廷から税を取られる制度ができたり、朝廷で何年も勤務する義務ができたり、それまでになかった決まりが勝手に作られる世の中へと変化していきました。
人間と森のカミの子、人間とカミの間を取り持つ巫女など、二つの存在の間で揺れ動く者が登場します。
森のカミの掟を守らなければ、結局人間たちへの実りもなくなる。
しかし、森のカミの怒りを買ってでも支配する者へ服従しなければ、村が滅んでゆく。
物語の結末には、これでよかったのだろうか、という個人的な感想も残りますが、これは人間というもの、人類というものが歩んできた道そのものとも言えるので、これ以外にはないのかもしれません。
人類はこうやって歩んでくる他には、きっとなかったのでしょうが、そうでない道があったなら、もっとよかったのかもしれない・・・そんなことも感じます。
いつも、こうして、岐路に立ち、進むべき道を迷い、滅んだ人や、滅ぼされた人や、後悔しながらも進んだ人や、勝利に疑いを持たない征服者や、いろいろな人の枝分かれした道の先に、今があるのだと、小さな一存在である主人公たちの大きな人生を見て感じたり、想像したりすることがたくさんありました。
今日食べる物、明日食べる物がない時代や人々と、今日、無機的な暮らしをしている自分たちの日々の重みについても思いを馳せ、つまらぬ日々を送ってはならないと痛感したりもしました。
時を超える、空間を超える、その中に生きる人々に思いを馳せる・・・。
どこかで、地に足がついた生き方をしたいと感じた作品でした。
とりとめもなく、終わります。
どちらもファンタジーと言えばファンタジー。
でも、ファンタジーって何だろう?
上橋作品を読むと、こんなにリアルな世界をファンタジーと呼ぶのかと疑問に思います。
上橋さんの作品では、「守り人(もりびと)シリーズ」を読みました。
上橋さんにお手紙を書きたいと思いつつ、あまりに素晴らしい世界、筆の力に何を書けばよいのか、何も書けないというジレンマ。
表題作は一冊で完結した物語。(私の読んだのはこの写真の1991年出版のものではなく、2000年に上橋さんが少し手直ししたものですが、この写真の方が物語のイメージに合うように思います。)
あらすじというよりも読後感を。
文化人類学者としてオーストラリアの先住民族アボリジニの研究をされた上橋さんは、文化が変わっていく様や、一人の人間(一つの文化)の中に二つ、あるいは複数の文化を宿すということをテーマにしていらっしゃると感じます。
最後の解説を書かれた石堂藍さんの言葉の中にも、「歴史意識」という視点をもらうとありますが、本当に歴史というか、自分が今、ここにこうして生きているその土台について、人間の長い歴史が何層にも重なって形作られ、ここに不自由なく暮らしていることについて、等身大の一個の人間の目線で考えさせてくれます。
子どものころは、本でも映画でもアニメでも、必ずその中の主人公に自分を置きかえて見ていましたが、年を重ねるにつれて、他の登場人物にも目が向くようになりました。
また、時代をさかのぼっても、子どものころにはその時代に身を置くことが難しい、想像しにくかったことが、戦国時代のドラマを見ていても、なんとなく、自分だったらどうするか、ということを考えるようになってきました。
「月の森」を読んだ後に、私は、時空を超えてどこかのだれかを想像しました。
第二次大戦後、虫けらのように扱われた戦争孤児、京の都にはいつの世にも戦が絶えず、物乞いをして暮らしていた母子、インドで今も路上で暮らす人々・・・。
今では、芸術という、一見食べることに関わらないような職業や、パソコンを操ることでお金を得るなど、自給自足からどんどん分業が進んだ暮らしが当たり前になっていますが、このことを不思議なくらいに感じました。
村を出ることも、仕事を変えることもままならない時代がありました。
稲を育てる土地がなく、森林を切り拓いた、気の遠くなるような労働をされた人々もいました。
「月の森」では、このやせた森で木の実や獲物が取れない貧しさを感じ、その上に朝廷から税を取られる制度ができたり、朝廷で何年も勤務する義務ができたり、それまでになかった決まりが勝手に作られる世の中へと変化していきました。
人間と森のカミの子、人間とカミの間を取り持つ巫女など、二つの存在の間で揺れ動く者が登場します。
森のカミの掟を守らなければ、結局人間たちへの実りもなくなる。
しかし、森のカミの怒りを買ってでも支配する者へ服従しなければ、村が滅んでゆく。
物語の結末には、これでよかったのだろうか、という個人的な感想も残りますが、これは人間というもの、人類というものが歩んできた道そのものとも言えるので、これ以外にはないのかもしれません。
人類はこうやって歩んでくる他には、きっとなかったのでしょうが、そうでない道があったなら、もっとよかったのかもしれない・・・そんなことも感じます。
いつも、こうして、岐路に立ち、進むべき道を迷い、滅んだ人や、滅ぼされた人や、後悔しながらも進んだ人や、勝利に疑いを持たない征服者や、いろいろな人の枝分かれした道の先に、今があるのだと、小さな一存在である主人公たちの大きな人生を見て感じたり、想像したりすることがたくさんありました。
今日食べる物、明日食べる物がない時代や人々と、今日、無機的な暮らしをしている自分たちの日々の重みについても思いを馳せ、つまらぬ日々を送ってはならないと痛感したりもしました。
時を超える、空間を超える、その中に生きる人々に思いを馳せる・・・。
どこかで、地に足がついた生き方をしたいと感じた作品でした。
とりとめもなく、終わります。
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