夏の夜の

田舎の夏の夜は、律儀なほどきっちり夏の夜の匂いがする。
開け放した南の窓から東の窓へ、闇の色と虫の声とを乗せた風が通り抜けてゆく。
そよそよそよ、起きてください、そよそよそよ。
そよそよそよ、そんなところで寝てたら風邪をひきますよ、そよそよそよ。
文庫本のページをはらはらめくってゆくおせっかいな風に、揺り起こされた。
どうやら、本を読みながら机でうたた寝してしまっていたらしい。
喉が張り付くように渇いている。
本を持ったまま台所に降りていき、冷蔵庫を覗いてみる。
缶ビールをプシッと開け、直接口をつけてごきゅごきゅ呑み下す。
もう一度冷蔵庫の扉を開け、宝探しをする。
マカロニサラダの残り物の皿を発見。
2,3本ずつ束になってしまっているマカロニをくにくに噛みながら、食卓でしばし本を読む。
二本目の缶ビールのプルトップをひく。
プシッという音がさっきより随分大きく家中に響き渡り、ちょっとドキッとする。
スリッパを脱ぎ、裸足で歩く。ぺたしぺたし。リノリウム床の冷んやりした感触。
足の裏にまとわりつく、台所床の懐かしい存在感。ぺたしぺたし。
ガスコンロに置かれたままの鍋の蓋をぱかりと開け、直接お箸を突っ込んで、ひょい、ひょい、と煮物を何口かつまみ喰いする。
母上の煮る野菜が面取りをしなくても煮崩れないのは、どうしてなんだろう。
隠し包丁も入っていない蒟蒻にこんなに味が染みるのは、どうしてなんだろう。
そんなことを考えながら、ひょい、ともう一口。
外側部分と内側の白い部分との見分けがつかないほどみっちり茶色に染まった厚揚げを一切れ、はむはむはむはむ。
コンロの前に立ったままで、なんともお行儀の悪い、真夜中のつまみ喰い。
子供の頃に隠れてこそこそ吸っていた煙草と同じように、後ろめたさという名の隠し味が一役買っているからこそ夜中のつまみ喰いは美味しいのだ、と気付いたのは、いつ頃だったろうか。
そして後ろめたいことをするのが子供の醍醐味であり、それを叱るのが親の醍醐味であるということをある程度知っている歳に、いつの間にかなっている。
あっという間にぬるくなった缶ビールをすすりながら、本を読む。
流し台の脇には、空いた小皿と父上の箸と、かすかに日本酒の匂いのする湯呑みが積まれている。
同じように夜中に起き出してきた父上が、同じように呑み直した跡だ。
おやおや、このつまみ喰いの醍醐味は子供の専売特許のはずなのだが、と思いつつ、弱めの水流でその食器をちゃぷるちゃぷる洗い、証拠隠滅に協力する。
自分が食べたマカロニサラダの小皿だけ洗わずに、流し台にコトリと置いておく。
きっと明日の朝この皿を発見した母上に、夜中のつまみ喰いだなんてまぁお行儀の悪い、とまた小言を言われることだろう。
想像して、ちょっと笑う。
冷蔵庫に顔を半分突っ込んで冷気にあたりながら、もう一本缶ビールを開けようかどうしようかゆるゆる悩む。
冷茶ポットを取り出し、烏龍ハイを作ることにする。
母上の煮出す烏龍茶は薄目だから、麦茶の方が好きなんだけどな、などと思いながら、焼酎を少しだけ多めに注ぐ。
氷を二つ浮かべたグラスと文庫本を抱え、台所の電気をパチリと消す。
夏の夜のつまみ喰い、終了。
二階の自室に戻って文庫本の続きを読み始める。
田舎の夏の夜の風は、あいかわらず夏の夜の匂いを連れて通り抜けてゆく。
そよそよそよ、早くおやすみなさい、そよそよそよ。
ほんの少しだけ、風が冷たさを増した。
もう一週間もすれば、あっという間に秋の気配を連れてやってくるのだろう。
そよそよそよ、もう秋はすぐそこまで来てますよ、そよそよそよ。
そよそよそよ、でもまだ運んできてあげませんよ、そよそよそよ。
田舎の夏の夜の風は、おせっかいなだけでなく少々いぢわるなようだ。
そよそよそよ、秋の匂いを嗅ぎたければ、そよそよそよ。
そよそよそよ、近いうちにまた帰っていらっしゃい、そよそよそよ。
はいはい分かりましたよ、と呟いて文庫本を閉じ、ベッドにもぐりこんだ。
コメント ( 4 ) | Trackback ( )