ボクが読みたい本の中に、江本勝という人が書いた「結晶物語」というのがあります。
著者は水の結晶を研究している人なんだけど、その結晶が実に様々な形をしているということに着目。
世界中の水の結晶を写真と共に紹介しています。
その中で、水にいろいろな働きかけをしたらどうなるか、という実験的なカテゴリーがあるんです。
たとえば、「ばか」と書いた紙を見せ続けた水とか、クラッシック音楽を聴かせ続けた水とか・・・
元は同じ水なのに、おもしろいように形が違うんですよ。
その中で、次のような3部作的なものがありました。
3つに分けた同じ水にそれぞれある働きかけをしたところ、結晶が、一つはとてもきれいな形に、一つはやや崩れた形に、そしてもう一つはひどく崩れた形になってしまいました。
きれいな形になったものには「愛している」
やや崩れた形になったものには「大嫌い」
と、それぞれ働きかけをしていました。
では、ひどく崩れたものにはどんな働きかけをしたでしょう?
ち、ち、ち、ち、ち、ち、ちーん
正解は「無視」、つまり見向きもせずそっぽを向き続けたのです。
これが本当に働きかけと水の結晶の因果関係を表したものかはわかりませんが、この記事を見て、マザー・テレサの言葉を思い出したのです。
伝聞でお恥ずかしいのですが、こんな言葉です。
「愛することの対義語は憎むことではありません。無関心でいることです。」
愛することも憎むことも、相手に対して強く気持ちを向けている点で非常に近しいこと。
ちょっとしたきっかけで憎から愛へ(残念ながらたぶん逆へも)変わることがあるでしょう。
しかし、無関心でいたらいつまでも無関心かもしれません。
そしてそれはとても残酷なことにもなり得ます。
たとえば遠い国の貧困に、障害者の抱える困難に、高齢者の抱える苦しみに、関心を持たずにいることが、目をそらしていることが一番酷なことなのではないでしょうか。
この言葉を思い出すたび、自分はいろいろな立場の人に関心を持って接することができているのだろうか、と反省させられる、とても素敵な言葉です。
著者は水の結晶を研究している人なんだけど、その結晶が実に様々な形をしているということに着目。
世界中の水の結晶を写真と共に紹介しています。
その中で、水にいろいろな働きかけをしたらどうなるか、という実験的なカテゴリーがあるんです。
たとえば、「ばか」と書いた紙を見せ続けた水とか、クラッシック音楽を聴かせ続けた水とか・・・
元は同じ水なのに、おもしろいように形が違うんですよ。
その中で、次のような3部作的なものがありました。
3つに分けた同じ水にそれぞれある働きかけをしたところ、結晶が、一つはとてもきれいな形に、一つはやや崩れた形に、そしてもう一つはひどく崩れた形になってしまいました。
きれいな形になったものには「愛している」
やや崩れた形になったものには「大嫌い」
と、それぞれ働きかけをしていました。
では、ひどく崩れたものにはどんな働きかけをしたでしょう?
ち、ち、ち、ち、ち、ち、ちーん
正解は「無視」、つまり見向きもせずそっぽを向き続けたのです。
これが本当に働きかけと水の結晶の因果関係を表したものかはわかりませんが、この記事を見て、マザー・テレサの言葉を思い出したのです。
伝聞でお恥ずかしいのですが、こんな言葉です。
「愛することの対義語は憎むことではありません。無関心でいることです。」
愛することも憎むことも、相手に対して強く気持ちを向けている点で非常に近しいこと。
ちょっとしたきっかけで憎から愛へ(残念ながらたぶん逆へも)変わることがあるでしょう。
しかし、無関心でいたらいつまでも無関心かもしれません。
そしてそれはとても残酷なことにもなり得ます。
たとえば遠い国の貧困に、障害者の抱える困難に、高齢者の抱える苦しみに、関心を持たずにいることが、目をそらしていることが一番酷なことなのではないでしょうか。
この言葉を思い出すたび、自分はいろいろな立場の人に関心を持って接することができているのだろうか、と反省させられる、とても素敵な言葉です。