猫面冠者Ⅱ

主に東洋大学を中心に野球・駅伝などの記録・歴史・エピソードなどなど…。

東洋大学野球部の歴史―戦前①巌義円さん

2008-01-14 10:18:00 | インポート
昨2007年は母校・東洋大学の野球部が東都大学リーグで初めて春秋連覇を果たし、大学選手権の覇権こそ逃したものの、明治神宮野球大会では念願の初優勝を飾った。野球部と直接関係はない一OBに過ぎずともやはり嬉しいものである。
以前から折を見て母校野球部の歴史や記録などを調べてはいたのだが、これを機に少し纏めた形に残してみたいという思いから、散漫ではあるが少しずつこのブログに記していきたく筆を起こした次第である。

ネットで“哲学館 野球”のキーワードで検索をしてみたところ「津久見野球の歴史(戦前)」というサイトが見つかった。それによれば大分県津久見市にある西教寺の巌義円という方が、津久見生まれで最初に臼杵中学で野球をしたそうなのだが、その後“
臼杵中学から東京哲学館(現東洋大)に進学した義円氏は学生時代投手として三高(旧制)と試合している。また日本に寄港したアメリカの船員さんチームとも試合をしている”
とある。
同サイトによれば巌義円さんは明治41年臼杵中学卒とあるが、哲学館は明治39年には東洋大学に改称している。明治35年に哲学館事件が起きているので、当時はまだ哲学館の名称のほうが馴染んでいたのであろうか。

旧制三高は現在の京都大学にあたるが三高の野球部は明治39年から一高(現東京大学)戦を始めている。「三高野球部史」によれば主に三高の側が“東征”して向陵グラウンド(向陵は現在の文京区向ヶ丘の意)で対戦していたようである。明治45年の東征の際には“東京に着いてからは向陵の公式練習以外に、機密保持のために諸方のグランドを借りて内密練習を重ねて万全を期した”などとあるので、想像するには一高戦のため東京に遠征してきた際に義円さんのチームが練習台として対戦したのであろうか。臼杵中学の仲間で三高に進んだ者や、あるいは西教寺が真宗寺院であることから本山との関係で京都の三高に知己を得た人がいたのかもしれない。

野球部の公式サイトによると創部は大正11年とあるが、それを遡る明治の母校の野球とはどの様なものだったのか、いずれリタイヤでもして時間が出来たらもっと深く調べてみたいものである。(但し、そんなゆとりある老後を迎えるには聊か心許ないのであるが・・・。)

尚、前記「津久見野球の歴史(戦前)」によれば巌義円さんは卒業後寺に戻り住職を務めながら小学校などで野球を教え、また旧津久見町長も務められたそうである。

*『津久見市史』によると義円さんは戦後、昭和三十年から三十四年まで津久見市長も一期務められている。「山羊を思わせるアゴヒゲをたくわえ、柔和なスマイルで雄弁家としても知られていた。スポーツを愛好し津久見野球生みの親でもある」とのことだ。



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