東洋大学(哲学館)とゆかりのあるもう一つの旧制中学に京北中学がある。京北は哲学館が現行地に移転した二年後の明治32年に井上円了によって開設されており、昭和26年までは同一法人であった。『明治野球史』という本の付録、野球試合記録年表を見ると明治34年の12月5日に、“一高9-3京北中学”とある。また、都高野連の『白球譜-東京都高校野球のあゆみ』大正9年の第三回京浜中等学校野球大会一回戦で“慶応普通15-2京北中学”と書かれており、東洋大学よりも一足先に野球が行われていたことがうかがえる。
東洋大学野球部の創部は『神宮球場ガイドブック』などでは大正11年となっているが、『東洋大学百年史』には
文化学科は大正10年に社会事業科とともに開設された。これにより
ところで先の境野学長の回想にある「今度の騒動」というのは大正12年に起こった学長排斥運動による紛擾事件の事である。大正10年に文化学科に入学した詩人・岡本潤の自伝『詩人の運命』によれば
大正12年といえば関東大震災が起きた年でもある。大学が内も外も大揺れしていた頃に東洋大学野球部は生まれたのであった。
東洋大学野球部の創部は『神宮球場ガイドブック』などでは大正11年となっているが、『東洋大学百年史』には
「野球部は大正十三年に創部され(大正十三年同窓会規則)、大正十四年学友会として独立した。大正十二年に文化学科生が中心となり野球部の創部を、学長境野哲に要求したがグラウンドもなく、監督の方法も立っていないということで許されなかったという」とあり、同誌『資料編Ⅰ下』には境野学長の
「・・なほ最近の一例としては、文化学科が中心となり、運動部の一部のものから要求して来た野球部新設を許さなかったといふことも、彼等怨恨の一因である。自分は野球運動は非常に規律的なもので、唯野次的気分で行ふべきものではないから、非常に訓練を要する者である。東洋大学にはまだグラウンドもないし、訓練の機会も、監督の方法も立って居ないのであるから、野球部と称して諸方に出かけ、学校の体面を汚す様なことがあってはならない、現にテニス部にすら、かかる例があったのであるから、未だ早いといふので許さなかったのであるが、この時既に学長排斥の声が出たといふことを聞いて居る。そうして文化学科以外の学生で、今度の騒動の中心となった学生は、運動部のものが最も多いのである」との回想が書かれている。
文化学科は大正10年に社会事業科とともに開設された。これにより
「・・・東洋大学の入学希望者の層が、それまでとは異なり変化するにいたった。文化学科は卒業しても何の特典も与えられなかったが、詩人や文学をめざす若者にとって、創作に直接かかわる学科が設置されたことは、その教授陣と相まって、大きな魅力を与えることになった」(『東洋大学百年史』)のである。野球部もそれまでとは違ったタイプの学生が中心となって創部したようだ。
ところで先の境野学長の回想にある「今度の騒動」というのは大正12年に起こった学長排斥運動による紛擾事件の事である。大正10年に文化学科に入学した詩人・岡本潤の自伝『詩人の運命』によれば
「学生たちに評判のよかった教授の和辻哲郎や出隆などが境野学長と意見が合わずに辞職したのがキッカケで、学長排斥運動が起り、なかでも血のけの多い学生たちが学長をカンズメにして辞表を書かせたとかいうことで、その急先鋒だった勝承夫や岡村一二などが刑務所入りをした」とのことである。学生のみならず学内が学長派と排斥派に分かれて対立し、暫く混乱が続いたようだ。
大正12年といえば関東大震災が起きた年でもある。大学が内も外も大揺れしていた頃に東洋大学野球部は生まれたのであった。
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