東都大学野球では平成六年の秋のリーグ戦から指名打者制が採用された為、現在では少々バッティングに自信のある投手でも余程の事がない限り試合で打席に立つことはないが、それ以前では時折投手でありながら打者としても活躍した選手がいた。
本ブログでもご紹介した鶴岡昌宏投手や仁村徹投手などは四番を打ったこともあり、降板後も守備に就いて打席に立ったこともあるが、卒業後は正式に野手に転向してプロ或いは社会人野球で活躍したこれらの投手でも打撃ベストテンに名を連ねるまでには至らなかった。
ところが、過去東洋大で打撃ベストテン入りした選手の名を改めて見てみると、昭和48年秋のリーグ戦で松沼博久投手がベストテン、それも堂々第三位に入っているのである。
そこで、このシーズンの松沼投手の投・打の記録を朝日新聞の縮刷版から拾い出してみると下記のようになった。
(登板は全て先発、投球回のうち赤字表記は完投)
このシーズンの東洋大は五つのカード全てが三回戦までもつれており、しかも松沼投手は全15試合中14試合に先発で登板し、その内半分は最後まで投げ切っているのである。
当時の開幕前の展望記事を見てみると、東洋は松沼投手の仕上がりは順調だが二番手の市村投手が風邪をひいていま一つ、と云う書き方になっているので、その辺の事情もあって連投連投また連投、となってしまったようだ。
ただし、下表を見てすぐお気づきの方もいるかと思うが、松沼投手がベストテン入りしたのにはもう一つからくりがある。
“規定打席数33以上”とあるように、現在の規定打席数とは算出方法が異なっているのだ。
『東都大学野球連盟七十年史』を見てゆくと当時は、【一番試合数の少ないチームの試合数マイナス1×3】で計算しているようなのだ。(下の星取り表参照)
この方式が昭和49年まで続き、昭和50年の春からは【一番試合数の少ないチームの試合数×3マイナス1】となっている。(昭和50年春で見ると試合数最少は専大と国士大の11、規定打席数は32以上となっている)
現在の【各チームの試合数×3.1】が採用され、個々のチームによって規定打席数が異なるようになるのは昭和55年春のリーグ戦からである。
『東都大学野球連盟七十年史』所収の大学野球担当記者座談会「東都大学野球70年を語る」の中では次のように語られている。
“七十年史”を見ると昭和26年春は試合数最少は駒大の10で規定打席数は30、となっており、保科氏の云う通りだが、次の秋のリーグ戦では最小試合数が中大・日大の11に対して規定打席数は29、となっており、【一番試合数の少ないチームの試合数×3マイナス1】の方式がとられ昭和28年春までつづき、28年秋から、【一番試合数の少ないチームの試合数マイナス1×3】となっている。
理由はよく分からないが基本的には“リーグとしての最低規定打席数を決める”と云う考えに基づいて、いろいろ試行錯誤の末に決められた算出方法のようである。
更に加えるなら“昔は個人記録にはあまりこだわらなかった”(同座談会での元報知新聞記者・中山伯男氏の言葉)と云う事も大きいようだ。
全カードで三回戦まで戦ったこのシーズンの東洋大は現在の算出方法だと規定打席数は15×3.1=46となる。上に掲げた成績表では犠打と死四球の数が不明だが、松沼投手の犠打・死四球が13以上あるとは考えにくいので、現在の規定だとベストテン入りはならなかったと思われる。
ただ、過去の打撃ベストテン全てに目を通した訳では無いので、もしかしたら他にも松沼投手の様な事例が有るかもしれないが、打撃の良い投手が高打率を残している場合は降板後も他のポジションについたり、或いは登板しないときは野手として出場しているケースが多いようだ。松沼投手の場合は全て投手として打席に立ってのベストテン入りなので非常に珍しいのではなかろうか。
昭和48年:秋季リーグ戦星取・順位
昭和48年の東洋大は春のリーグ戦で初めて二位になり、この秋のリーグ戦では最後の亜大三回戦に勝っていれば、最終週の駒大・中大戦の結果いかんで初優勝が転がり込むところまで食い下がったのだが、亜大三回戦は3回に1点先取したものの松沼投手が5回に2点を失い降板、最終回、同点に追いつくも、その裏市村投手がサヨナラ本塁打を浴び初優勝はお預けとなってしまった。
更に翌49年も春・秋とも二位に終わり、いつしか“万年二位”と呼ばれるようになった東洋大。
通算22勝を挙げた松沼博久投手は優勝を味わうことなく卒業となってしまったが、昭和50年に入れ替わるように入学した弟・松沼雅之投手が活躍し、昭和51年秋のリーグ戦で念願の初優勝。53年秋にもV2を果たした。
在学中に二度の優勝を味わった雅之投手は連続無失点記録56回2/3や通算39勝(リーグ二位)などの投手記録に名を残しているが、投手としては無冠に終わった兄・博久投手が刻んだ“昭和48年秋・打撃ベストテン第三位:松沼”の名は、初優勝までの陣痛を味わった“万年二位”のチームの奮闘ぶりを伝えているのである。
*松沼博久投手が22勝、弟雅之投手の39勝に加えて博久投手の御子息である松沼達也投手も2勝を挙げているので、三人合わせて通算63勝。東洋大の一部リーグでの通算勝利数は昨年秋終了時点で506勝なので、東洋大の勝ち星の一割以上を“松沼一族”の三人で挙げているのだ。いつの日か松沼“孫”の登板する日が実現することを待ち望みたいものである。
*打撃ベストテン二位の中大・藤波選手は10月12日の対東洋大三回戦で松沼博久投手から通算128本目の安打を放ち、明大・高田繁選手が昭和42年に作った通算127の大学通算安打記録を更新した。その瞬間は“三塁側の東洋大の学生たちからも拍手が起こった”(『朝日新聞』昭和四十八年十月十三日付朝刊)とのことである。
*同じく打撃ベストテンの八位・河原井選手は青学大の河原井正雄現監督のこと。この秋は八位に終わっているが、48年春には駒大・吉田選手と同率ながら首位打者を獲得、一塁手のベストナインにも選ばれている。青学大選手としては初のタイトル受賞者だった。
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本ブログでもご紹介した鶴岡昌宏投手や仁村徹投手などは四番を打ったこともあり、降板後も守備に就いて打席に立ったこともあるが、卒業後は正式に野手に転向してプロ或いは社会人野球で活躍したこれらの投手でも打撃ベストテンに名を連ねるまでには至らなかった。
ところが、過去東洋大で打撃ベストテン入りした選手の名を改めて見てみると、昭和48年秋のリーグ戦で松沼博久投手がベストテン、それも堂々第三位に入っているのである。
そこで、このシーズンの松沼投手の投・打の記録を朝日新聞の縮刷版から拾い出してみると下記のようになった。
昭和48年 | 秋 | 投球回 | 被安打 | 自責点 | 防御率 | 打順 | 打数 | 安打 | 打点 | 打率 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
9月5日 | 日本大 | 一回戦 | 1-5 | ● | 4 2/3 | 6 | 5 | 9.64 | 八番 | 2 | 0 | 0 | 0.000 | |
9月7日 | 日本大 | 二回戦 | 2-1 | 8 | 2 | 1 | 1.13 | 八番 | 1 | 0 | 0 | 0.000 | ||
9月8日 | 日本大 | 三回戦 | 2-1 | ○ | 9 | 9 | 1 | 1.00 | 八番 | 4 | 1 | 0 | 0.250 | |
9月18日 | 駒沢大 | 一回戦 | 6-11 | 不出場 | ― | ― | ― | ― | ― | ― | ― | ― | ||
9月19日 | 駒沢大 | 二回戦 | 4-3 | ○ | 9 | 6 | 3 | 3.00 | 九番 | 2 | 1 | 0 | 0.500 | |
9月20日 | 駒沢大 | 三回戦 | 1-5 | ● | 4 1/3 | 8 | 4 | 8.31 | 九番 | 1 | 0 | 0 | 0.000 | |
9月25日 | 青学大 | 一回戦 | 4-2 | 6 2/3 | 5 | 2 | 2.70 | 九番 | 3 | 3 | 0 | 1.000 | ||
9月26日 | 青学大 | 二回戦 | 2-5 | 5 | 4 | 2 | 3.60 | 九番 | 1 | 0 | 0 | 0.000 | ||
9月27日 | 青学大 | 三回戦 | 3-2 | ○ | 9 | 4 | 2 | 2.00 | 九番 | 3 | 0 | 0 | 0.000 | |
10月11日 | 中央大 | 一回戦 | 8-0 | ○ | 9 | 4 | 0 | 0.00 | 九番 | 2 | 1 | 2 | 0.500 | |
10月12日 | 中央大 | 二回戦 | 1-4 | ● | 8 | 4 | 1 | 1.13 | 九番 | 3 | 1 | 0 | 0.333 | |
10月13日 | 中央大 | 三回戦 | 3-2 | ○ | 9 | 4 | 2 | 2.00 | 九番 | 3 | 1 | 0 | 0.333 | |
10月16日 | 亜 大 | 一回戦 | 0-1 | ● | 8 | 5 | 1 | 1.13 | 九番 | 3 | 2 | 0 | 0.667 | |
10月17日 | 亜 大 | 二回戦 | 5-3 | 7 | 7 | 3 | 3.86 | 七番 | 3 | 1 | 0 | 0.333 | ||
10月19日 | 亜 大 | 三回戦 | 2-3 | 6 | 7 | 2 | 3.00 | 七番 | 2 | 0 | 0 | 0.000 | ||
102 2/3 | 75 | 29 | 2.54 | 33 | 11 | 2 | 0.333 | |||||||
このシーズンの東洋大は五つのカード全てが三回戦までもつれており、しかも松沼投手は全15試合中14試合に先発で登板し、その内半分は最後まで投げ切っているのである。
当時の開幕前の展望記事を見てみると、東洋は松沼投手の仕上がりは順調だが二番手の市村投手が風邪をひいていま一つ、と云う書き方になっているので、その辺の事情もあって連投連投また連投、となってしまったようだ。
ただし、下表を見てすぐお気づきの方もいるかと思うが、松沼投手がベストテン入りしたのにはもう一つからくりがある。
昭和48年秋季個人打撃成績
(規定打席数33以上)
試合 打数 安打 打点 本塁打 打率
江 俣 日 14 50 21 2 1 0.420
藤 波 中 12 53 20 3 0 0.377
松 沼 東 14 33 11 2 0 0.333
佐々木 亜 13 49 16 4 1 0.327
中 畑 駒 14 56 18 10 4 0.3214
武 智 駒 14 53 17 3 0 0.3208
津布久 駒 14 44 14 7 0 0.318
河原井 青 14 54 17 10 1 0.315
栗 橋 駒 14 55 17 7 1 0.309
金 子 日 14 52 15 9 2 0.288
(『東都大学野球連盟七十年史』P215より)
“規定打席数33以上”とあるように、現在の規定打席数とは算出方法が異なっているのだ。
『東都大学野球連盟七十年史』を見てゆくと当時は、【一番試合数の少ないチームの試合数マイナス1×3】で計算しているようなのだ。(下の星取り表参照)
この方式が昭和49年まで続き、昭和50年の春からは【一番試合数の少ないチームの試合数×3マイナス1】となっている。(昭和50年春で見ると試合数最少は専大と国士大の11、規定打席数は32以上となっている)
現在の【各チームの試合数×3.1】が採用され、個々のチームによって規定打席数が異なるようになるのは昭和55年春のリーグ戦からである。
『東都大学野球連盟七十年史』所収の大学野球担当記者座談会「東都大学野球70年を語る」の中では次のように語られている。
*保科氏は元東京新聞記者
司会 記録を調べていて、気がついたんですが、昔
は、打撃ベスト10を決めるのに、各大学の規定打
席を決めて、(試合数×3.1)それ以上の打席のあ
った選手を対象とするというやり方ではないんで すね。
保科 昔はその方式ではなく、一番、試合数の少
ない大学の試合数×3というふうにそのシーズ
ンの最低規定打席数を決めて、それ以上の打席を有
したもの対象者としてベスト10を決めていたんで
すね。それが、長い間ずっと続いていたんです。
ですから、現在の選出方法とは違いますね。
“七十年史”を見ると昭和26年春は試合数最少は駒大の10で規定打席数は30、となっており、保科氏の云う通りだが、次の秋のリーグ戦では最小試合数が中大・日大の11に対して規定打席数は29、となっており、【一番試合数の少ないチームの試合数×3マイナス1】の方式がとられ昭和28年春までつづき、28年秋から、【一番試合数の少ないチームの試合数マイナス1×3】となっている。
理由はよく分からないが基本的には“リーグとしての最低規定打席数を決める”と云う考えに基づいて、いろいろ試行錯誤の末に決められた算出方法のようである。
更に加えるなら“昔は個人記録にはあまりこだわらなかった”(同座談会での元報知新聞記者・中山伯男氏の言葉)と云う事も大きいようだ。
全カードで三回戦まで戦ったこのシーズンの東洋大は現在の算出方法だと規定打席数は15×3.1=46となる。上に掲げた成績表では犠打と死四球の数が不明だが、松沼投手の犠打・死四球が13以上あるとは考えにくいので、現在の規定だとベストテン入りはならなかったと思われる。
ただ、過去の打撃ベストテン全てに目を通した訳では無いので、もしかしたら他にも松沼投手の様な事例が有るかもしれないが、打撃の良い投手が高打率を残している場合は降板後も他のポジションについたり、或いは登板しないときは野手として出場しているケースが多いようだ。松沼投手の場合は全て投手として打席に立ってのベストテン入りなので非常に珍しいのではなかろうか。
昭和48年:秋季リーグ戦星取・順位
駒沢大 | 東洋大 | 亜 大 | 青学大 | 中央大 | 日本大 | 試合 | 勝 | 敗 | 分 | 勝点 | |
駒沢大 | ― | ○●○ | ○○ | ○●○ | ●○○ | ●○● | 14 | 9 | 5 | 4 | |
東洋大 | ●○● | ― | ●○● | ○●○ | ○●○ | ●○○ | 15 | 8 | 7 | 3 | |
亜 大 | ●● | ○●○ | ― | ○●○ | ●● | ○△○ | 13 | 6 | 6 | 1 | 3 |
青学大 | ●○● | ●○● | ●○● | ― | ○○ | ○●○ | 14 | 7 | 7 | 2 | |
中央大 | ○●● | ●○● | ○○ | ●● | ― | ○○ | 12 | 6 | 6 | 2 | |
日本大 | ●○● | ○●● | ●△● | ○●○ | ●● | ― | 14 | 4 | 9 | 1 | 1 |
昭和48年の東洋大は春のリーグ戦で初めて二位になり、この秋のリーグ戦では最後の亜大三回戦に勝っていれば、最終週の駒大・中大戦の結果いかんで初優勝が転がり込むところまで食い下がったのだが、亜大三回戦は3回に1点先取したものの松沼投手が5回に2点を失い降板、最終回、同点に追いつくも、その裏市村投手がサヨナラ本塁打を浴び初優勝はお預けとなってしまった。
更に翌49年も春・秋とも二位に終わり、いつしか“万年二位”と呼ばれるようになった東洋大。
通算22勝を挙げた松沼博久投手は優勝を味わうことなく卒業となってしまったが、昭和50年に入れ替わるように入学した弟・松沼雅之投手が活躍し、昭和51年秋のリーグ戦で念願の初優勝。53年秋にもV2を果たした。
在学中に二度の優勝を味わった雅之投手は連続無失点記録56回2/3や通算39勝(リーグ二位)などの投手記録に名を残しているが、投手としては無冠に終わった兄・博久投手が刻んだ“昭和48年秋・打撃ベストテン第三位:松沼”の名は、初優勝までの陣痛を味わった“万年二位”のチームの奮闘ぶりを伝えているのである。
*松沼博久投手が22勝、弟雅之投手の39勝に加えて博久投手の御子息である松沼達也投手も2勝を挙げているので、三人合わせて通算63勝。東洋大の一部リーグでの通算勝利数は昨年秋終了時点で506勝なので、東洋大の勝ち星の一割以上を“松沼一族”の三人で挙げているのだ。いつの日か松沼“孫”の登板する日が実現することを待ち望みたいものである。
*打撃ベストテン二位の中大・藤波選手は10月12日の対東洋大三回戦で松沼博久投手から通算128本目の安打を放ち、明大・高田繁選手が昭和42年に作った通算127の大学通算安打記録を更新した。その瞬間は“三塁側の東洋大の学生たちからも拍手が起こった”(『朝日新聞』昭和四十八年十月十三日付朝刊)とのことである。
*同じく打撃ベストテンの八位・河原井選手は青学大の河原井正雄現監督のこと。この秋は八位に終わっているが、48年春には駒大・吉田選手と同率ながら首位打者を獲得、一塁手のベストナインにも選ばれている。青学大選手としては初のタイトル受賞者だった。
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