湯島天神では例年この時期に梅まつりが開催されている。筆者はここ何年か毎回散策を兼ねて訪れており、今年も先の日曜日、2月15日に行って来た。前日の土曜日ほど(東京の最高気温は23.9℃!)ではなかったものの、二月にしては暖かく感じる日だった。
地下鉄本郷三丁目駅から春日通りを湯島へ向かったが、途中麟祥院に立ち寄る。
春日の局ゆかりのこの寺は、明治二十年九月十六日に哲学館が開設された場所、東洋大学発祥の地でもある。
境内にある教育委員会の案内板―春日の局の墓とともに“哲学館跡”の説明もある。
のちに四代目の東洋大学長となった境野黄洋は麟祥院時代の哲学館の様子を次のように語っている。
境野黄洋は宮城県の生まれ。仙台の曹洞宗専門支校で仏教の講義を聞き、上京後哲学館に学んだ。曹洞宗専門支校は昨年の明治神宮野球大会決勝で東洋大学と顔を合わせた東北福祉大学の前身である。
(ちなみに“曹洞宗専門本校”は今の駒沢大学)
“東洋大學発祥之地”碑
もうひとつ野球絡みの話で云えば現巨人のOB岩舘学選手や現在も在学中の伊藤哲士選手の母校である成田高校の前身、旧制成田中学を創立した石川照勤もこの地で学んでいる。石川照勤は明治二十三年に哲学館を卒業したあと明治二十七年には弱冠二十六歳であの成田山新勝寺の第十五世貫首となった人。中学設立のほかにも成田図書館の建設などの事業に着手した。
創立者井上円了は大正六年十一月の創立三十周年記念式に於いて
との感想談を語っている。
前述の石川照勤もこの式典に列席し、出身者総代として祝辞を述べた。
春日の局墓所
この写真では正面のものしか見えないが、穴が東西南北に四つ開いている。これは、「死して後も黄泉より此の世を見て、政道をを正すべし」との遺言によるのだそうだ。
麟祥院は臨済宗の禅寺。拝観は三時までなので行かれる方はご注意を・・・。
麟祥院からは歩いて五分ほどの湯島天神へ。
湯島天神―暖かいせいもあってかなかなかの賑わいだ。
境内の梅―七分咲きといったところか・・・。
梅酒の試飲コーナー―遠慮なく頂きました・・・。
イベントステージ―この時は白梅太鼓というのを演っていた。
同じく白梅太鼓―動画
3月8日までの梅まつり期間中は様々なイベントが予定されているようだ。
湯島天神公式ホームページ
湯島から根津を経由して白山方面へ。
寺の屋根から生えるマンション―いかにも素人カメラマン好みの構図・・・。
弁慶の井戸―偶然通りかかって見つけた・・・。
義経と奥州へ向かう途中弁慶が見つけたそうです。池の端一丁目。
突然顔を出してきた犬―本郷通り・向ヶ丘にて。
白山上のとんかつ屋・キッチンもんきー―閉店の張り紙。再開発でビルになるそうだ。
並びの履物屋さんやお寿司屋さんも同じく閉店・・・。
この通りの先、白山上に出る角の三角のところは大正の一時期、今は普通の本屋さんとなった南天堂の出版部門があったところ。三角二階と呼ばれていた。
白山神社社殿―本数は少ないがこちらは紅梅がきれいに咲いていた。
発見・白山神社に住む猿!・・・ではなくて一応猫のようだ。
人間如きに構ってはいられない・・・。
東洋大学―かつての“寺子屋式”の学校の現在の姿。
ここからさらに徒歩にて巣鴨駅へと向かい帰宅した。この日は陽が落ちてからもさほど気温も下がらず、心地よい半日の“超ミニ旅行”でした。
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地下鉄本郷三丁目駅から春日通りを湯島へ向かったが、途中麟祥院に立ち寄る。
春日の局ゆかりのこの寺は、明治二十年九月十六日に哲学館が開設された場所、東洋大学発祥の地でもある。
境内にある教育委員会の案内板―春日の局の墓とともに“哲学館跡”の説明もある。
井上圓了の哲學館=開館
湯島切通し上の麟祥院内に設置せし哲學館は、一昨十六日假開館式を執行したり。午後二時頃來賓及び生徒一同は式場に着席するや、館主井上圓了氏は該館設立の趣旨を詳かに演じ終て、此設立を賛成して多少の寄附金を贈與ありたる諸氏に對し、懇ろなる謝辞を述べたり。・・・中略・・・式畢りて堂の書院に於て招待の人々へ茶菓を供せり。當日の來賓は多く大學の學士と各宗の學僧等にてありき。(『東京日日新聞』明治二十年九月十八日付)
のちに四代目の東洋大学長となった境野黄洋は麟祥院時代の哲学館の様子を次のように語っている。
あの頃のことを思うと、なんとも云えない感激がわいてくる。私が哲学館で学んだ頃は、言語に絶した、不完全きわまるもので、学校とは名のみ、徳川時代の寺子屋式であって、かの湯島の寺の一室を借りて校堂に当てられ、日々通学する学生は、今日のような制服制帽をもって一定されているのではなくて、あるいは洋服あり、あるいは破れ袴あり、すこしふるったものになると、金襴の袈裟に数珠といういでたちの者もあるというありさまであって、年齢も老いたるは四、五十、若いのは二十歳くらいなのもいて、じつにもって、今にして思えば仮装行列とも見られるべき姿で平気で通学していた。
しかし、この不完全なところが、ある意味では興味があったように思う。(『伝円了』平野威馬雄)
境野黄洋は宮城県の生まれ。仙台の曹洞宗専門支校で仏教の講義を聞き、上京後哲学館に学んだ。曹洞宗専門支校は昨年の明治神宮野球大会決勝で東洋大学と顔を合わせた東北福祉大学の前身である。
(ちなみに“曹洞宗専門本校”は今の駒沢大学)
“東洋大學発祥之地”碑
もうひとつ野球絡みの話で云えば現巨人のOB岩舘学選手や現在も在学中の伊藤哲士選手の母校である成田高校の前身、旧制成田中学を創立した石川照勤もこの地で学んでいる。石川照勤は明治二十三年に哲学館を卒業したあと明治二十七年には弱冠二十六歳であの成田山新勝寺の第十五世貫首となった人。中学設立のほかにも成田図書館の建設などの事業に着手した。
創立者井上円了は大正六年十一月の創立三十周年記念式に於いて
「同校はなんら入学者の資格を定めず、極端な開放主義を取ったので志望者雲集の有様で、学生の多くは天保、弘化、嘉永、安政時代生まれの老人から十七、八歳の青年までたちまち数百名に及び、教師の平均年齢よりも学生の年齢の方が遙かに多いと云う奇観を呈したので、『生徒』と云うのが少々気の毒な処から、館内員と云う名称を用うる事にした」(『東京朝日新聞』大正六年十一月十二日付)
との感想談を語っている。
前述の石川照勤もこの式典に列席し、出身者総代として祝辞を述べた。
春日の局墓所
この写真では正面のものしか見えないが、穴が東西南北に四つ開いている。これは、「死して後も黄泉より此の世を見て、政道をを正すべし」との遺言によるのだそうだ。
麟祥院は臨済宗の禅寺。拝観は三時までなので行かれる方はご注意を・・・。
麟祥院からは歩いて五分ほどの湯島天神へ。
湯島天神―暖かいせいもあってかなかなかの賑わいだ。
境内の梅―七分咲きといったところか・・・。
梅酒の試飲コーナー―遠慮なく頂きました・・・。
イベントステージ―この時は白梅太鼓というのを演っていた。
同じく白梅太鼓―動画
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3月8日までの梅まつり期間中は様々なイベントが予定されているようだ。
湯島天神公式ホームページ
湯島から根津を経由して白山方面へ。
寺の屋根から生えるマンション―いかにも素人カメラマン好みの構図・・・。
弁慶の井戸―偶然通りかかって見つけた・・・。
義経と奥州へ向かう途中弁慶が見つけたそうです。池の端一丁目。
突然顔を出してきた犬―本郷通り・向ヶ丘にて。
白山上のとんかつ屋・キッチンもんきー―閉店の張り紙。再開発でビルになるそうだ。
並びの履物屋さんやお寿司屋さんも同じく閉店・・・。
この通りの先、白山上に出る角の三角のところは大正の一時期、今は普通の本屋さんとなった南天堂の出版部門があったところ。三角二階と呼ばれていた。
白山神社社殿―本数は少ないがこちらは紅梅がきれいに咲いていた。
発見・白山神社に住む猿!・・・ではなくて一応猫のようだ。
人間如きに構ってはいられない・・・。
東洋大学―かつての“寺子屋式”の学校の現在の姿。
ここからさらに徒歩にて巣鴨駅へと向かい帰宅した。この日は陽が落ちてからもさほど気温も下がらず、心地よい半日の“超ミニ旅行”でした。
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