邪馬台国(ヤマタイ国) 魏志倭人伝に登場する謎の女王ヒミコの国。
古くは、邪馬壹国、倭面土国、とも書く。
(ヤマイツ?、ヤメンド?)発音は判らないが福岡県八女市の「八女」や「八女津姫」に通じる転訛のようだ。
訛り、というより日本の古代発音は40音であり、5段活用はなく4段活用で、マとメの区別もない未分化な発音だったらしい。
マ = メ、 ヤマ = ヤメ になる。
ちょっと判りにくいが、
ようするに、酔っ払いがクダを巻いている様な曖昧な発音で、
やまてぇ国、 やめつぇ国、
どちらも同じなのだろう。。。
…志村けんが 「あんだって?? 」 と聞き返しそうな発音だ(-_-;)、、
漢字を当てはめ 邪馬壹国=八女津国 になるかどうかは別として、
奥八女にある八女津姫神社に向かう。
・・・当時の中国人はこの訛った人達のへべれけな発音に漢字を当てはめるのに苦労したことだう。(邪馬堆は昔の訛りと史書にも注釈がある)ホツマツタエでは48音からなるアワの歌を教えることで民の言葉の乱れを整えたという。
八女ICより442号線で一時間ほど。
ここの岩窟に来る人を神秘的な感じにさせることから【神の窟】と呼ばれ、
この付近の地名【神窟】の由縁となっている。
静かなパワースポット、岩窟の下にある木のイスは瞑想するのにちょうどいい。。。
神窟の名のとおり神秘的なパワースポットであり、どこかしら懐かしさも感じる。
今まで邪馬台国について考えたこともなく、いつも通りすぎる三重県平尾神社の前の御嶽の様な小山とか、奈良県の倭迹百襲媛命の箸墓古墳がきっと卑弥呼の墓なのだろう…と漠然と思っていた。
(すると倭迹百襲媛命のお墓はどこ??)
実際 『邪馬台国へ行ってみよう☆』 と思うと、何故か迷うことなく福岡県の八女市へ。
八女津媛神社の手前の姫御前岳の場所がよく分からないので岩戸山歴史資料館で尋ねたところ、邪馬台国を訪ねてきたと直ぐに感じたようで大変親切に教えてくれた。
姫御前岳近くのグリーンピア八女あたりからすぅぅ~と少し空気が変わる。
きっとこの周辺は弥生時代から、そう変わらない風景がずっと続いているのだろう。
八女津姫神社の手前、日向神ダムのハート岩
八女津姫神社
福岡県八女市矢部村北矢部4015
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ □
【聖地・パワースポット】というブログの趣旨から外れてしまうが、
今回は、恐縮しつつ邪馬台国についてB級長文を書いてみた(*_*;
◆◆◆ヤマタイ≠ヤマト王朝
私は卑弥呼の【邪馬台国】と、現代の日本の起源であるヤマト王朝とが、別の国である様な気がしてならない。
中国などでは地名を国号にするため、全く別の国であっても同じ名称にされることが多い。地名を国号として名乗れるのは、その地の支配者たる所以だ。例えば、「梁」と名乗った国だけでも8カ国もある。蜀と呼ばれる地に建国すれば「蜀」(劉備)という国号にし、後から別の国が蜀の地に建国されても「蜀」(王建)という国号を使う。
後に建国された国は「大」を頭につけ、「大蜀」等と名乗ったりするが、邪馬台国の後の、ヤマト王朝も、おおやまと(大倭、大日本)等というので、前王国と区別され建国された、いかにも大国ですっぽい名乗りの雰囲気がある。例え、同じ地で建国された国であったとしても別の王朝なのだろう。
※巷説ではヤマト王朝自体も、継体王朝の様に第2王朝、第3王朝といくつもの王朝交代があったとされている。
◆◆◆ヤマタイ≠日本書紀
・・・更に(-_-;)
「卑弥呼」の名は、ヤマト王朝の史書日本書紀、古事記には一切登場しない。一方で、中国や朝鮮の史書にはしっかりと外交が記録されている。
瀬織津姫や菊理媛の様に、ひっそりと存在を知られてもよさそうなものだが、消された気配すらなくホツマツタエにも登場せず神皇正統記にさえ何も書かれていない。(元々知らないのだろう)
卑弥呼の敵対国である狗奴国や男王「ヒミコク」、「クコチひこ」という狗奴国の官名も登場しない。狗奴国のクナは=クマで、熊本県球磨に比定され、「クコチ」は熊本県菊池郡の久々地(ククチ)に比定される。
当時、狗奴国との戦に際しては、魏から張政という特使が派遣され、邪馬台国には魏軍の軍旗が与えられ、ヒミコの使ナシメは魏国より「率善中朗将」なる称号を授かっていた。
魏にとっては邪馬台国を外縁の遊軍として置くのは、呉国に対する布石であり、呉国はこれに対抗して一万の兵を九州に派兵した。
一万の兵は辿り着かなかったらしいが、一説には狗奴国と邪馬台国との戦は呉軍との代理戦争だったという説もある。
帯方郡守は自ら洛陽に赴き魏帝に、邪馬台国と狗奴国との風雲急を報告し、魏帝の詔書を預かった。
そうした、当時の魏国との関係や極東情勢についての緊迫した超~重要なストーリーが、古事記・日本書紀には全く書かれてない。(*_*;)
当時の中国人は、『倭』と『東倭』を別々の国として認証してたので、
魏志倭人伝は九州王朝の歴史を記し
古事記・日本書紀は、
大和王朝の歴史を記したと考えるのが自然なようだ。
同じに考え様とするのは、
日本人の大和贔屓がなせる処だろう。
◆◆◆ヒミコ≠天照大神
しかも、古事記・日本書紀では、天照大神の後に天忍穂耳命、ニニギ命、、神武天皇…と男王が続いている。
巷説では、卑弥呼と天照大神や神功皇后を同一人物として邪馬台国とヤマト王朝が結びつけられたりもされているが、魏志倭人伝では、ヒミコが亡くなった後、男王ではダメで女王トヨ(イヨ)が後を継ぎ国をまとめ中国にも調使しているので王統の話しとしては全く違う。
日巫女、日向、日御子、天照大神と呼び名は近いが、
やはり邪馬台国は、天照大神がしろしめす国とは違う、
別の前王朝の国なのだろう・・・。
ヤマト王朝とヤマタイ国を区別し、取りあえず畿内説はおいておく。
◆◆◆邪馬壹国(ヤマタイ国)=九州説
邪馬台国説は400説以上はあるというが、概ねは倭人伝に比定される福岡県糸島半島(=伊都国)周辺を起点として、
「水行10日陸行1月」という記述に行程を合わせようとしている。
九州説だけでも沢山あるが、どれかひとつを選ぶとすれば真野和夫氏「邪馬台国論争の終焉」のコンパクトなエリア説。
比定地が福岡北部~熊本県なので、その間にあって然るべきなのだろうが「水行10日陸行1月」という記述がある為そのエリアには収まらなくなってしまう。
それでも、倭人伝の比定地らしい名残は全てその周辺をさしている。
【大分県】
邪馬(ヤマ)国=耶馬溪
躬臣(クシ)国=玖珠(クス)町
【福岡県】
巴利(ハリ)国=杷木(ハキ)町
支惟(キイ)国=基肄(キイ)城下(基山)
烏奴(ウナ)国=鳥栖市
伊都(イト)国=糸島半島
【長崎県】
末羅(マツラ)国=松浦市
【熊本県】
狗奴(クナ)国=球磨川
(里程説)「水行10日陸行1月」は謎が深く、普通に考えると太平洋海上になってしまうので、近畿や北海道・沖縄・フィリピン迄広大なエリアへの検証説を多数生んでいる。
しかしヘイエダール博士の様に舟で水行を再現する学者はまずいない様で、私は机上の理論のみの「水行10日」里程説はあまり気にならない。(ー_ー)!!
邪馬台国(連合)は宮崎県高千穂の北側、福岡・大分・熊本の接する3県にまたがるエリア~北は耶馬溪、天ヶ瀬、甘木、朝倉、南は八女、矢部村、国見山~酒呑童子山あたりまでだろうか。個人的には、金印は八女市の丸山古墳~84号線と442号線の間付近にある様な気がする。
◆◆◆邪馬壹国(ヤマタイ国)=八女津国
ヤマトやヤマタイは、もともとは「山」が語源と云われ、山迹、山止、等と書かれ、山に居ることを著していた。止=居住の意味で、山に住んでいるので山止とか、以前は山に住んでいたので、山迹(ヤマアト)など諸説ある。
何故かというと、古代九州は現在のような平野が少なく、海か湿地帯ばかりで山にしか住めなかったからだそうだ。(山だらけの島と中国の史書にも)
不弥国側、豊後地方の【耶馬溪】【八面山】方面から、山路だけで八女の姫御前岳あたりまで行くとすれば、ざっと29の山を越えてゆくことになる。一日一山のペースだと調度「陸行1カ月」くらいかかるのだろう…。
山路を行かず、水路で行くとすると、川か湿地帯、或いは平野に近い遠浅の海を舟で行くことになる。
那珂川・御笠川あたりから筑後川を抜け矢部川で八女方面へ大きく蛇行して出たとしても、合わせてせいぜい200~300㌔の距離しかないが、(朝鮮~九州くらいの距離)当然、水深は浅く喫水線の低いディンギーやカヌーくらいの小舟でなければ行けず、海を渡る様なクルーザー級の船での航行はできない。
小舟で行けばやはり10日くらいはかかってしまうのかもしれない。
弥生時代のカヌー(丸木舟)
水田を縫い、湿地や潟、山間の川を這う様に抜ける【カヌーでゆくジャングルクルーズ・10日間の旅プラン】
この筑後川説「水行10日」はマイノリティで、殆どが海航路【クルーザークラスでゆく航海・10日間の旅プラン】を前提としている。
海を行く場合には「一海を渡る」とちゃんと書かれているのだが、ここでは海路を航行したという記述は無いのに何故?海を渡ることを前提にした説が多いのかは分らない。(皆、海好きなのだろうか?ジャングルクルーズを知らないのか、、)
後の古墳時代に登場したクルーザー
二股の船首は、海上とラグーン(潟)や河川、両用航行タイプのものなのだろうか?
干潟の潮汐にも対応できるのかもしれないが、やはり川にはちょっと大きい。
私は、九州に住んでいた頃、ママチャリで福岡~久留米まで半日かからず行ったことがあったので、舟で10日もかかる場所にあったというヤマタイ国が福岡県南部にあったという説が、とうてい信じられなかった
しかし、平野も少なく山だらけのうえに治水も道路整備もろくにされず国道も県道も無い時代であったことを考えると、或いはそんなものだろうかと思うようになった。(※山だらけの島
=沖縄の西表島をイメージするとぴったりくる)
実際に奥八女から耶馬溪方面まで抜けてみて山の国であったことを感じてみると、コンパクトな説にもリアリティを感じる。
当時の服装や靴で、あたる風の冷たさや湿気を感じながら、机上の理論だけでなく、有明海の干潟や北海道の湿原を当時の九州平野にみたてて、実際に小舟で10日で進めるものなのか再現してみたくなった。。。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
日本を征服した天氏一族(天孫族)は、北方ルートより日本に上陸し日本列島の中央構造線に沿って西へと踏破していった。途中恵那山で、天照大神が誕生し、さらに中央構造線を西へと進み、四国~宮崎へと進出し(降臨し)拠点を構え4代にわたり定着し力を蓄える。
5代の神武天皇の代になり、再び東へ侵攻し、まだ帰服させてなかった中国地方や近畿地方を従え、ほぼ日本の東から西を統べ、その中心地奈良県(中央構造線の中心)でヤマト王朝を開いた。
伊都国、奴国、~ ホツマ国(日高見国)、千足国など王朝建国前には多数の小国があり、邪馬台国もそうした国々の一つだったのだろう。
大陸北方からの支配階級の南下により、半島~列島にかけては高句麗、百済、新羅、倭国と王朝建国ラッシュが続き、多くの国や民族が帰服するか滅びていった。
王朝建国前の先史時代は、まつりが = 祭り、政り事 とに別れることなく
『神の坐す磐座があり、王の玉座はなく、王朝がまつり事を行わず、みな天地の神をまつった。』
とある。
~古代から中世へ、祭政一致の時代から祭政分離へと変化してゆく時代~
ヤマト王朝は、神聖を政治利用している節もあり、既に分離してしまっている。
ヤマタイ国は、
卑弥呼が鬼道(道教?)に通じ衆を惑わしたとされ、弟との祭政二元政治とも云われるが、
或いは、霊性最後の国だったのかもしれない。
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