もうだいぶ前になるが、教育構造特区して認可された、英語で小、中、高の教育を行うある学校の模様がテレビで放映された。その様子を見て、私は大きな悲しみとともに、それを行う、否、それを「押し付ける」大人の身勝手な考え方、無知に強い怒りとともに、憤りを感じた。また、それをあたかも意味のある教育であるかのように伝えるメディアのあさはかさにも暗澹たる気持ちを持たざるを得なかった。その教育が何を生むのか、それが子供達にどんな影響を与えるのか、私はそういった教育の被害者となりかねない子供達への思いが今も強く残っている。
イマージョン教育、日本語では「英語漬け教育」と一般的に言われる。私はその効用を否定するものではない。英語教育においてその教育法はそれなりの位置を持ち、事実、私自身もその教育に大学レベルで関わっている。問題は、その利用の仕方である。果たしてそのような教育はどのレベルから、どの年令層から行うべきか、ということである。言語教育は、その行う、あるいは、受ける年令により、単なる語学教育ではない。それは、特定の文化教育となり、個人のアイデンティ形成のための教育となる。人間の行動様式、思考パターン、性格、社会性、物事の認識等、いわゆる、人間形成は、それを学ぶ媒体、言語と大きく係わっている。ゆえに低年齢からの言語教育は、子供のアイデンティ形成にたいする理解なくして安易に行われるものではない。人間は社会的動物であり、自分がどの社会、どの文化、グループに属するかというのは、極めて重要であり、それは個人の存在そのものと大きく係わっている。アイデンティの無い人間を育てることは、その国にとっても無利益なことであるばかりか、そうなってしまった子供は不幸であり、後の苦しみを乗り越えるという心理的苦難を負わされてしまうのである。筆者はそのような事例を多く知っている。
「世界に羽ばたく人材を創りたい。そのためには英語が必要である。英語教育においてイマージョン教育(英語漬け教育)が効果的である。イマージョン教育は低年齢であればある程効果的である。では、小学校から始めよう。否、幼稚園から…。」大人の論理はこんなところであろう。確かにイマージョン教育は新しい言語の習得に効果的である。特に低年齢の子供には大きな効果がある。そのことはカナダのフランス語イマージョン教育の研究、第一言語及び第二言語習得理論の研究等によって明らかになっている。しかし、それは子供の母語習得過程と認知的発達を考慮しつつ、各段階での目的を明確にしつつ行うべきものである。「英語によるコミュニケーションができること」等、内容が曖昧模糊としたままその実践が教育現場に任されることには大きな危惧を感じざるを得ない。
イマージョン教育、日本語では「英語漬け教育」と一般的に言われる。私はその効用を否定するものではない。英語教育においてその教育法はそれなりの位置を持ち、事実、私自身もその教育に大学レベルで関わっている。問題は、その利用の仕方である。果たしてそのような教育はどのレベルから、どの年令層から行うべきか、ということである。言語教育は、その行う、あるいは、受ける年令により、単なる語学教育ではない。それは、特定の文化教育となり、個人のアイデンティ形成のための教育となる。人間の行動様式、思考パターン、性格、社会性、物事の認識等、いわゆる、人間形成は、それを学ぶ媒体、言語と大きく係わっている。ゆえに低年齢からの言語教育は、子供のアイデンティ形成にたいする理解なくして安易に行われるものではない。人間は社会的動物であり、自分がどの社会、どの文化、グループに属するかというのは、極めて重要であり、それは個人の存在そのものと大きく係わっている。アイデンティの無い人間を育てることは、その国にとっても無利益なことであるばかりか、そうなってしまった子供は不幸であり、後の苦しみを乗り越えるという心理的苦難を負わされてしまうのである。筆者はそのような事例を多く知っている。
「世界に羽ばたく人材を創りたい。そのためには英語が必要である。英語教育においてイマージョン教育(英語漬け教育)が効果的である。イマージョン教育は低年齢であればある程効果的である。では、小学校から始めよう。否、幼稚園から…。」大人の論理はこんなところであろう。確かにイマージョン教育は新しい言語の習得に効果的である。特に低年齢の子供には大きな効果がある。そのことはカナダのフランス語イマージョン教育の研究、第一言語及び第二言語習得理論の研究等によって明らかになっている。しかし、それは子供の母語習得過程と認知的発達を考慮しつつ、各段階での目的を明確にしつつ行うべきものである。「英語によるコミュニケーションができること」等、内容が曖昧模糊としたままその実践が教育現場に任されることには大きな危惧を感じざるを得ない。