去年の11月のおわりに鳥取に。
白兎神社の次に、宇部神社に。
せっかく遠くにきてるのだから御朱印をできるだけ集めたい私の希望で。
自分の御朱印記録みたいなもんなんで
適当にスルーしてくださいね。
住所は鳥取市国府町宮下字一宮651です。
祭神は武内宿禰命(たけしうちのすくね)
武内宿禰命は360余歳の長寿であったため長寿の神とされる。そうで
明治32年(1899年)、神社で初めて拝殿が日本の紙幣の図案となり
その後も数度社殿や祭神が図案となったため
金運・財宝の神ともされる。そうです。
祖神を祀ったとされる伊福部氏の居住したころが創建と思われる。
『因幡国伊福部臣古志』には伊福部氏の第16世
伊其和斯彦宿禰(いきわしひこのすくね)が因幡国造となり
成務天皇から賜った太刀等を神として祀ったとあるのが
当社の創祀かもしれないんだとか。
吉田家本『延喜式神名帳』には、仁徳天皇55年
三百六十余歳の武内宿禰が因幡国の宇倍山中腹の亀金山に
双履を残して行方知れずになったとある。
当地は遺跡が多く、国府が置かれるなど
古くから因幡国の政治・文化の中心であり
当社も尊崇され、『延喜式神名帳』では因幡国唯一の名神大社に列し
同一宮とされた。承徳3年(1099年)、因幡守となった平時範が
国府に初登庁した翌日に当社に参拝して奉幣や告文を行い
郡司からの利田請文を奉納したと知られるんだとか。
中世以降、社領を失って衰退し、天正9年(1581年)
羽柴秀吉の鳥取城攻めで社殿全てが灰燼となり
神職も離散したが、『鳥取藩史』によると
江戸時代初期、寛永10年(1633年)鳥取藩主池田光仲の
社領25石の寄進を受けて社殿も復興したとされ
歴代藩主の崇敬を受けたそうです。
本殿。
『二十二社註式』にある大化4年(648年)の創建以降
社殿はたびたび再建され、現在の本殿は明治31年(1898年)の再建。
正面三間側面二間の三間社流造の正面一間に向拝を縋破風で
付け千木・鰹木を置く。
同年、本殿階下の正面一間側面二間の切妻造妻入の幣殿と、
方三間の入母屋造妻入で正面に一間の向拝屋根を追加した
拝殿(幣殿に接続)も再建された。以上いずれも檜皮葺。
双履石(そうりせき)。
後丘の亀金山に本殿を見下す位置にあり、祭神終焉の遺蹟と伝える
磐境であるが、地下1.2mの所から竪穴式石室が発見され
古墳時代前期末から中期の円墳(もしくは前方後円墳)の一部と判明した。
そうです。
住所は鳥取市国府町宮下字一宮651
26枚目御朱印ゲットだぜぇ!
このあと私たちは恐怖の体験 を
することになるのですがそれはまた。