これは、コースを実践する上で相当重要なポイントだと感じています。
おそらく、多くの実践者の方が陥りがちなところなのだろうということなのですが
真に必要なのは「投影をやめること」であって
「知覚を訂正することそのもの」ではないのだ。
というところ。
知覚の訂正は、赦したら自動的にそうなるだけのことで、、、
目的が「知覚を訂正すること」
だとすると、コースが導こうとしている実践の角度からは、ずれているのだろうと思います。
知覚を訂正するという赦しの方向性は、
真の目覚めに到達するための訓練の足掛かりではあるのだけれども
基礎練習のうちの一つではあるのだけれども、
「知覚を訂正すること、それ自体が真の目的ではない」
ということを覚えておく必要があると思うのです。
最近、ここら辺についてご質問をいただくことが多くなってきています。
実のところ、「今、自分はどんな知覚であるか?」ということは、、、、
赦しのチャンスとして捉えることができる大切な「印」ではありますが
正直なところ、レッスンする上では、どんな種類の知覚なのかは全く問題になりません。
(そうだったのだ。ということが、だんだんわかって来ます)
A:爆裂な憎悪、爆裂な怒り
と、
B:ほとんど自分でも気が付かないくらいの、ちょっとしたイラつき
そのA、Bとも 全く同じ原因から生じている。
その原因による一律の結果であり、完全に狂った知覚である。と言えるんです。
もっと言うと、爆裂な愛と感謝状態でないのであれば、
実相から見たら
それは、完全にあり得ない狂った状態なんです。
実相からはそのような知覚は、想像すら出来ません。
究極的に言うと、、、
爆裂な愛と感謝状態でない 知覚は
すべて一律の、分離の信念 由来の、誤創造、自我による投影の結果ということになります。(レベル1からの理論)
極端な話をしないと、なかなか理解しずらい場合があるので、このような表現をしていますが
爆裂な愛と感謝状態でない知覚のあらゆるバリエーション(様々な序列があてがわれている知覚)は
たった一つの幻想・幻覚・知覚と言えます。
例えばですが、「静寂で、なんにも隔たりがない空っぽな感覚だなー。」
が、「全然違うよ、それじゃダメなんだよ」
という意味なのではなく
「いやいや、本当のあなたの喜びは、そんなもんじゃないよ。真に目覚めて本当の爆裂な愛の自覚に戻りましょう。」
と、聖霊はずっとずっと肩を叩いてくれている。
ということで
私たちは、その声をかき消すことに、今迄必死だったこと
その声を聞きたくなかったことを認めていこうよ。
ということなんです(*^^*)
どんな恐れや、憎悪や、悲しみを知覚したとしても、ほんの少しのイラつきを知覚したとしても
それらには、まったく差がなくて一律の結果に過ぎないので
実のところ、、、
本当に、問題になりません。
これは抑圧でも否認でもなく、
その知覚を「これは確かに自分のものなんだ!!神の愛でないものは、確かにあるの!!」と言い張らない心は
ただただ、静かに退くことができるということなんです。
頑張ろうとすればするほど、ものすごく困難なことになってゆきます。
頑張る必要はなく、退く意志を持つこと
降参する意志を持つこと
聖霊の後をついてゆくだけだ。という心になってゆく意欲を持つこと。
イコール=
自分の思考を採用しない。ということで
そのレッスンの中で
テキストの概念、ワークブック、マニュアルの概念を少しずつ、少しずつ、着実に自分に教え続ける。
自分の内側の想念を監視してゆく。
投影に気がつき、赦す。
自分の思考を採用しない。
退く。聖霊の後をついてゆく。(精神的に何もしない)
この循環を繰り返してゆくことなんだな~。と、
そんな風に思うのです。
ビックリするかもしれませんが、
だんだんと、爆裂憎悪にも、爆裂怒りにも、爆裂恐れにも、たじろぐことなく
ただただ赦してゆくことができるようになってゆきます。
いかなる知覚にも左右されなくなる日は、やって来ます。
左右されない状態の中、あーだこーだ不満を述べることなく、
いつも通り赦してゆけるようになる日がやってきます。
その後、多少の混乱や後戻りのように見える時期も、きっと何度もあると思いますが
それも問題にならない。
ということが、なぜかわかる。
、、、というのは、聖霊を信頼しているからなのだろうと思います。
大丈夫。
一歩一歩、何度も何度も繰り返しの赦しの訓練で
私たちは、必ずそうなってゆけるはずなんですね。
このあたりは、名古屋の交流会でも触れていったテーマの一つでした。
☆追記☆
テキスト編の引用を忘れていました。
知覚を訂正することは単なる一時的な方策にすぎないという点は、何度強調してもしすぎることはない。
それが必要である唯一の理由は、誤った知覚は智識に対する障壁である一方、
正確な知覚は智識に至るための飛び石となるからである。
そもそも正しい知覚の価値は、それがいずれ必ず、すべての知覚が不要だという理解に達するという点にある。
これが障壁をすっかり取り除く。
奇跡講座テキスト編 P100/中央アート出版社(T-4.2.11:1~4)
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おそらく、多くの実践者の方が陥りがちなところなのだろうということなのですが
真に必要なのは「投影をやめること」であって
「知覚を訂正することそのもの」ではないのだ。
というところ。
知覚の訂正は、赦したら自動的にそうなるだけのことで、、、
目的が「知覚を訂正すること」
だとすると、コースが導こうとしている実践の角度からは、ずれているのだろうと思います。
知覚を訂正するという赦しの方向性は、
真の目覚めに到達するための訓練の足掛かりではあるのだけれども
基礎練習のうちの一つではあるのだけれども、
「知覚を訂正すること、それ自体が真の目的ではない」
ということを覚えておく必要があると思うのです。
最近、ここら辺についてご質問をいただくことが多くなってきています。
実のところ、「今、自分はどんな知覚であるか?」ということは、、、、
赦しのチャンスとして捉えることができる大切な「印」ではありますが
正直なところ、レッスンする上では、どんな種類の知覚なのかは全く問題になりません。
(そうだったのだ。ということが、だんだんわかって来ます)
A:爆裂な憎悪、爆裂な怒り
と、
B:ほとんど自分でも気が付かないくらいの、ちょっとしたイラつき
そのA、Bとも 全く同じ原因から生じている。
その原因による一律の結果であり、完全に狂った知覚である。と言えるんです。
もっと言うと、爆裂な愛と感謝状態でないのであれば、
実相から見たら
それは、完全にあり得ない狂った状態なんです。
実相からはそのような知覚は、想像すら出来ません。
究極的に言うと、、、
爆裂な愛と感謝状態でない 知覚は
すべて一律の、分離の信念 由来の、誤創造、自我による投影の結果ということになります。(レベル1からの理論)
極端な話をしないと、なかなか理解しずらい場合があるので、このような表現をしていますが
爆裂な愛と感謝状態でない知覚のあらゆるバリエーション(様々な序列があてがわれている知覚)は
たった一つの幻想・幻覚・知覚と言えます。
例えばですが、「静寂で、なんにも隔たりがない空っぽな感覚だなー。」
が、「全然違うよ、それじゃダメなんだよ」
という意味なのではなく
「いやいや、本当のあなたの喜びは、そんなもんじゃないよ。真に目覚めて本当の爆裂な愛の自覚に戻りましょう。」
と、聖霊はずっとずっと肩を叩いてくれている。
ということで
私たちは、その声をかき消すことに、今迄必死だったこと
その声を聞きたくなかったことを認めていこうよ。
ということなんです(*^^*)
どんな恐れや、憎悪や、悲しみを知覚したとしても、ほんの少しのイラつきを知覚したとしても
それらには、まったく差がなくて一律の結果に過ぎないので
実のところ、、、
本当に、問題になりません。
これは抑圧でも否認でもなく、
その知覚を「これは確かに自分のものなんだ!!神の愛でないものは、確かにあるの!!」と言い張らない心は
ただただ、静かに退くことができるということなんです。
頑張ろうとすればするほど、ものすごく困難なことになってゆきます。
頑張る必要はなく、退く意志を持つこと
降参する意志を持つこと
聖霊の後をついてゆくだけだ。という心になってゆく意欲を持つこと。
イコール=
自分の思考を採用しない。ということで
そのレッスンの中で
テキストの概念、ワークブック、マニュアルの概念を少しずつ、少しずつ、着実に自分に教え続ける。
自分の内側の想念を監視してゆく。
投影に気がつき、赦す。
自分の思考を採用しない。
退く。聖霊の後をついてゆく。(精神的に何もしない)
この循環を繰り返してゆくことなんだな~。と、
そんな風に思うのです。
ビックリするかもしれませんが、
だんだんと、爆裂憎悪にも、爆裂怒りにも、爆裂恐れにも、たじろぐことなく
ただただ赦してゆくことができるようになってゆきます。
いかなる知覚にも左右されなくなる日は、やって来ます。
左右されない状態の中、あーだこーだ不満を述べることなく、
いつも通り赦してゆけるようになる日がやってきます。
その後、多少の混乱や後戻りのように見える時期も、きっと何度もあると思いますが
それも問題にならない。
ということが、なぜかわかる。
、、、というのは、聖霊を信頼しているからなのだろうと思います。
大丈夫。
一歩一歩、何度も何度も繰り返しの赦しの訓練で
私たちは、必ずそうなってゆけるはずなんですね。
このあたりは、名古屋の交流会でも触れていったテーマの一つでした。
☆追記☆
テキスト編の引用を忘れていました。
知覚を訂正することは単なる一時的な方策にすぎないという点は、何度強調してもしすぎることはない。
それが必要である唯一の理由は、誤った知覚は智識に対する障壁である一方、
正確な知覚は智識に至るための飛び石となるからである。
そもそも正しい知覚の価値は、それがいずれ必ず、すべての知覚が不要だという理解に達するという点にある。
これが障壁をすっかり取り除く。
奇跡講座テキスト編 P100/中央アート出版社(T-4.2.11:1~4)
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