白河の霊巌寺から南に足を向ける。
少し歩くと仙台堀川に出る。
江戸時代、低湿地であった深川の治水や水運のために多くの川が改作された。
今でも、仙台堀川をはじめ小名木川や横十間川などが水をたたえている。
これらの川は、江戸時代には大消費地である江戸に物資を船で運ぶ輸送路として大いに利用された。
明治以降は、工場への資材や製品の輸送に利用されてきた。
ご存知のようにこの地区のすぐ東側には木場があり、近年まで木材の輸送には欠くことのできないものであった。
木更木橋から見た小名木川
小名木川を渡ると冬木町である。
冬木町といえば材木問屋を連想するほどの材木の町である。
新歌舞伎に「冬木心中」という材木問屋の旦那を主人公にした作品もあるほどだ。
冬木の南はもう深川不動尊である。
正式名称は「成田山深川不動堂」・・・深川のお不動さんとして親しまれている。
江戸時代には、現世利益をもとめ社寺への参詣が流行した。
江ノ島の弁財天、大山の阿夫利神社など遊山をかねた参詣が盛んに行われたが、特に成田山新勝寺の人気は大変なものであった。
しかし今は近いとはいえど、当時は徒歩の旅、誰でも行けるというものでなかった。
当時の歌舞伎俳優、初代市川団十郎も成田山を信仰し、現在でも団十郎家の屋号は成田屋である。
元禄十年には、「兵根元曽我(つわものこんげんそが)」で後年歌舞伎十八番に取り入れられる「不動明王」を団十郎が演じている。
団十郎人気と成田山人気が相乗効果のようになっていたのではないか。
そんな折、出開帳(でがいちょう)というものが行われた。
遠方の寺のご本尊が江戸まで出向してくるのである。
鎌倉時代に信州善光寺の出開帳が京都で行われた記録がある。
江戸では元禄十六年の四月から六十日間行われた成田山新勝寺の出開帳がその最初で、現・深川不動堂(当時の永代寺の境内)で行われたものである。
その賑わいぶりは大変なものであったらしい。
さらに、ご本尊は江戸城まで出向たようである。
以後、江戸時代に十度の出開帳が行われ、明治時代になっても続けられた。
当時、出開帳が行われた永代寺は、八幡宮(現・富岡八幡)の別当寺であったため、明治の神仏分離で廃寺となり、その跡地に、常設のお堂を建立したのが、現・不動堂である。
ただし、現在の建物は、震災・戦災で旧本堂が消失したため、戦後千葉県の古寺の本堂を移築している。
深川不動の正月の賑わい
出開帳はほかにも本所回向院で、京都嵯峨清涼寺の釈迦如来、信州善光寺の阿弥陀如来の開帳などが行われていた。
本山の成田山新勝寺は、平将門の騒乱の際に、将門降伏の護摩行を行い、見事将門が滅んだことから、名を馳せた寺である。
江戸幕府は、江戸の中心にドンと構える将門の霊に対する押さえとして、成田不動を利用したという説もある。
この文章を書いていてぞっとしたことがある。
実は、初詣の当日、目的は深川不動へのお守りの返納だったのであるが、あまりの混雑に、横から参拝して、ほかの寺社に足を延ばすことにしたのである。
本当に何も考えていなかったんだが・・・・・行き着いた先は、はるかかなた神田明神だったのである。
ご存知の通り、神田明神のご祭神は平将門なのである。
新年早々、この因縁の糸は何を意味しているのだろうか?
少し歩くと仙台堀川に出る。
江戸時代、低湿地であった深川の治水や水運のために多くの川が改作された。
今でも、仙台堀川をはじめ小名木川や横十間川などが水をたたえている。
これらの川は、江戸時代には大消費地である江戸に物資を船で運ぶ輸送路として大いに利用された。
明治以降は、工場への資材や製品の輸送に利用されてきた。
ご存知のようにこの地区のすぐ東側には木場があり、近年まで木材の輸送には欠くことのできないものであった。
木更木橋から見た小名木川
小名木川を渡ると冬木町である。
冬木町といえば材木問屋を連想するほどの材木の町である。
新歌舞伎に「冬木心中」という材木問屋の旦那を主人公にした作品もあるほどだ。
冬木の南はもう深川不動尊である。
正式名称は「成田山深川不動堂」・・・深川のお不動さんとして親しまれている。
江戸時代には、現世利益をもとめ社寺への参詣が流行した。
江ノ島の弁財天、大山の阿夫利神社など遊山をかねた参詣が盛んに行われたが、特に成田山新勝寺の人気は大変なものであった。
しかし今は近いとはいえど、当時は徒歩の旅、誰でも行けるというものでなかった。
当時の歌舞伎俳優、初代市川団十郎も成田山を信仰し、現在でも団十郎家の屋号は成田屋である。
元禄十年には、「兵根元曽我(つわものこんげんそが)」で後年歌舞伎十八番に取り入れられる「不動明王」を団十郎が演じている。
団十郎人気と成田山人気が相乗効果のようになっていたのではないか。
そんな折、出開帳(でがいちょう)というものが行われた。
遠方の寺のご本尊が江戸まで出向してくるのである。
鎌倉時代に信州善光寺の出開帳が京都で行われた記録がある。
江戸では元禄十六年の四月から六十日間行われた成田山新勝寺の出開帳がその最初で、現・深川不動堂(当時の永代寺の境内)で行われたものである。
その賑わいぶりは大変なものであったらしい。
さらに、ご本尊は江戸城まで出向たようである。
以後、江戸時代に十度の出開帳が行われ、明治時代になっても続けられた。
当時、出開帳が行われた永代寺は、八幡宮(現・富岡八幡)の別当寺であったため、明治の神仏分離で廃寺となり、その跡地に、常設のお堂を建立したのが、現・不動堂である。
ただし、現在の建物は、震災・戦災で旧本堂が消失したため、戦後千葉県の古寺の本堂を移築している。
深川不動の正月の賑わい
出開帳はほかにも本所回向院で、京都嵯峨清涼寺の釈迦如来、信州善光寺の阿弥陀如来の開帳などが行われていた。
本山の成田山新勝寺は、平将門の騒乱の際に、将門降伏の護摩行を行い、見事将門が滅んだことから、名を馳せた寺である。
江戸幕府は、江戸の中心にドンと構える将門の霊に対する押さえとして、成田不動を利用したという説もある。
この文章を書いていてぞっとしたことがある。
実は、初詣の当日、目的は深川不動へのお守りの返納だったのであるが、あまりの混雑に、横から参拝して、ほかの寺社に足を延ばすことにしたのである。
本当に何も考えていなかったんだが・・・・・行き着いた先は、はるかかなた神田明神だったのである。
ご存知の通り、神田明神のご祭神は平将門なのである。
新年早々、この因縁の糸は何を意味しているのだろうか?
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