功山寺決起

青山繁晴事務所から自由民主党の党員になりました。(2020年)

「核共有」だけでは解決しない (2022/10/19)

2022-10-24 19:46:47 | ニッポン放送

「核論議のタブー」を乗り越えて議論するべき

飯田)中国がどれだけのもので日本を狙っているのか、ある意味での脅威認定をした上で、日本がどのように備えるのか。本当はその部分を議論するべきだと思うのですが、財源の話や個別に何を装備するのかという、細かな話にいきがちな報道が続いている気がします。中身の議論はどうなっているのでしょうか?

青山)本質論に踏み込めないことで言うならば、本当の原因は核論議にあります。中国は昔から核兵器で日本を脅しています。中距離核ミサイルで、30万人以上の人口がある日本の都市は、すべて射程範囲内にあります。「照準を合わせている」ということは大昔からあるのです。

飯田)日本の大都市すべてが射程範囲内にある。

青山)それに対抗する抑止力を持つためには、日本で核論議を進めなければなりません。それが完全にタブーになったままなので、「本質論に踏み込むと危ない」という意識が公明党はもちろん、自由民主党のなかにもあるのです。

飯田)核論議をすることがタブーになったままなので。

青山)私が議員になってから党内で言っているのは、内閣を持たせるとか、1つの内閣を続けることを目的にするのは本末転倒であり、短くても長くても関係なく、「本質的なことができるかどうか」が大事だということです。

飯田)本質的なことができるかどうか。

青山)なぜ中国と向かい合うのかという理由は、自国の利益だけではありません。アジア諸国のカンボジアやラオスなど、親中と呼ばれる国々でも、実際に行ってみると中国が好きな人はいません。メコン川に巨大なダムをつくられて川の流れが変わってしまい、利益がすべて中国側に行ってしまっているのです。最も苦しんでいるのはラオスやカンボジアの方々だということを、実際に歩いて感じています。

飯田)親中と言われるカンボジアやラオスで。

青山)日本の責任は、中国の独裁主義からアジア全体を守ることです。中東が発火点だったのは過去の話で、アメリカはシェールガスやシェールオイルを実用化し、日本でも細々ながら自前資源の話が始まっています。中東だけがエネルギーの宝庫ではないので、アジアの独裁主義であるロシアと中国と北朝鮮が、明らかに社会の悩みの原因なのです。それに対して、古代から民主主義国家の日本がどう対峙するかということなのです。

飯田)日本の責任は。

青山)核の問題も含めて、広島や長崎の方々ともよく話し合いながら、いままでのタブーを乗り越え、少なくとも議論はしなくてはなりません。私はいま77人の議員集団の代表でもありますが、そこで核論議や勉強会もこれからしようと思っています。

中国に対する防衛議論が進まない本当の原因は「核論議がタブーのまま」であること 青山繁晴が指摘

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作家で自由民主党・参議院議員の青山繁晴と、数量政策学者の高橋洋一が10月19日、ニッポン放送「飯田浩司のOK! Cozy up!」に出演。核論議の必要性について解説した。 「核論...

ニッポン放送 NEWS ONLINE

「核共有」だけでは解決しない ~核共有が抑止力になっていないヨーロッパの現状

飯田)安倍さんは、「核共有を議論しよう」という話をされていました。

高橋)あの議論が「自民党のなかでどうなってしまったのか」ということが心配です。とりあえず核共有の議論をしようという話がありましたが、引っ込んでしまいました。

青山)私が代表している議員集団「日本の尊厳と国益を護る会」は、77人が所属する大きな組織なので、そこで始めていきます。ただ、私は安倍さんの言っていた核共有だけで解決するとはとても思えません。ヨーロッパで実際に核共有の国々を回ってみると、抑止力にはあまりなっていないのです。

飯田)そうなのですか。

青山)そもそも核共有と言っても、核兵器を入れている兵器庫の鍵は、アメリカ軍が持っているのですから。

飯田)アメリカの許可なしには撃てない。

青山)そして、核兵器は実は劣化しやすいので、本当にいま使えるものなのかどうかも疑問です。安倍さんとしては、問題を初めて提起するという意味ではよくおっしゃったと思いますが、それがゴールだとは思っていません。

「核を持たない」という議論だけでは日本を守ることはできない ~一方では「核をなくす」ということも正しい

青山)岸田総理がおっしゃるような「核を減らしていくべきだ」という考え方も、もちろん正しいので、それと矛盾するということも考えなければなりません。ただし、「核をなくしましょう」と言うだけではテロリストやテロ国家が喜ぶだけです。

飯田)核の話と弾道ミサイルについての話で、ここを組み合わせて、どこがどのように持つのか。潜水艦から対応するのかなど、いろいろと選択肢は広がっていきます。

青山)潜水艦のことも大きいですよね。イギリスには地上発射核はなく、原子力潜水艦の海のなかの核だけで抑止力を持っています。

飯田)イギリスはそこで抑止力を持っている。

青山)そのようなことも日本は考えなければいけません。かつて日本は「むつ」という原子力船があっただけで大騒ぎになりましたが、もうそのような未成熟な世論ではなくなっています。激しい言い合いや議論は必ず必要です。高橋さんや私のように考え方が近い人と話すだけではなく、考え方がまったく異なる人とも議論しなければいけません。自公の協議にしても、「公明党のおっしゃることをお聞きしましょう」という雰囲気だけではなく、前よりは「まともに議論したい」という空気になっているのではないでしょうか。



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ふと、「夜想交叉路」が読みたくなりました。(2022/10/24)

2022-10-24 03:32:17 | On the Road
▼日付が変わって、1時間とすこしが経ちました。
 きのう10月23日の日曜は、拉致被害者の救出のための国民集会に参加して、夕刻に帰宅。
 そして夜、安全保障3文書の改定をめぐって仕事をしているとき、すこし疲れを感じて、ふと、「夜想交叉路」が読みたくなりました。

 そうです、自分自身が書いた物語です。
 そしてあと1か月足らずで新刊書として世に出ます。
 それを、自分で読みたくなるのか。

 なります。ぼくの場合は。
 他の書き手は、ちょっと分かりません、と言うか、存じあげません。
 しかし、ぼくは偶 ( たま ) に、読みます。ただし断片だけです。通して読む気にはとてもなれません。

 もしも、書いたものが日記だったら、おそらく断片であっても読み返さないと思います。
 日記とは違って、本を出すために書いた原稿は、物語 ( フィクション ) であれノンフィクションであれ、ひとさまに読まれることを前提に書いているので、自分を突き放して書きます。
 むしろ、どれくらい自分を突き放して客観的になれるかが、勝負の分かれ目です。
 したがって、出来上がった作品は、断片ぐらいならおのれ自身でも読む気がするまでには客観性、普遍性のあるものになっている・・・はずでアリマス。
この深夜に起きた、命が一瞬、縮みそうになった ( ちと大袈裟 ) 出来事  そして、みなさんからの回答から生まれた深い感謝と敬意

この深夜に起きた、命が一瞬、縮みそうになった ( ちと大袈裟 ) 出来事  そして、みなさんからの回答から生まれた深い感謝と敬意

青山繁晴の道すがらエッセイ/On the Road

青山繁晴の道すがらエッセイ/On the Road

▼しかしこの時、つまり安全保障関連の公務を致しているとき、自宅ではなかったので、ゲラがありません。
( 肉筆で手を入れたゲラは、編集者に渡すほか、自分でもコピーか原本を保存します )
 モバイルパソコンは常に手元に持っているので、そこにある原稿を、ちらりと見たのです。

 すると !
 なんと、物語のなかで一箇所、ひらがなが一字、抜けているのです。「ま」という一字です。

 大事件です。
 ぼくの原稿は4度のゲラ直しを経て、今、印刷と製本の作業に入っているはずです。
 直しが間に合うとも思えませんが、座視するわけにもいきません。
 すこし考えた上で、あえて、担当の編集者である、扶桑社の田中享編集長に電話しました。

 田中さんは深夜にもかかわらず、ふつうに電話に出てくださいました。
 日曜なので自宅にいらしたようでしたが、幸いにも、ゲラを手元にお持ちだったので、確認してもらいました。
 ぼくの声は切羽詰まっていたと思います。
 そして・・・なんと、ゲラではちゃんと「ま」があるとのことです。

「あぁ、それでぼくも、何度ゲラを見直しても、間違いがあると思わなかったのですね。
 原稿を書いた本人に言わずに、ゲラ ( 仮印刷 ) にするときに、直すことってあるのですか ?」

「それは実は、あります。あまりにも明らかな、単純な間違いと分かるときだけですね。
 他はすべて、著者に相談しますが、明白な間違いのときは直して、ゲラにします」

「なるほど。
 あ~あ、安心しました。そして、ご迷惑をかけました」


▼なんでもないことですが、ぼく自身も深く納得できる作品、その出版なので、「ま」が抜けたまま初版が世に出てしまうのかと思ったときには、おのれの頭を殴りたい心境でした。

 やれやれ。

▼ところで、このエントリーにて、サイン会を開くと、拙著から装丁も帯も取って裸の状態で本を持ってこられる人が稀にいらっしゃるという話を書きました。
 すると、びっくりするぐらい沢山のひとから「それは、むしろ装丁と帯を大切に保存したいからです」という趣旨の共通するコメントがありました。
 これは、嬉しいですね。

 ぼく自身、小学生と中学生の時代、いちばん数多く本を読んでいた時代、実際もの凄い数の本を読んでいたころは、確かに、単行本は装丁と帯を外して、読みましたね。
 ただ、お金が無いですから、文庫本の方が多かったです。そして当時の文庫本の大半は、装丁も帯もありませんでした。いわば最初から裸です。
 だから、単行本は自分も装丁と帯を保管してから読んでいたことは、忘れていました。

 ちなみに、子供の頃から、本は著者のためにも買って、読んだあとも古本屋さんに売らずに自分の手元に敬意を込めて、また心の歴史としても、置いておくことにしていました。
 そのときは、ぼくも、装丁と帯を丁寧に元に戻していましたね。

( 図書館のたいせつな意義や、図書館を利用なさるみなさんの熱意や、あるいは古本屋さんに本を売って、次の本を買う資金をつくられるような熱心な読者を、なにか否定しているのでは全くありませぬ。
 物言えば唇寒し、その傾向が強まるばかりの世の中ですが、なるべくありのままに語りたいので、おのれなりの本との関わり方を正直に記しました。
 ぼく自身も、学術研究や調査研究などで図書館を積極的に利用します。また神田の古本屋街も歩きます。図書館も、古本屋さんも、それぞれの人の多様な理由、目的で欠かせない存在ですね。
 上記は、ぼくと本の個人的な関わり方のメインという意味です )

▼みなさんが、装丁と帯も大切にしてくださっていると分かって、深い感謝と敬意の気持ちを感じています。
 写真は、その帯をちょっとアップ気味にしてみました。 ( 装丁と帯のゲラです。本はまだ、見本も届いていません。見本の本が届いたらすぐ、このブログでお見せします )

▼予約してくださるみなさんにも、別次元の感謝と敬意を申します。
 本は、読んでくれるひとが居て初めて、本になれますから、たいへんな感謝です。
 そして、この時代に物語を待望なさることそのものへの、敬意です。
( 予約は例えばここです )

※ なお、冒頭に記した拉致被害者の救出ための集会については、別のエントリーで記します。



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