おきると荘の書斎

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ボカロ考

2013-01-26 07:35:00 | ニコニコ動画
どうも、今日は朝から起きてます、るとすわです。

音楽について他のブログに書いてたらちょっと書きたくなってきたので。

昨今のボカロ情勢については皆様ご存じの通り。
叩く人も結構いる中で、段々一般社会に浸透してきた感じもしますね。


で、今回の記事はPopsを全然聴かなくなったなー、と思ったところから考え始めたんですがね。
ボカロとャbプスを比較するのも野暮かもしれませんが。

ボカロの強みはやっぱり、重苦しい思想を押し付ける必要がない所にあるだろうな、と。これはニコニコ動画自体の強みでもあるかもしれませんね。
最近のャbプスにイメージを想起させるようなものが何もない(これは少々言い過ぎですが)中で、ボカロは変に肩肘張る必要がない分だけ多様な世界が自由に構成されているわけで。
好き勝手言わせてもらいますが、近ごろのャbプスは歌詞も重いし、感謝だの愛情だの感情を直情的に出す割に「お前それ本気なのかよ」感が凄い気がするんですよ。少なくとも、ちょっと前までの流行りではそんな事なかった……と思うんだけど。昔の曲は歌詞を聴いて結構色々思い浮かべられた気がするんですがね。
その点、多くのボカロ曲はまだ詞の中にちゃんとイメージを想起させるものがある。
例えですよ。先に作詞者が何も考えてなかったと仮定して、奇抜な歌詞である事を優先して書いていたとしてもですよ。そこから何かを連想できる引き金として働くなら十分だと俺は思うわけです。

ただ、逆に考えると俺が聴き手としてノーマルな世界観から逃げているだけだと捉える事も可能なわけですがね(苦笑)

さて、一方でボカロには勿論デメリットもあると思ってます。
まず、動画があるという事。

……( ゚Д゚)ハァ?

いや、そうなるのも分かりますが。
先程ャbプスにはイメージを想起させるものが無いと言いました。逆に、ボカロには動画が付いている。ニコニコ動画に限った事ですが。PVという形のものですね。
聴覚だけじゃなく視覚も楽しませられるという点では良いと思うんですが、如何せん画一化されやすい。要は、みんな同じ曲を聴いたら同じPVが思い浮かぶって事です。アニソンとか映画音楽についても同じことが言えますね。例えば、久石譲の曲を聴いたらトトロの1シーンが想起される。
勿論長所でもありますし、動画は曲と映像が合わさってひとつの作品ですから、それ自体は良い。
だけど、初めから曲の世界観が出来上がってしまうのは、それ以上の解釈を狭めてしまう事に繋がるかもしれない。これがある側面から見ると欠点と言えるかもしれません。
コメントによる他者視点の導入とかで対処するしかないですね。

後は、非常に個人的な問題(
ャbプスが自分の頭の中に残りにくくなって事と関連しています。
PVと一緒に見るからそのイメージしか浮かんで来ない、そんでもってイメージを広げる癖そのものがなくなってしまったような気がするんです。
俺が最近のャbプスに浮かんでくるものが無いと言ったのは、もしかしたら俺自身の方に問題があるのかもしれないという事ですね。
補完する習慣そのものがなくなってきたというか。

これ、ゲームでも同じかもしれませんね。スーファミ世代がスーファミは良かったというのは、色々と頭の中で埋め合わせるものがあったからでしょう。
WiiとかPS3とかになってくると、グラフィックが凄く綺麗で世界がもはや出来上がりきっている。これは世界を楽しむ上で十全ですが、無意識的に現実世界とのギャップを埋めるという作業がなくなる。
例えばマリオにしても、かつてのドット絵のような「人間としては不完全な形」であった時には、それを自分の心の中で「完全な人の形のイメージ」へと描きかえる作業が行われていた。

「→キーを押すとこのドットの集合が右に移動して……」という風に見えていた人は少ないでしょう。ドットを人と捉え直す作業だけで、自分の中でゲームに介入する心的な負荷がかかる。その分だけゲームに感情移入する。これが、思い出補正や感動を強くする。「不完全性の良さ」ですね。
だから、任天堂が3Dで作れるようになった今でも横スクロールを作ってるのは素晴らしいと思うわけですが。

さて、話が飛びましたが、俺はボカロと視覚イメージの関係にも同様のものを感じるんですね。
動画まで入ってて至れり尽くせり! なわけですが、それ自身が受容の視野を狭めるという可能性は否定できないかな、と。

なんかこういう話を始めると長くなるのはいつもの事ですが、この辺で切っておきます。