「来年のことを言うと鬼が笑う」と言いますね。
社会の進むスピードはどんどん速くなっています。
自分自身のことを鑑みても、「平成27年になったと思ったらもう3月?」と感じてしまうように、1年1年の体感速度が速くなっているような気がします。
だからこそ、その速さの中で流されるように無為に生きるのではなく、しっかりと生きていくためには、あまり遠くでは見通しが利かないし、近すぎては変わりようがないということで、3年後にはどんな自分になりたいかについての明確な目標を持って、そこから逆算して今の自分は何をしなくてはいけないのか、何をするべきなのかをキチンと考えて行動することが重要になってきます。
というような話をこのブログでも時々ご登場いただいている本宮市出身でカウンセラー、親学アドバイザーの小木曽道子先生に3月15日に大玉村総合福祉センターさくらでしていただきました。
これまで小木曽先生に来ていただく際には「第〇回地域福祉講演会」と銘打って実施していたのですが、今回は講演会というとココナッツのからのようにお堅いイメージがしてしまうので、肩ひじ張らずに参加できて、お互いに相互交流が出来るように「小木曽先生を囲んでのお茶会」という形での実施となりました。
これまで小木曽先生には傾聴やIスピークの重要性とどのように日常生活に取り入れていくか、自己肯定感を高めるために本人や周囲(特に親)はどのようにすれば接したり声掛けしたら良いのか、話をしたら相手に伝わっている(はず)と決めつけるのではなく、それを決めるのは相手だよ、という話をしていただいておりました。
今回はそれを更に一歩進めたお話を最初にしていただいてから、それぞれ参加者からざっくばらんなご意見や日頃の疑問点などについての質疑という形になりました。参加者の質疑等については普遍的な問題から個人的な問題まで、長江の片側に立ってもう一方を見たときぐらいに幅広く、そして雨降り後の竹の子の成長のように活発に出たのですが、それも取り上げるとあまりに長くなってしまうので、小木曽先生がお話くださった内容の一部を切り取った形に私見を加えた形で以下に紹介させていただきます。
まず上でも少し触れていますが、「自己肯定感」。そのまま解釈すれば自己を肯定する感覚。肯定するとは自分に対しての安心感や、信頼感、マイナスの状態になっても自分は大丈夫と思える力のことです。自己肯定感が高い人は困難に直面しても前向きに取り組めるし、失敗したとしてもまたチャレンジしようという意欲を持つことができます。
しかし反対に自己肯定感が低い人は、困難に直面して本来ならドアがあるかもしれない壁面を見ただけで越えるのを諦めてしまったり、心が長く出したシャープペンの芯のようにすぐに折れてしまいます。
この自己肯定感の高低には幼児期からの周囲の関わり、特に親の接し方や声掛けが重要です。
そして自己肯定感と同じような言葉で「自己価値感」というものがあります。
自己価値とは自分は価値があるという感覚です。価値があるからこそ自分の人生を受け入れることが出来るので、生きる喜びを感じることや、生きていく上での喜びや楽しみ、幸福感を味わうことが出来るという事です。ですので、自己価値観がきちんとしていれば、自己肯定感の高い人になれます。
逆の言葉に「自己無価値感」というものがあります。これは読んで字のごとし、自分が無価値であるという感覚です。しかし無価値であるとは思いたくないので、演技をしたり、虚勢をはったりと、ありのままではない自分を作り出します。
そう考えると英語のperson、日本語では人間の語源が、ラテン語のpersona、仮面というのは面白いですね。
きっと昔の人も生きるのが大変だったから、仮面をかぶって表層人格を隠しながら生きていたのかもしれません。
夏目漱石も草枕の中で「智に働けば角が立つ、情に掉させば流される。とかくこの世は住みにくい」と書いているぐらいです。
と、なんだかどんどん話が逸れていきそうな気がするので、話を戻しますと、無価値感によって、買い物依存症になったり、自己中人間になったり、自分は無価値だと考えているわけですから、行きつく先は自殺ということになってしまいますね。
というわけで、自分が価値がある人間だと感じれるようになるためには、その形成の出発点である幼児期からきちんとした関わり方が大切になってきます。
自分の子どもに対して、ちゃんと安全欲求を満たして、自分は守られているという感覚を与え続ける事、きちんと親子で心の共有がなされていること、そしてあなたがいてくれて嬉しいという実感を与える事によって、子どもはお父さん、お母さんがこれだけ自分のことを大事にしてくれているんだから、自分は生きていて良い、生きる価値のある人間なんだと感じることが出来るわけです。
ですから、親や祖父母等の肉親による誠実な努力を重ねる中で、少しずつ自己価値感を感じれるようになっていくわけです。
これが成人した人で無価値感しか感じることのできない状態の場合には、病院に行って薬を処方してもらうような特効薬はありません。
なので、まずはどんな人であっても何も良いところがない人はいないはずなので、自分の良いところを見る、そして相手から褒めてもらった言葉は表面上では謙遜したとしても、内面では素直に受け取る、そしてダメな私ではなく、私には価値があるというように自己暗示をかけるということを、ゴンドラを使わないで山に登るみたいに地道に一歩一歩積み重ねていくしかありません。
学びに年齢は関係ないと言われます。生涯学習の時代ですから、興味があるもの、面白いと思える対象を見つけることが出来れば、その「面白さ」を燃料に進んでいけます。
ですから自分の中に面白いものを見つけることができれば、その面白さは価値がある、ということに変換できるはずです。
自分に価値があると思える人の人生はきっと満足の行くものでしょう。人生の目的はマスコミで言っている勝ち組、負け組の勝ち組に分類されることではなく、自分がどのぐらい満足できたか(もちろん異論がある方もいるでしょうが)にあります。
と言うわけで、もちろん途中からでも自己価値感を得ることが出来ますが、生育過程で得ることもできます。
そのためには現在子育て中の方、これから子育てをする方は乳幼児の時からの関わりが大事になってくるわけで、親がこういう子どもに育って欲しいと親のエゴやなれなかった自分の投影ではなく、自分の子どもがしっかりと自分を律することが出来て、自分で立つことが出来て、自分で生活出来るのを前提としながら、子どもの何になりたいかをサポートするのが「子育て」とのことでした。
もちろん「小木曽先生を囲んでのお茶会」ですから、美味しいお茶や大玉の特産の饅頭や団子を食べながら、予定時間を1時間もオーバーしながらも濃密な時間となりました。