南方単車亭日乗

奄美大島にIターンした中年単車乗りが、てげてげに綴ります。
はじめての方は、最初に《ごあいさつ》をお読みください。

初夏の加計呂麻を行く 拾壱

2006年05月28日 00時13分03秒 | 南方単車旅案内
初夏の加計呂麻を行く 拾よりつづく。

加計呂麻(かけろま)島の北西端の集落、阿多地(あだち)を、チョウチョとデイゴを追い掛けて歩いている。
連休ということもあってか、なん軒かの家から子供の声が聞こえる。
その一軒から、島唄が聴こえてきた。



休み休み、おそらくは老境に達したであろう男性が三線(*1)を弾きながら唄う。
「朝花節(あさばなぶし)」だ。
低く無理のない音程で、奄美の島唄ではもっとも尊いものとされる《懐(なち)カシャ》(懐かしさ=郷愁、哀愁)に溢れている。
孫だろうか、鼓(ちぢん)を叩く音も聴こえてくる。
時おり唄声は途切れ、三線を弾く手も止まるが、しばらくするとまたはじまる。
お茶か焼酎かで喉を潤しているのだろう。
オレはデイゴの根元の囲いに腰を下ろし、カメラを弄るふりをしながら耳を傾けることにした。
延べにして15分近くも唄い続けた(*2)だろうか、いつしか路上に聞こえてくるのは退屈した子供が浜に行きたいとねだる声と、山でさえずるアカショウビンの鳴き声だけになった。
「これは、唄者(うたしゃ *3)の唄だ。まだまだ続く」
そう考えたオレは、その家からあまり遠ざからぬように注意しながら集落内をふたたび散策することにした。



一軒の家の庭にて。
ウメかな…。
一つ食べてみれば判ったと思うが、そういうのはドロボウだし…。



過疎化で無人となった家がなん軒もある。
放置して倒壊させては危険なため、土台以外は取り壊される。
写真は、そんな一軒の浴室部分。
丸く深い湯船と、壁で仕切られた焚き口。
そう、これは五右衛門風呂だ。

歩き回っているうちに、ふたたび三線が鳴り、唄声が聴こえてくる。
くるだんど節」、そして「よいすら節」だ。
デイゴの根元に戻ったオレは、そよ風とシマ唄(*4)の旋律にしばし陶酔した。
*1 本来、奄美大島では三線(さんしん)という呼称は使わず、三味線(しゃみせん or さむしん)と呼ぶ。ここでは、判りやすくするため、あえて三線という表記を用いた。
*2 「朝花節」に用いられる歌詞は、一部の地域でのみ唄われるもの、すでに失われて久しいもの、誰かが宴席などで座興半分に唄ったものを含めれば、1,000とも、それ以上ともいう。高名な唄者である森チエさん(86歳)に「どれだけ唄えますか?」と聞くと「相手にもよるけど、朝まででも唄えるよー」との答えであった。数ではなく、時間で計るしかないのだ。
*3 唄者(うたしゃ)とは、奄美では《シマ唄》の名人を指していう言葉。名人として認められるには、〔数多くの唄を知り〕、〔場の雰囲気に合わせて自在に歌詞を選び〕、かつ〔《懐(なち)カシャ》のある唄を唄う〕人だけが唄者と呼ばれた。前2項に当てはまる人を《年功者(ねんごしゃ)》、たんに唄が上手い人は《声者(くぃしゃ)》と呼ばれる。《声者》も本来は褒め言葉だったが、現代では侮蔑表現として用いられるため、あまり使うべきではない。ある唄い手をさして《唄者》と呼ぶか否かについては、明確な定義は存在しない。《唄者》の総数を200人ほど、とする人もいれば、「せいぜい30人ほど」とする意見もある。
*4 奄美の民謡は、「シマ」(集落を指す)単位で異なるため、正確には《シマ唄》と呼ぶのが正しい。ただし、最近では集落の伝統的な旋律や唱法を離れた唄い手が多くなったため、《シマ唄》という呼称が徐々に有名無実と化し始めている。オレの耳で判る限りでは、頑なに《シマ唄》に拘る若い唄い手は、奄美大島では中村瑞希吉原まりかRIKKIくらいか(無名の若者に数多くいる)。反対に中 孝介は、相手次第で様々な《シマ》の唄を唄い分けるという驚くべき才能の持ち主である。

つづく

コメント
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