私の人生いろいろ

ある日の出来事

山陰旅行(津和野・萩・錦帯橋・千光寺・鞆の浦)2日目

2018-07-07 09:56:13 | 旅行

早朝、日の出を見ることが出来ました。

 

旅館駐車場に車を置いて、城下町を歩く。

旅館から頂いた焼物店兼喫茶店で、ゆっくりとコーヒーを味わいます。

水が綺麗なのか、特に美味しく感じました。

目の前に、壁一面埴輪のオブジェ…この中はスズメのお宿だそうです。

(下記写真)

焼物のお店なので、つい買い物をする (商売上手です)

 

まずは、近くの萩城跡へ…

萩の城下町を自転車で回れるのですが、自転車に心もとない人がいるので

徒歩になりました。

 

 

江戸時代を残した江戸屋横町の 小路を歩きながら

高杉晋作誕生地を訪問。こじんまりした家です。

 

 

次に、木戸孝允旧宅(養子にいったのでのちに桂小五郎)

この家で約20年間過ごしたそうです。

藩校明倫館で吉田松陰に学び、坂本龍馬仲介によって

薩摩の西郷隆盛らと倒幕の一大勢力となる薩長同盟を結びました。

版籍奉還や廃藩置県の実現に力を尽くしたので

明治以後は西郷隆盛・大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれました。

 

 

菊屋家住宅

 菊屋家は摂津の国(大阪)住吉大社の、津守摂津守国量朝臣を祖とし、

中世期大内氏に随身して山口に住み、同氏滅亡後は武士を捨てて町人となった。

のちに菊屋家は代々大年寄格に任命され藩の御用達を勤めた。

 

 

 

 

城下町を歩いていると、あっちこっちに焼物店が目につく。

買わないつもりでも、やはり欲しくなりますね!

 

吉田松陰神社へ車を走らせる。

ここは、吉田松陰幽囚の旧宅のある場所。

 

 

松下村塾(しょうかそんじゅく)は、江戸時代末期(幕末)に、

長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に存在した私塾である。

 吉田松陰が同塾で指導した短い時期の塾生の中から、

幕末より明治期の日本を主導した人材を多く輩出したことで知られる。

 

 

父は萩藩士杉百合之助。山鹿流兵学師範であった吉田家の養子となる。

藩校明倫館を経て、諸国を遊学。佐久間象山のもとで砲術と蘭学を学ぶ。

安政元年(1854)海外密航を企て、下田港のアメリカ軍艦ポーハタン号に乗り込もうとしたが、

拒絶され投獄。のち萩の野山獄に移されるが、翌年免獄となり実家杉家に幽閉の身となる。

その間松下村塾を開き、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文山県有朋ら約80人の門人を集め、

幕末から明治にかけて活躍した人材育成の場となった。

安政6年(1859)、安政の大獄により江戸で刑死した。

 

こうして忘れかけた歴史の勉強を、改めて学んだ旅行でした。

しかし、山口県は総理大臣が多いので有名。

 

首相経験者[編集]

 

       選挙区は東京7区(中選挙区制時代)→東京18区・比例東京ブロック)

  • 安倍晋三(第90代・第96代・第97代・第98代内閣総理大臣):長門市(本籍地。出生は東京都)

 

菅直人氏 山口生まれでも山口県出身総理大臣展から「除名」

  政界どころか、自身の生まれ故郷にとっても“忘れてしまいたい”人に

なってしまったのかもしれない。

 

 

国宝瑠璃光寺五重塔を見学

 この五重塔は、応永6年(1399)の応永の乱で命を落とした大内義弘の菩提を弔うために、

弟の盛見が建立を計画、嘉吉2年(1442)に完成したといわれています。


塔は、方三間で高さが31.2m、建築様式はおおむね和様式で一部に唐様式が見られます。


屋根は檜皮葺で、塔身部は上層部に向かって細くなっており、非常にすっきりとした印象です。


室町時代中期におけるすぐれた建築の一つであるとともに、大内文化の最高傑作であり、

日本三名塔の一つにも数えられています。

 

今日の最後の見学地は、錦帯橋です。

 

 

5連のアーチからなるこの橋は、全長193.3メートル、幅員5.0メートルで、

主要構造部は継手や仕口といった組木の技術によって釘は1本も使わずに造られている。

石積の橋脚に5連の太鼓橋がアーチ状に組まれた構造で、

世界的に見ても珍しい木造アーチ橋として知られる。

また美しいアーチ形状は、木だけでなく、鉄(鋼)の有効活用がなされて

初めて実現したものである。

杭州西湖にある堤に架かる連なった橋からヒントを得て1673年に創建された。

西湖の錦帯橋とは2004年に姉妹橋となっている。

1950年(昭和25年)の台風で全て流失したため、

現在の橋は1953年(昭和28年)に建造当時のまま復元されたものである。

 

 

日も暮れてきました。

広島のホテルへと向かいます。


山陰旅行(津和野・萩・錦帯橋・千光寺・鞆の浦)1日目

2018-07-05 21:13:05 | 旅行

梅雨前線の活発化で記録的な大雨が降り続き

被害が相次いでいます。

被害に合わせた皆様には、お見舞い申し上げます。

 

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台風の影響等もあったそんな中、晴れの合間に

予定していた山陰旅行に出かけました。

晴れ女の私です。

風がありましたので、暑さは感じませんでした。

最初は

“山陰の小京都の稲荷神社”太鼓谷稲成神社に寄りました。
 
これまで、どういうわけか稲荷神社に行ったことがありませんでした。
 
 
 
 

太皷谷稲成神社(たいこだにいなりじんじゃ)

太皷谷とは
津和野城の城山の一角であり、

江戸期には時刻を知らせる太鼓が鳴り響いた谷間であることから、

この地名がつけられました。

また津和野城の東北、つまり鬼門に位置し、古来より神聖な地であったといわれております。

 

稲成神社とは
稲荷ではなく「稲成」と表記しますが、読み方は同じ「いなり」と読みます。

稲成の「成」には、津和野藩主亀井矩貞公の思いにより、お願い事がよく叶う、

願望成就・大願成就などの意味が込められているとの事。

 

賽銭箱の両脇にある御供物台の上に、油揚げがお供えしてありました。

 

 

何でもやりたい私!

8の字にくぐると良いらしい…

 

次に、津和野に到着。

地元の方が、先ずは永明寺を勧められた。

 

 

津和野藩藩主の坂崎出羽守の墓所 - 大坂夏の陣で手柄を立てたが、

のちに千姫事件で秀忠の怒りを買い切腹。

その墓所は幕府の不興を買うのを恐れたのか、「坂井出羽守」となっている。

森鴎外の墓 - 「石見人 森林太郎として死せんと欲す」という鷗外の遺言により、

中村不折の筆による「森林太郎墓」としかない質素なものでした。

 

 

 津和野は「鯉の泳ぐ城下町」で知られています。白壁と堀割と鯉は、津和野の代名詞です。

鯉の群れが、水路で沢山泳いでいました. 

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津和野で 

思いもよらない、嬉しいことがありました。

『安野光雅美術館』があったのです。

 

 

  平成13(2001)年3月20日に、安野光雅美術館が開館。

国際アンデルセン賞をはじめ、国内外の数々の賞を受賞している

津和野町出身の画家・安野光雅の作品を収蔵、展示する美術館。

絵本原画や風景画など約120点を常時展示している。

館内には、昭和初期の小学校を再現した「昔の教室」やプラネタリウムなども設置している

安野光雅さんの仕事もますます旺盛に、画集だけでなく、

新聞、雑誌の数々の連載を今もなお精力的に続けておられます。

 

ラッキーな出来事でした。

 

森鴎外の生家を車道から見ながら津和野を後に、今日の宿泊地へと移動。

 

萩の宿屋です。

 

さすが 萩、焼き物が沢山館内にも展示されています。

食事を個室部屋で頂く。

フグ料理でした。

最後に、運ばれたフグの雑炊が゛半端ない ”

雑炊が入った、大きな土鍋が運ばれる。

 

全員、笑ってしまいました~

「誰が食べるの?」

結局、多く残りましたよ…

でも、美味しかったです~

 

 

部屋がオーシャンビュー側なので

お部屋や食事部屋から海を一望出来、見晴らしがよくて最高

 

 

明日は、焼き物と歴史の萩の街を回ります。