パエ-リャ

木製カトラリ-

ボホ-ル紀行 (27)

2016-07-02 07:59:21 | Weblog

この道路沿いには、谷戸がとても多い。 谷戸とは低い山に囲まれ、ハの字形に開いた小さな地形のことだ。

おそらく、ボホ-ル島だけでなく、フィリピン全体の風景を特徴ずけるものは、連続して現れる谷戸だろう。急峻な山岳地帯が少ないことも背景にあると思われる。ボルネオでは見た記憶がない。恐らく、ボルネオにも昔にはあったのかもしれないが、油ヤシの植林で失われてしまったのだろう。

そして、フィリピンの谷戸に今でもバナナと普通のヤシの木、それに畑や田んぼがあり、

 つながれた牛や放し飼いの鶏の群れも見られるので、とても心地よい印象を受ける。前掲の養鶏場にも 

     そのような谷戸が使われている。

ヤシの木やバナナをよく観察して見ると、谷戸と、その背後に迫る山地の境界部分だけに数多くみられるので、恐らく元々は谷戸全体に生えていたものを開墾した結果であることは容易に想像できた。

日本でも、山間のは谷戸に多くみられるので、郷愁をよぶ風景が続く。

山の中をタグビララン方面に走行中、 ここが

セビリヤ村への分岐点かと思われる場所は幾つかあった。そんな場所では大抵、恐らくバスを待っている若い女性達がたむろしていて、屈託なくハロ-と声をかけてくるので、挨拶を返すついでに道を確認するとすべて違っていた。

彼女たちはセビリヤという場所の存在は知っていたが、どのように行くのかや、正しい分岐点までの距離もよく判らないらしく、 セビリヤは遠い場所で普段の行き来がないことがうかがわれた。

結局、正しい分岐点は、その後暫くの間携帯GPSも見ずに進んだので、行き過ぎてしまった。

なので、今度こそと思い、慎重にバイクの距離表示を見ながら戻ると、それらしい場所が漸く見つかり、偶然に道路工事の作業員が数名いた。”Sevilla?" と声をかけてみると頷いてくれたので、ホテルを出てから1時間ほどでセビリヤの村へ向かう1車線のコンクリ-ト舗装の道路を漸く発見

したことになる。 この左側のガ-ドレ-ルに

一か所切れ目が見えるが、そこを左折するのとセビリヤに至るわけだが、ただの生活道路にしか見えなかった。そもそもロボックの方から来るときには表示板はないので、分かるわけがない。タグビラランから戻るときに見かけた案内表示が右側に見えている。

そこで左折すると、すぐに小さな売店があったので、

                              取り敢えず飲み物を

買って椅子に座った。分岐点が見つかったので安心出来たし、飲料水を携行していなかった事もあるし、その先に首狩り族でもいたらどうしようかと、本気で考えていた事もある。

                                             画像が、その小さな売店だ。売り子の小さな男の子は外国人が珍しいらしく、用もないのに頻繁に窓口から顔をのぞかせていた。

            

すると、まもなく数人の男たちが乗ったジ-プ的な車が前に止まり、恐らくタガログ語で早口にセビリヤに行ける道かと、私に聞いてきたので、フィリピン人と間違われたのは間違いない。英語でそうだと答えると軽く挨拶して、そのまま売店の前の道を行ってしまった。

                   

彼らがセビリヤに行くとすれば、ここを曲がるか、あるいは以下の地図にあるように

          大変な大回り

(つまり緑色の道)をしなければならなかったので、この道を明確に意識していたのは間違いない。結局、自分はこの、赤と緑のすべてを通り抜けたことになるのだが。

そして、この後、そこから先の約2時間の行程は忘れがたい経験だった。

それは、ある意味、パンプロ-ナ以来、長い間私の心の隅のどこかにしまってあって、多分潜在的には誰でも持っているかも知れない、菅直人的巡礼の旅を意識させるものだった。と言うのは、そこからセビリヤ村までの山道は、砂利道で坂の多い、猛烈な暑さと無風、無音の、巡礼には多分最適と思われる白い世界だったからだ。

もし、マルタを象徴するものが糖蜜色の崖で、ボルネオを象徴するものが鮮烈なオレンジ色の大地 だとすれば、そこは熱帯の太陽がその強烈な熱エネルギ-を激しく叩きつけている白亜の細道だった。

確かに、道の両側は谷戸なので光輝く緑で溢れてはいた。然し、私の目に見えていたのはコンポステ-ラ に続くかのように白く緩やかに延びる一筋の道だけだった。

大学に入り、初めて読んだスペイン語の本に出てきた白昼夢の世界に入りつつあったのかも知れない。当時、何故昼間に夢を見ることが出来るのか、とても不思議だったが、暑さとか、動かない時間とか、一定の条件下では起こるのだろう。自分の見たいものだけを目の前の光景に被せて見ていたのかも知れない。

「ジャマイカの嵐」、「陽はまた昇る」の延長線上にコンポステ-ラへの道はイメ-ジとしては半世紀近くも私の心の中に絶えずちらついていた。然し、そこに共通する強烈な光と影が、よもやフィリピンの自然の深部との出会いの中に浮かび上がるとは予想もしていなかったので、深い感動に包まれていた。

コンポステ-ラというスペイン語の地名自体はフィリピンでも珍しいわけではない。ネグロス島にもあるし、恐らくその他の島にもあるだろう。ただ、理由もなく同じ名前が付けられるわけでもないだろうから、命名した昔のスペイン人も同じような感想をもったのだろうと、推測している。

最大の理由は、矢張り石灰岩だと思う。イベリア半島からイングランドにかけて、ヨ-ロッパ西部はすべて石灰岩の隆起大地だからだ。

そして、フィリピンにはスペインの地名はすべてあると思って間違いない。

      ミンダナオ南西部のサンボアンガもあれば、ネグロス島にも、ご丁寧にサンボアンギ-タまである土地なのだから。