パエ-リャ

木製カトラリ-

ボホ-ル紀行 (30)

2016-07-05 06:02:40 | Weblog

のどかな川岸沿いに進むと、この画像の橋の直前部分に対して、右側から来る部分はとんでもない急斜面で、凸凹していた。つまり、この橋は川よりもかなり高い場所に作られている。

         

手前側が未舗装なのに、橋を渡り切ると完全な舗装道路だった。この橋の意義は、ロアイ-カルメン(チョコレ-トヒル)線に出て、大回りしないで村人がタグビラランに行けるようにするためのものだということが分かる。

この橋から見える川の様子が以下の画像だ。

 ロボック川の上流部分の大きさが分かる画像だ。画像ではわかりにくいが、実物を見ると何故、この川が「River verde」と呼ばれているか、よくわかる。Verde はスペイン語で緑色のことだ。

               この画像はグ-グルマップから取得したもので、右側が先ほど通ってきた道は、この川岸沿いにある。      

鉄橋を渡ると道は直ぐに川沿いに左折、急な上り勾配で完全舗装されていて、数分もすると私のセビリヤ村は予想よりかなり大きい事がわかってきた。

せいぜい、海岸沿いの村で見かけたような、かやぶき屋根の家が何軒かあるだけで、農耕用の牛、ヤギ、鶏、犬のいる小さな村で、雑貨屋的なものさえないかも知れないと、勝手に思っていたが、それはとんでもない間違いだったし、首狩り族も勿論見かけなかった。

それどころか、前方に明らかな商店街が見えた時にはとても驚いた。この画像だ。

                               ここまで登ってきたた道を振り返った画像が以下になる。

この建築資材の石と看板があるところを曲がって先に進むのだが、ここでバイクを停めて、看板の後ろにある小さな売店でコ-ラもどきを買って、小休止してみた。周りの人が変な外人がいると思っていたのは間違いない。じろじろと見られていたからだ。

     この建物は取り壊し中のもので、看板は、その場所にス-パ-が建設されると言っている。然も、英語で書いてある。この看板のすぐ後ろにある売店では英語が通じないのに、誰が読むのだろうか。

            左に見えるのが乗ってきたバイクだ。

看板を見ると新築されるのは2階建てのかなり大きなス-パ-で、海岸沿いの大きなバランガイでもめったにないと思う。だから、セビリヤ村は、セビリヤ町と呼んでもおかしくないほどの規模だった。

このス-パ-建設予定地には、以前にも大きな市場があったことは容易に想像できた。道路沿いには通行人の数も多かったし、物売りのスト-ルが並んでいたからだ。でも、海からわずか20kmほどの場所なのに、スト-ルの上に直接青物の魚を並べ、時折水をかけながら売っていたのには、再び驚いてしまった。軽い衝撃を受けたほどだった。「違うだろう」と思いながら。。。

この商店街を抜けて、先に進むと静かな住宅地の先に教会が見えてきた。

        以下の画像がそれで、 少しだけ敷地内に入って問った画像が以下になる。同じ車が映っている。

         内部の画像は、 この教会は曲がり角に建っているので、この後、次の画像のように左折してロボック方面に進んでいく。

 赤い屋根の建物が確か消防署か何かで、その前に次のような看板が出ていた。 要は、2013年秋のマグニチュ-ド7.3の大地震の被害対策で、補助金が出ているらしい。        

この看板で、セビリヤが独立したバランガイだとわかる。

           

              

この近くには学校も当然あるので、画像で示しておく。

                      ただ、街の周りは農村地帯に変わりなく、

      このような谷戸で農業が営まれているし、鉄橋ができる前は以下の画像のような吊り橋も使われていたのだろう。

                  

マリア像は至る所にある。  少し下流にはダムさえある。  

でも、一番驚いたのは、辺りの民家の立派さだった。単なる民家の範疇を超えていて、

     別荘風の建物も多く、海岸沿いの村で見かけたような、板葺き壁の家はなかったからだ。

                    

一度、町中の分岐点で、ロボック方向が分からないため、角の民家で道を聞いたら、

(赤線のように進んできて、ここを曲がるべきかの判断ができなかったので)

       なんと日本語で返事が返ってきたのには更に驚いてしまった。 結果的に赤線の道を行けと日本語で教えられた。

一言でセビリヤの街を表現しろと言われたら、別荘村と答えるだろう。それほど瀟洒な民家が連なっているからだ。ただ、下流のロボック側のように、外国人が住んでいるような印象は受けなかった。

更に先に進んで、街中を抜けて、 気持ちの良い舗装道路に出ても、そこからロアイ-カルメン線までは、かなりの距離があったし、 別荘風の民家が並んで川を見下ろすような場所にあったわけでもないし、何故この場所にそのような瀟洒な街並みがあるのか、

             皆目分からない。

確かに、この町は高い場所にはあった。そもそも、距離的にはタ-シャの森の非常に近くだし、でも、涼しさには手の届かない標高だった。川は確かに近くにあるけれど、少し離れている。

もしかしたら、川を見下ろすような場所が街中のどこかに別途あって、そこには更に瀟洒な民家

        があったのかもしれない。 

確実に言えることは、この場所に、橋のない時代には川を容易には超えられなかった村人たちが共同で教会を建てたことだろう。丁度、メキシコの寒村の教会のように、貧しいが故に立派すぎる教会を。