ブログを書く時間もなく、もうすぐ6月。
何年か勤めればコツもわかってくるのだろうかと思っていたけど、
いつまでたっても忙しいのはどうしてだろう・・・。
やればやるほど、今まで自分がやれていなかったことに気がつくから、
仕事が増えるばかり。
評価の仕方も鑑賞のやり方もまだまだ。7年経っても、だ。
オブザーバーの先生たちの視点は自分よりも一段も二段も高いところにある。
その先生たちの視点のおかげで、自分のダメなところにやっと気づけるというわけ。
本来なら、何かをした後は自分で自分を高い位置から振り返れなければいけないのだけど・・。
「メタ認知」という言葉が、最近の自分のキーワード。
これがきちんとできていないと思う。
要するに自分で自分を高いレベルから振り返るってこと。
メタ認知ができないと、新しいものを生み出せない。
課題は増えるばかり。しかも年々ハードルが上がって行くばかり。
昨日、体育大会予行で結構本気のラジオ体操をしたら、
今日、足が軽く筋肉痛になっていて(!!)驚く。
通勤時間が長いし、1年の教室と職員室と美術室をいったり来たりで
運動量は同じ年齢層の人に比べたら多いと思っていたけど、運動不足なのかも。
疲れて、すぐに眠ってしまうことが多くなってきてるけど、
眠る前に柔軟くらいしようかなあ・・・・・・(- -;)。
これもさすがにマズいって思ったことの一つ。
今年度になって、自分のできないところを振り返るところが多くなり、
落ち込んでも仕方ないから、一歩一歩改善していくしかないのね、と思い直す。
表に立つことが多くなってくると、当然、いろんな人のお言葉もあるわけで、
超逃げたいけど、やるしかないのだ・・・短距離走の時のスタートのときと同じような気持ち。
飛び込んでみて、きっと、やっと立つ瀬もあるのさ。
いろんな人と普通に接して行く社会的な自分と、
頭の中で、じーっといろんなことを見て考えているオリジナルの自分がいる。
最近は、その2人がちゃんと「同居」している感じがする。
そういうのをはっきり意識するようになったのは最近だ。
社会的な自分は、自動的にちゃんと社会人の顔をしているから、
これに任せておけば、日常生活に支障はない(はず)。
頭の奥のがオリジナルで、社会生活とは全然違う次元で思い、考えている。
この子が賢い子(?)だったら、さっきの「メタ認知」もうまく行くのだろうけど、
私の中の子は、残念なことに結構なおばかさんだと思う。
小さい頃の自分は、大人になっても消えることはない。陰を潜めるだけだ。
小さい頃、ぼんやりと物を眺めていることが多かったという。
水の流れているのを3時間くらいぼーっとみていたり、
砂をカップからカップに延々移したり。
母はそんな私を見て、将来が心配になった、と言っていた。
じっーっと見るクセは今でもあり、頭の中の私は暮らしの中の時間の流れとは全く関係なく、
いろいろ、ただじーっと見ている。判断をくだすわけでも何でもなく、
ただ、そこにあるものを見ている。
子どもの自分を、洋服のように覆う社会人の自分。
そういう自分の隠れ蓑的な感じが、最近ちょっと面白い。
あらゆる人が、そうなのだろうか?
何年か勤めればコツもわかってくるのだろうかと思っていたけど、
いつまでたっても忙しいのはどうしてだろう・・・。
やればやるほど、今まで自分がやれていなかったことに気がつくから、
仕事が増えるばかり。
評価の仕方も鑑賞のやり方もまだまだ。7年経っても、だ。
オブザーバーの先生たちの視点は自分よりも一段も二段も高いところにある。
その先生たちの視点のおかげで、自分のダメなところにやっと気づけるというわけ。
本来なら、何かをした後は自分で自分を高い位置から振り返れなければいけないのだけど・・。
「メタ認知」という言葉が、最近の自分のキーワード。
これがきちんとできていないと思う。
要するに自分で自分を高いレベルから振り返るってこと。
メタ認知ができないと、新しいものを生み出せない。
課題は増えるばかり。しかも年々ハードルが上がって行くばかり。
昨日、体育大会予行で結構本気のラジオ体操をしたら、
今日、足が軽く筋肉痛になっていて(!!)驚く。
通勤時間が長いし、1年の教室と職員室と美術室をいったり来たりで
運動量は同じ年齢層の人に比べたら多いと思っていたけど、運動不足なのかも。
疲れて、すぐに眠ってしまうことが多くなってきてるけど、
眠る前に柔軟くらいしようかなあ・・・・・・(- -;)。
これもさすがにマズいって思ったことの一つ。
今年度になって、自分のできないところを振り返るところが多くなり、
落ち込んでも仕方ないから、一歩一歩改善していくしかないのね、と思い直す。
表に立つことが多くなってくると、当然、いろんな人のお言葉もあるわけで、
超逃げたいけど、やるしかないのだ・・・短距離走の時のスタートのときと同じような気持ち。
飛び込んでみて、きっと、やっと立つ瀬もあるのさ。
いろんな人と普通に接して行く社会的な自分と、
頭の中で、じーっといろんなことを見て考えているオリジナルの自分がいる。
最近は、その2人がちゃんと「同居」している感じがする。
そういうのをはっきり意識するようになったのは最近だ。
社会的な自分は、自動的にちゃんと社会人の顔をしているから、
これに任せておけば、日常生活に支障はない(はず)。
頭の奥のがオリジナルで、社会生活とは全然違う次元で思い、考えている。
この子が賢い子(?)だったら、さっきの「メタ認知」もうまく行くのだろうけど、
私の中の子は、残念なことに結構なおばかさんだと思う。
小さい頃の自分は、大人になっても消えることはない。陰を潜めるだけだ。
小さい頃、ぼんやりと物を眺めていることが多かったという。
水の流れているのを3時間くらいぼーっとみていたり、
砂をカップからカップに延々移したり。
母はそんな私を見て、将来が心配になった、と言っていた。
じっーっと見るクセは今でもあり、頭の中の私は暮らしの中の時間の流れとは全く関係なく、
いろいろ、ただじーっと見ている。判断をくだすわけでも何でもなく、
ただ、そこにあるものを見ている。
子どもの自分を、洋服のように覆う社会人の自分。
そういう自分の隠れ蓑的な感じが、最近ちょっと面白い。
あらゆる人が、そうなのだろうか?