今日は楽しい話ではありません。って、いつも楽しい話じゃないですね。
😓🙏
去年の3月にフトアゴヒゲトカゲのぼあちゃんを亡くし、5月にヒョウモントカゲモドキのむくちゃんを亡くした。
どっちもそれなりの歳ではあったけど、寿命と言ってしまうにはまだちょっと早かった。
だから、心の底から悲しかった。そのせいで体調を崩し、今でもそれが続いてる。悲しみの質は変わって来たように感じるけど、悲しみの大きさは今でも全く変わっていない。
あの子達が亡くなってから、ブロ友さんだったsanchaさんという方のネコちゃんが亡くなったりしたのもあって、命ってなんだろう、死ぬってどういうことだろう、なぜ悲しいんだろう、、、こんなことを考え続けてこんな記事を書いた。
(sanchaさんという方は、ネコちゃんを亡くしてからブログをすっかり削除してしまい、繋がりが切れてしまったので、今でもちょっと心配してる。)
この「またわけのわからないことを」というタイトル、これらを書いた時には自分でもよくわからなかったんだけど、自分の中でも考えがまとまってなくて、結論もなにもないっていうことなのかなと、今は思う。ちなみに、「また」は、それまでも結論がないことをグチグチと書いたからということだったのかな。
で、今日はこのタイトルで今の自分の状態を率直に書いてみる。
ちょっと前に、儂がお邪魔してる2つのブログで、次の2つがそれぞれ紹介されていた。
一つはこの本。
この写真からリンクしているサイトを読んでほしい。この本を出版してる会社が書いてるサイトで、本の内容がほぼ読める。
実際の本には、素敵な挿絵があったりたくさんの空白のページがあったりする。儂は読み終わった時、とても優しい気持ちになった。でも、ちょっぴり悲しくなった。
死はなんでもないものです。
私はただ
となりの部屋にそっと移っただけ。
私のことをこれまでどおりの
親しい名前で呼んでください。
あなたがいつもそうしたように
気軽な調子で話しかけて。
儂、今でもぼあちゃんの名前を呼ばない日はない。
もう一つは、これ。
これはご存じの方も多いと思うけど、儂は知らなかった。2ちゃんねるで流行ったキャラクターが出て来るのもあって話題になったらしいけど、儂、2ちゃんねるはほとんど読んでなかったからね。
足を止めてしまった人とはもう一緒に歩くことはできないだけどその人は「いなくなった」わけじゃなくてそこに立っている
これも泣けた。。。
ぼあちゃんが亡くなったのは去年の3月。正確な記憶はないんだけど、その後、少なくとも百箇日を過ぎる頃まではどうなることかと思うほど悲しかった。でもそれから、少しずつ悲しみが薄らいできたかなと感じる時期があった。ところが、一昨年ぼあちゃんが調子を落とし始めた時期が近づくにつれ、再び少しずつ気持ちが落ち始めた。
今は、この先3月までどうなるのかちょっと不安。ただ、ぼあちゃんやむくちゃんのことだけが原因っていうわけでもないので、どうしようもないかなとも思ってる。日によって時によって、ぼあちゃんのことよりこっちで落ちちゃうことも結構ある。ちなみに今はそうかも。
もちろん、悲しいとか落ちるとか言っても、別に一日中暗い気持ちで落ち込んでるわけじゃない。ただ、ちょっとしたことが堪えたりすることがあるし、身体的な不調もちょっと辛い。と言うか、実に見事に心身が相関してるなあと感じる。そしてそれが日替わりになってるっていうのもちょっとキビシイ。
先に書いた2つも、あるいは仏さまのいろいろなお話も、目にしたり耳にしたりすれば心に沁みる。少なくともその時は気持ちが穏やかになる。でも、それで悲しみが薄まることがない。
そういうこともあって、今は、悲しみを乗り越えなくちゃいけないんじゃなくて、悲しみを乗り越えられるまで辛抱強く待てばいいのかなと思い始めてる。
それでも「時薬」は間違いなく効いてる。ただ、その効き目はとてつもなくゆっくり。それにこの薬の効能・効果は、悲しみを減らしたり消したりすることじゃなくて、悲しみの質を変えることなのかなと感じてる。
それと、今儂が一番にやらなくちゃいけないことは、自分が悲しんでいてもいなくても、それとは関係なくあの子達のご供養をすること。情けないことに、これに気づいたのはそれほど前じゃない。やっぱり自分のことが先に立ってるんだなあ。。。
今回、この記事を書く時にいろいろなサイトを見た。そして巡り合ったのがこれ。
実は中野東禅先生は、儂が時々教えをいただいていたご老師。いろいろな所でお話されているので、ご存じの方も多いかもしれない。儂も教えをいただいていたと言っても、もちろん個人的にというわけではない。
コロナ禍になって以来ずっとお目にかかっていないけど、こんなところでたまたま出会えたのも、何かのご縁なのかなと思ってちょっとびっくりした。
これ、以前に先生の著書「日曜日の正法眼蔵」の扉裏に書いていただいたもの。
うん、今回もやっぱり「またわけのわからないこと」になったな。
私は自分がメインでお世話をする子はニノさんがはじめてなので はちゅパパさんの気持ちをちゃんとわかる事は出来ないのかもしれません…自分もその時がきたらどうなるかわからないですし。。。
でも私自身はいつでもポジティブは辛いので なるべく自分の気持ちに素直に過ごすようにしています。辛くても笑顔で!とかよく見かけたりしますが それが合う方もいれば みんながみんな同じではないですし…。パパさんにはパパさんの自分への対応の仕方があると思いますので みんなのお世話をしつつ 気持ちを書き綴って整理して…。体にだけは気を付けて過ごして下さいね(^-^)みんなの様子、お写真、いつも楽しみにしていますから(^_^)
みなさんのブログはだいたい楽しいことが書いてあるのですが、このブログは爬虫類みたいなニッチなことやJリーグみたいなマイナーなことや文字通りわけのからないことばかり。
それでも、多少でも読んでいただいてる方がいて、大変ありがたいと思うと同時に、申し訳ないなと思っています。
ペットロスになったらっていうことは、ネットにもいろ書いてあるのですが、私はほぼ全部ダメでした。
仰る通り、人それぞれなんだと思います。
そしてそれは自分で見つける以外にない。
私の場合は、いろいろ勉強して考えてまた勉強して考えて、それらを吐き出すっていうのがいいのかって思って、ブログに書いています。
ただ、ペットロスは引き金に過ぎないのかもっていうところがまた厳しいんですよねえ。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
心がじんわりする優しい、そして勇気の出るようなムービーですね。初めて見ました。動画でも言っていたように、長そうな人生でも、振り向けば案外一瞬で、そして、お釈迦様は人の一生は短いのだから、あまり悔やんだり悩んだりしないで、一生懸命歩けって言ってるのかもしれませんね。仏教の無常、苦、無我をよくよく考えてみると、くよくよしてる事がばからしく思たりします。
愛猫だった小豆は、こんな私を見ててくれてるし、それに恥じないように頑張って生きてかなきゃなって思うし、思わない日はないけれど、今は生きているくんちゃんやキキを大切にして生きてます。仏教は今、この時が大切ですもんね。最近ますます何だか現実主義者になってます(^ω^;)
アコさんの言われたこと、いちいちその通りだなと思います。
人生をはじめ、時間て一瞬一瞬の連続なので、それを一生懸命生きれば、必然的にすべてを一生懸命に生きることになりますね。
過去でもなく未来でもなく、今現在の一瞬を一番大事にしなければいけないのは、そういうことですかね。
私も、ぼあちゃんを思わない日はないのですが、必ずしも、あの子が生きてた過去だけを思ってるわけでもないんです。
今そこにいるぼあちゃんを思うことがよくあります。
なんかホラーみたいですけど(^^;
ただ、この手で触れられない、形が見えないということが悲しいのかなと思うんですよね。
>愛猫だった小豆は、こんな私を見ててくれてるし、それに恥じないように頑張って生きてかなきゃなって思うし
私も、ぼあちゃんに見られてるなと感じますし、「パパ、だめね~」って思われてるかなって思います。
いつかきっと、それが悲しみに結びつかない時が来るのかなと思っています。
それが「時薬」の力なのかと、今は思っています。