またまた地球の話なんだけど、今日は少々違う視点。動物の命に関わる話にもなるので、そういうのが苦手な方はスルーして下さい。
実は儂、“反捕鯨”の事がイマイチよくわからない。で、とりあえずこれを読んでみた。
「withnews」 というサイトにあった「
クジラと私」という連載。ちょっと、いや、かなり長いけどとても興味深いし、勉強になった。
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儂、基本的にこの記者さんと同じような疑問があった。一つ大きく違うのは、この記者さんは大人になるまで鯨の肉を食べたことがなかったみたいなんだけど、儂は、小学校の給食で何度も食べたことw。
いくつか引用してコメントしてみる。(引用は前略、中略、後略等有りw。)
連載#1
捕鯨はどうしてそんなに批判されなければならないのでしょうか。絶滅から守るため? クジラがかわいいから? 知能が高いから? その感覚もわからなくはありません。でも他にもたくさんかわいい動物、知能の高い動物はいます。しかもかわいくなければ、知能が低ければ殺してもいいのでしょうか。
まず、儂が疑問に思っていたのがまさにこれ。
連載#2
クジラは巨大だし、障害物のない海だから、殺しているところは、見ようと思えば見えてしまう。私たちは牛や豚などの家畜が殺される現場を見ることはまずできない。だからこそクジラばかり残酷さが強調されてしまうのではないか。そして、それは、先に私が述べた「命を食べて生きている」ことを実感しやすい食べ物であることの裏腹でもあると思う。
これは極めて大きな反捕鯨の理由の一つなのかと思う。実は、儂、仕事で食肉市場(屠場)に通っていたことがある。そこで、実際に牛が屠殺されてる場所にいた。この際だからぶっちゃけ書くけど、この時の目的は、研究中の薬の原料にするために牛の胎児を集めること。もちろん胎児は親牛を解体して見つかる。この時の経験は今でもとてもとても貴重なものだったと思ってるし、生涯忘れることはない。儂は実際の捕鯨を見たことはない。でも、屠場で経験した時のことを思えば、残酷なのはクジラだろうが牛だろうが豚だろうが鳥だろうが、動物ならなんでも同じ。
連載#3
ノルウェーでは、船室に備え付けられたパソコンから毎日、政府に報告。
- 捕鯨砲を撃った時刻
- クジラを引き揚げた時刻
- 解体を終えて骨を海に捨てた時刻
- 捕ったクジラの大きさ
- オスメスの別
- メスの場合妊娠していたかどうか、などなど
1頭も見つからなかった日も、かならず報告。
捕ったクジラは全て番号を振って小さな肉片を保管。これを政府に提出し、DNAを解析することで、スーパーなどに出回っている鯨肉に密漁されたものが混じり込んでいないかを確認している。DNAのデータは日本側にも提供されている。
日本ではソナーを使うこともあるが、ノルウェーでは法律で使ってはいけないことになっている。目視だけなので、波が高かったり、霧が濃かったりするとめったに見つけられない。
一度見つけても、また潜ってしまうので、船で近づくのも容易ではない。
海の中には未知のことがたくさんありますし、クジラが何頭いるかを完璧に把握することも難しいでしょう。過剰な捕獲にならないような手立ては念には念をいれて組み立てるべきなのは言うまでもありません。 現代の捕鯨によって、クジラが絶滅に追い込まれているかのような言説には、違和感を抱かざるを得ませんでした。
捕鯨って、かなり厳しく管理されているんだなと思った。最後の引用は記者さんの意見なんだけど、これは儂も同じ。
連載#7
「ノルウェーも捕鯨をしているのに、日本ばかり批判されるのはおかしい」、「西欧諸国からの人種差別だ」といった反応はやや感情的で正確さに欠けるものだと言わざるを得ない。ノルウェーも捕鯨に反対する立場からの批判を受けている。ノルウェーやアイスランドは自国の排他的経済水域(EEZ)内に限定したのに対し、日本は南極海で捕鯨を続けたことも反感を招きやすかったと考えられる。ただ批判に対して感情的になり、なぜ批判されているのかを読み間違えては問題は余計こじれる一方だとも思う。
これはその通りだと思う。こういうことは、科学的、客観的なデータを知らずに、感情だけで対応したらダメなんだよね。でも、反捕鯨の方も、多分に感情的、情緒的なものがあると、どうしても私は思ってしまう。それが次の記事。
連載#9
これは是非とも全文を読んでいただきたいんだけど、まずは、環境保護団体の方の考え。
「クジラは繁殖に時間もかかり、気候変動などの影響も受けている。守るべき存在です」
よくわからないんだけど、繁殖に時間がかかるし気候変動の影響も受けてるからクジラを殺しちゃいけないっていうのは、これらのために数が減ってるんだから、捕鯨でこれ以上減らしてはダメという意味なのか? でも、それはクジラだけじゃないよね。それに「守るべき存在」というのが、少なくとも字面だけ読むと人間の思い上りじゃないのかなと思ってしまう。捕鯨のことより、まずはなんとしても気候変動を抑えることを考えないとね。
「クジラは自然界で何頭生息しているかという実態がつかめていません。またいまのやり方ではクジラを即死させられず、人道的ではありません。ただ、私たちは世界中で食肉の消費を減らすこともめざしています」
実態がつかめていないんだったら、なぜ、クジラが絶滅に追い込まれているって言えるのかな。
それに、クジラを即死させられないと言ってるけど、この連載を読む限りは、何パーセントかはできないっていうことみたい。でもこれ、
牛でも同じ(人によっては閲覧注意)ことだと思うよ。 儂が屠場に通っていた時もそうだったんだけど、今でもやり方はほとんど変わってないみたいで、ちょっと愕然とした。
「全く肉を食べない世界をめざしているのではなく、家畜についてはもっと人道的な扱いを広めようとしています。いまの人類はあまりにも多くの肉を消費しています。そのせいで動物が狭いところに閉じ込められています。私たちは規模の小さい農家と連携しています」
クジラだけでなく、こっちだってとってもとっても大事なことなんだよ。
そして、以下はこの記者さんが書いてること。儂はこれらの意見にかなり近いかな。
「かつて捕鯨をしていた国だからこそ、それを反省してクジラを保護する責任がある」というのが、アメリカで捕鯨に反対する立場の人たちの一般的な考えのようです。子どものけんかのような主張をしても水掛け論から抜け出せません。
さらに、これと似た文脈で使われる「油しか取っていなかったアメリカの捕鯨と比べて、肉や内臓を食べ、骨まで利用する日本の文化は優れている」という主張にも、あまり賛同できなくなりました。
無駄なく利用すること自体は誇りを持っていいと思いますが、他の文化と比較して優劣をつけようとすることは、クジラを食べる文化を否定する姿勢とあまり変わらないように感じました。
それでも確かなこととして思ったのは「正義は時代とともに変わる」「絶対的な正義などない」ということです。
捕鯨を続けることを正義と思う人たちも、捕鯨をやめさせることを正義と思う人たちも、まずはその正義を一度疑ってみるところから対話の糸口が見えるのではないでしょうか。
連載#10
世界的に「反捕鯨」の運動が活発になったきっかけのひとつが、1972年にスウェーデン・ストックホルムで開かれた国連人間環境会議。商業捕鯨の一時停止が採択された最初の国際会議だが、その際のスローガンは「クジラを救えずして地球が救えるのか」だったといわれている。
クジラは「特別な存在」として扱われうる、いくつかの特徴や歴史的経緯を持ち合わせているといえそう。その真偽や善し悪しは別として、「大きくて知性がある」という印象や「殺されるところを見るのは耐えられない」という感情が捕鯨に反対する世論の土台になっているとすれば、捕鯨を推進する日本政府の主張と折り合うことは簡単ではない。
こういうのを読むと、反捕鯨というのは、やっぱり感情的なこと、情緒的なことから始まったんだと思わざるを得ない。そして、後付けの理由として、絶滅だとか環境保護だとかいうことが言われ始めたんじゃないのかなあ。
連載#11
――かたや日本では捕鯨支持の世論が大勢とされている。
「たしかにあれだけ紛糾する国会でも、捕鯨となると与野党を問わず多くの議員が支持というのは面白い政治的現象です。理由についてはいくつか説があるのですが、海外からの干渉がよく指摘されます」
「外国から『そんなことをするな』『おまえたちのやっていることはおかしい』と言われたことで、自分たちの主権やアイデンティティーに対する脅威だと感じ、異様なまでに反発したという考えです」
――「反反捕鯨」という言葉も聞く。
「まさにそれです。積極的に賛成するわけではないけれど、外からあんまり言われるとそれに対して反発するという構図です」
「別の観点では、捕鯨や鯨食に対する『無関心』があるかもしれません。自分は食べないし、積極的な関心もないけども、もし昔から捕って食べていたなら反対する理由もない。あまり深い知識を持たずにそういうふうに考える人も多いかもしれません。日本社会は捕鯨問題に冷淡だなと感じています」
つまり、実際にはあまり関心はないんだけど、海外から言われたからそれに反発して「捕鯨支持」、「反反捕鯨」になってるということ? もしこれが本当だとしたら、あまりにもバカバカしいと儂は思う。愚かだとしか言えない。
そして、連載#13、14を読むと、日本の捕鯨はこのまま消滅するのかなとも感じる。その一番の理由は「鯨肉の消費量が減っているためにビジネスとして成立し得ない」ということなのかな。欧米から叩かれて仕方なくやめるというのではなく、あくまでも国内の事情なら、それはそれで構わないと思う。主権だのアイデンティティだののために捕鯨を続けるのは、無意味なことだと思う。
儂は反捕鯨でも反反捕鯨でもない。でも、儂にはやっぱりクジラと他の動物の違いがわからない。そして、この連載を読んで思ったのは、少なくとも今の反捕鯨は、感情的、情緒的な要素もかなりあるなということ。科学的、客観的なことがすべて良いとは思わないけど、今の問題を解決するためには、ちょっと違うかなという感じ。
その今の一番の問題は、これ以上地球を痛めつけたらダメだということ。これには、もちろん人間以外のすべての生物の命をムダに亡くさせないということも含まれると思う。だから、鯨のことだけ言っててもダメだし、ましてや、感情的、情緒的なことだけではどうしようもない。(反捕鯨活動には、政治的、経済的な理由もあるんだろうけど、そこまで踏み込むと話がややこしくなるので、今回はスルーw。本当に地球のことを考えるんだったら、そんな理由が一番くだらないと思うけどね。。。)
「クジラは一頭も殺してはいけない」と言うんだったら、他の動物も全部そうだと思う。でも、人間も生物である以上、そんなことはできっこない。そうであれば、どの動物だって公平に扱わないとおかしいんじゃないかな。儂の思い込みかもしれないけど、どうも反捕鯨の意見には「家畜は構わない」という考えが隠れているように思えてならない。
野生だろうが人に飼われていようがなんだろうが、命には変わりない。だから、少しでも殺める動物を少なくすること、もう少し慎ましやかにすることが必要なんじゃないかと思う。
つまり、こういうことでも、やり過ぎとか極端はダメだと思うわけ。
最後に少し違う話。先にも似たようなことを書いたんだけど、「欧米だって昔は捕鯨してたのに今更何を言うか」みたいなことを言う人がいる。儂はこれはどうでもいいことだと思ってる。昔がどうだったからみたいなことを言い始めると、何も変えられないw。
これに関連して、「捕鯨は日本の文化だから」という意見もある。確かにそうだと思う。でも、文化とか伝統っていうのは、長い時間をかけて育まれてきたもの。つまり、その長い時間に少しずつ変わってきてるっていうことじゃないの? 遥か昔の一瞬に突然現れて、それが1mmも変わらず続いてきたわけじゃないよねw。だから、この先も続いていくためには、これまでと同じように少しずつ変わる必要があるということだと思うけどね。