前回の記事は、あるブロ友さんのところのネコちゃんが突然亡くなったことがきっかけで書いた。そのネコちゃんには会ったこともない。でも、我が事のようにショックだった。悲しいというのとは違う。上手く言えないんだけど、とにかく心が揺れた。だから前回の記事を書いた。書いた内容は以前から頭の中でモヤモヤとうごめいていた事だったんだけど、まだよく整理出来ていなかった。でも、書かずにはいられなかった。そのため、やっぱり何を言ってるんだかわからないような内容になってしまった。
それでも、いただいたコメントを読んで必死にいろいろなことを考え続けた。そしてそこからもっといろいろなことを考えたら、少しだけ道筋が見えてきた。
だからまた書いてみようと思う。
いろいろなことを何度も何度も考えたので、もしかしたら今までと真逆の事を書くかもしれない。それはご容赦いただきたい。
本来、生き物の死は“自然の一部”として認識されていたのに、都会はそれを過剰なまでに社会から遠ざけてしまった。
都会は人間の意識が作り出したものだ ~(中略)~ 人間が頭の中で考えた規格通りの環境をこしらえてるうちに、嫌なもの、不都合なものを遠ざけてしまった。中でも、死はどうにも不吉なものだから、都会はなるべく遠ざけようとしてきたのである。
(P.49)
死は人が必ず通る道であり、それと向き合えない方がおかしいではないか。死を意識から遠ざけることを「変ではない」と頑張り、それが文明人だというなら、「じゃあ、あんたは死なんでくれ」と言うほかはない。
(P.54)
儂もずいぶん以前から、「今の社会は必要以上に『死』というものを忌み嫌っているんじゃないか?」と感じている。小説のタイトルじゃないけど、「死」は、実は常に自分のすぐ隣にある極めて自然なこと。だから、やはりお釈迦様が言われている「死は悲しむことではない」ということが正しいんだと思う。
もちろんこれはそんなに簡単ではない。前回の記事でいただいたコメント、
「お釈迦様のように修行したり、悟ったらそれからは解脱出来るのかもしれないけれど…人はなかなか難しいですね。。 」
まったくこの通りだと思う。いわゆる普通の人(この言葉はあまり好きではないけど)は、お悟りなんて死ぬまで得られない。
今から50年近く前、儂の祖母が亡くなった時に、菩提寺のご住職から「自分の娘が亡くなった時、悲しんではいけないのはよくわかっていたのですが、どうしても涙が止まりませんでした。」というお話をいただいたことがある。仏さまにお仕えしてたくさんの修行をされているお坊様でさえそうなんだから、どう考えても凡夫には無理。
(実際、親が亡くなっても悲みを感じない人達がいるらしいんだけど、これは感受性なんかの問題で、悟っているから悲しくないのではないんじゃないかなと思う。)
ただ、確かにそうではあるんだけど、
お釈迦様は単純に「悲しんではいけない」と言っているのではなく、「悲しむことではないのだから、悲しまないように努力しなさい。」と言ってるんじゃないのかなと思う。
このことに限らず、お釈迦様の言われてることには「そんなことできないわw」ということがたくさんある。でも、これらはすべて「できないからこそやる、できるまでやり続ける。」ということだと思ってる。仏さま的な言葉で言えば、「できないからこそ、できるようになるまで精進しなさい」ということかな。そしてそのためにはいくら時間がかかっても構わない。とにかく、できるようになるまで努力し続ける。これがお釈迦様の教えなんだと思う。
とは言え、「死を悲しまないように努力する」なんて、言葉で言うほど簡単じゃない。特に愛するものを失ってからまだ間がない時に、そんなことできるわけがない。
でも、だからと言って何もしないと、もしかしたらそのまま悲しみの中に沈み続けてしまうかもしれない。だからこの時は、どんなことでもいいから考えることが必要だと思う。悲しまないように努力する必要なんかない。場合によっては逆の方向のことでも構わないから、とにかく考え続けなくちゃダメだ、と、儂は思う。
そして、時間が経って「時薬」が少しずつ効いてきたら、自然と悲しまないような努力もできるようになってくるんじゃないだろうか。もちろんそこまでの時間の長さは千差万別。悲しみの深さや種類、その人の背景因子なんかでまったく異なると思う。
そして、本の中で養老先生が書かれていることをもう一つ。
まるは自分の死について考えたのだろうか。
人間は死について考える。動物は、先ほども述べたように、物事を抽象化できないから、死を概念として捉えることができない。 ~(中略)~ 動物の中で死について考え、悩むのは人間だけだと思う。だから、人間の世界には宗教がある。
(P.126~)
動物はおそらく人間が考えているようには死を意識しない。死は、経験した瞬間にその記憶は消えてしまう。だから死ぬということがいったいどういうことなのか、誰も知らない。だから、考えるしかない。 ~(中略)~ 人間は自分の死をシミュレーションできる側で生きており、常にそのような見方しかできない。それをできるのは人間の意識だけで、そうなったこと自体が、人間における面倒くささのそもそもの始まりである。 ~(中略)~
まるは最後まで自分が死ぬということを考えなかったと思う。なぜならそれは、まるの世界ではないからである。
(P.131~)
あまり「中略」が多いと、本来の意味が変わって伝わる可能性もあるので全文を書きたい。でも、著作権のこともあるし、そうもいかないので、できれば多くの方にこの本を読んでいただきたいなと思ってる。
ぼあちゃんも、自分の死のことなんかこれっぽっちも考えたことはないと思う。まったく養老先生の言われる通り。
儂、ぼあちゃんが亡くなる時に、自分が抱いている「死」のイメージを、勝手にあの子に重ねていたんだなと思った。本当は何もわかっていないのに、あの子の気持ちや思いをわかったつもりになっていた。それで可哀そうなことをしたと思っていた。
「長生きさせてあげられなくて申し訳なかった」と思い、今でもそう思っている。でもこれも、あくまでも「死」というものに対する人間の勝手な思いから生まれて来てるのかなと思った。
よく「亡くなって可哀想」と言うけれど、死ぬということがどういうことなのかわかっていないのに、なぜこんなことが言えるのかなとさえ思えてきた。もしかしたら、死後は極楽や天国のような所で幸せ三昧に暮らせるかもしれないのにw。
ましてや動物の場合には、本人が死について何も考えていないであろうから、その子の気持ちを慮るなんていうことは、実は見当はずれなのかもしれない。そしてそうだとしたら、そんなことで悲しんでもしょうがないということにもなるのかな。
それでも人が「死」を悲しむのは、前回も書いたように、亡くなったものとの繋がりがなくなり、それが絶対に元に戻らないからだと思う。やっぱり人が「死」を悲しむのはここなんだと、儂は思う。
でもこれも、ちょっと違う方向から見ると、あくまでも自分を中心に考えればということなのかなと、思えなくもない。「死」というのもがどういうものかわからないんだから、こちら側からは繋がりがわからなくても、亡くなった側からは繋がったままなのかもしれない。まあ、こういう風に思えば少しでも悲しみが癒えるから、いろいろな宗教にそんな考え方があるのかな。
いろいろ考えて行くと、「死」というものをまったく考えない動物の方が、少なくとも気持ちの上では、人間よりもよっぽど安らかに亡くなっていくのかもしれないなと思った。
今回書き始めたことは、自分の中では大分整理されてきたんだけど、それを言葉にして伝えるのはまだなかなか難しい。なので、今回はここまでにする。
でも、もう少しだけ書きたいことがあるので、あと1回だけ続けようと思う。
そして今回も、去年の今日のぼあちゃんの写真を何枚か。
7時半 お目覚めから1時間ちょっと位の頃。
11時48分 ベランダで日向ぼっこして💩してご飯も食べて、"居間"で一休み。
1時46分 またベランダの夏用ネットケージへ。
4時6分 儂の抱っこ。この目つきを見ると「パパでもしょうがないか。。。」だったのかもw。
5時半前にはケージの寝床に戻しておやすみなさい。
この子の状態に初めて違和感を感じたのは、この1週間後だった。
-- 2022/9/26 11:10 追記 --
違和感を感じたのは9月28日だと思ってたんだけど、日記を見直したら9月29日だった。