わがままZyZyの徒然日記

ペットロスから抜けられない爺が日々の出来事や想いを書いてます
ほぼはちゅ達時々マリノスたまに音楽医薬世の中のこと

グッドアンセスター

2022-09-30 19:01:04 | 地球とか命とか
以前のこの記事で、「近いうちに読むつもり」と書いた本を読んだ。1年前に出た本なので、読まれた方もいると思う。


読み終わって思わず唸ってしまった。こういうのを「我が意を得たり」と言うのかな。読み終わってみたら付箋紙ペタペタw。
「この副題からして重いね」(byママ) 確かに「わたしたちは『よき祖先』になれるか」って、めちゃくちゃ重い。

いきなり、目次の裏のページに書いてあることがグサッときた。
AM3:23
眠れずにいる。
私の孫のまた孫が、夢で私に問いかける。
地球が壊れていこうとしているときに、
あなたは何をしていたの?
ドリュー・デリンジャー
この本は、環境保護だとかSDG'sだとか地球を大切にみたいなこととか、そんなことを上っ面だけで言ってるわけではない。
現代に生きる我々が、未来の人類にとってよい祖先になれるのかを問う。そして、我々は地球の資源や環境等を、その回復力を超過して消費し、未来の世代が享受すべき権利まで搾取しているので、このままでは良い祖先にはなれないと言う。では、それを避けるためにはどう考え、何をすれば良いのか。こういったことが、歴史、社会、経済、科学、哲学、宗教、芸術等々の多方面から、現実的かつ理論的に語られている。


よい祖先になるために、最初から最後まで貫かれている主題が、本の帯にも書かれている「短期思考」から「長期思考」に変わらなければダメだということ。
私たちは病的な短期主義の時代を生きている。政治家たちはせいぜい次の選挙、最新の世論調査やツイートしか見ていない。企業は来期の四半期報告書や株主価値を上げるための絶え間ない要求の奴隷と化している。市場はアルゴリズムがミリ秒単位で操る投機的バブルで暴騰と暴落を繰り返す。地球温暖化により生物が消滅する一方、国々は国際会議のテーブルで目先の利権をめぐって言い争う。インスタントな満足に溢れた世界で、私たちはファストフードやメッセンジャーや「今すぐ購入」ボタンの過剰摂取状態にある。
(P.10)
そしてこれ、著者からのメッセージ(字幕使えます)。
先に引用したことは、著者がこの映像の最初でも話している。

「我が意を得たり」と思ったくらいの本なので、納得することしきりだった。
もちろんこれだけじゃないけど、例えばS字曲線のこと。

S字曲線は、アリの巣の成長やがん細胞の増殖、森の成長や子供の足の発育など、生物界のあらゆるところに見られる。このようなパターンは人間のシステムでも同様に広まっており、帝国や経済、独裁国家や民主主義国家、社会運動やファッションの流行など、これらすべてが最後にはS字曲線の論理の前に屈することになる。
(P.144~)
儂も以前に、微生物の増殖曲線として、このブログにも書いたことがある。生物で起きることは人間でも必ず起きる。なぜなら人間も生物だから。人間の営みだって同じこと。この世界に永遠なんていうことはあり得ない。これは仏さまの教えでもある。

ただし、この本に書いてあることで一つだけ「違うんじゃね?」と思ったことがある。
自分たちの祖先を振り返ってみると、植民地時代の人種差別、未だ多くの国に残る家父長的振る舞い、化石燃料をベースとした産業システムがもたらす環境への影響なのど、引き継がずに来られたら良かったのにと思うことがたくさんある。
(P.100)
この、「人種差別」や「化石燃料をベースとした」というのはそうだと思う。でも、「家父長的振る舞い」は、引き継がずにどころか、「この先もずっとそうあるべき」、あるいは「そういう時代に戻すべき」などと思ってる人が、意外と少なくないんじゃないかと思う。特に、日本の“古い政治家”に多いんじゃないのかな? 儂は、まずはこういう方達に考えを改めていただくか、あるいはご退場願わないとダメだと思ってるんだけどね。

儂、結構以前から「最近の世の中って、あまりに目先のことしか考えてないんじゃないか?」ということを思っていた。でも、じゃあどうしたらいいのかというところまでは、あまり考えていなかった。だからこの本はとても勉強になったし、ほとんどのページに「そうなんだ!」と思うことがあった。
付箋紙を貼ったところだけでも全部引用したいくらいだけどw、さすがにそうもいかないので、是非とも、できるだけ多くの方に読んでもらいたいと思う。
そのために、少しは参考になるかなと思うので、以下のサイトを貼っておく。
さらに、以下には翻訳者の話が載っている。翻訳者自身はこんなことも考えてるんだということがわかって、これまたとても考えさせられた。
「good ancestor」ではなく「better ancestors」ではないのかと。

人間はこの地球という惑星の上で生きてるわけで、この地球が壊れれば当然人間も壊れる。ほとんどの人はそれをわかっていると思う。そして、この「壊れる」という意味には、化石燃料を始め、人間が生きていくために必要な様々な資源が枯渇することや、あるいは異常気象なんかも含まれる。多分そこまで考えてる人も少なくないと思う。
ただ、「人間以外の生物が減ったりいなくなったり、あるいは逆に増えすぎたり」ということも含まれること、そして、それは多くの場合人間の営みが原因だということまで考えてる人が、はたしてどの位いるのかなと思う。あるいは、考えてはいるけど変えられないということなのか。
生態系のバランスが崩れ始めれば(すでに崩れ始めているかも)、人間だってタダじゃ済まない(すでに済まなくなってきてるかも)なんていうのは当たり前のこと。
でも、「人間は他の動物とは違う」、「人間は地球で最も高等な動物」、「地球は人間のもの」などという愚かな考えを捨てられない人は、この当たり前のことがわからなかったり信じられなかったりするんだろう。ホント、人間の知恵って素晴らしいけど情けない。

と、儂、今までも何度かこういうことを書いてきた。でも、この本を読んで少し考えが変わってきたこともある。
これまでは、「人類が滅びるのは自業自得だし、その方が地球のためかもしれない。」とまで思っていた。でも、この本を読んで、「まだ見ぬ人類の子孫が生まれる権利や生きる権利を奪う権利なんて今の人類にはない。」と思った。そしてさらに考えてるうちに、もしかしたら現在と未来を区別すること自体がおかしいんじゃないのかなと考えるようにもなった。ただし、頭の中ではまだいろんな考えがグルグル回ってる状態なので、もう少し整理したい。
それと、今までは環境保護運動とかそういう団体とか、「目的は正しいと思うんだけど、なんだかなあ。。。」と思ってた。でも、これも少し違う考えになってきた。

「そんな先のことより目先の問題を解決する方がまさしく先だ。」と思ってる人も多いと思う。儂もそれを思う。この本でもそのことには触れていて、直面する問題を解決することはもちろん重要だと言っている。ただ、明確な回答は書かれていないなとも感じた。
でも、どうして「先のことか今のことか」の二者択一じゃなくちゃいけないのか、 なぜ“両方”じゃいけないのだろうか。直面する問題を解決しつつ長期思考を持つ、これを目指せばいいということじゃないのかな。さらに、先に書いたように現在と未来を区別して考えること自体がおかしいと考えれば、こんな問題もないんじゃないかな。

今日はこの本を紹介したいと思って書き始めた記事なので、これらのことはまた別の機会にでも書こうと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初めて違和感を覚えた日

2022-09-29 11:49:05 | ウチの子たち
-- はじめに --
これまで、ぼあちゃんが調子を落としてから亡くなるまでのこと等を、何回かまとめて書いてきました。
実は、今日は、「もしかしてあの子、調子が悪いのかな・・・」と初めて感じた日なので、その辺りのことを、当時の飼育日誌を元にまとめておきたいと思います。
なので、フトアゴヒゲトカゲに興味がない方には、無駄に長くてまったくつまらない話です🙇。

ぼあちゃんの状態に初めて違和感を覚えたのが去年の今朝。
これがこの日のまとめとして書いたこと。
今日は明らかにヘン。ケージのランプを点けてから3時間近く動かなかったのは、記録を残し始めた2020年5月14日以降では初めて。
ケージの中では、ずっと動かずボーっとしてて、元気がないなという感じだった。でも、必ずしも具合が悪いという感じでもなく、ずっと頭を挙げ、周りへの反応も悪くなかった。ただ、あまりにもゲーピングが多くて、これがちょっと気になった。多分、暑さを調節してただけだとは思う。呼吸器系疾患の可能性もなくはないけど、ゲーピング以外には特に症状(くしゃみ、鼻水、涎、、呼吸に関連するような音等々)のようなものはなかったし、口の中も特に異常は認められなかった。
ケージを出て来てからも、ケージの中にいた時と同じようにボーっとしてて、元気がないという感じだった。それに加えて、いかにもご機嫌が悪いっていう感じの三角目の時があったり、ennuiな感じの時があったり、「一点を見つめてボーっ」な時があったり。でもやっぱり、そのわりには結構キョロキョロしてて、周りへの反応は悪くなかった。
そして、この調子だと、午後ももっと早く"居間"のコルクを降りて、どこか暗めのところに隠れるかなと思ってたんだけど、放っておけばいつまでもこのままな感じだったのもビックリした。この時もわりとゲーピングしてたんだけど、お腹の下の温度が高かったから、これはむしろ正常だったかも。
それから、午後、"居間"のコルクに乗ってた時に、葉っぱとカリカリを、間をあけてあげてみたんだけど、どっちも即パク。ここのところ、ご飯の食べ方がゆっくり目になってきてるので、ちょっと心配してるんだけど、これを見る限り、食欲は大丈夫そうかな。
あと、左腕の色については、急に脱皮がハッキリしてきたので、一安心。
朝のケージの中で、あまりにも長い時間動かなかったという衝撃が大きくてw、儂、その後の見え方にもかなりバイアスがかかってそう。だから、少し落ち着いて様子を見ないといかん。

まず、朝、ケージのランプを点けてから3時間近く動かなかった。それまでも、なかなかケージから出て来ないことはあった。それでも、だいたい30分前後で寝床からは起き上がって動き始めたのに、この日は寝床からも動かなかった。
それから、ゲーピングが多かった。ゲーピングに関しては、この日以降も「なんでこんなにゲーピングしてるんだろ・・・」と思うことが度々あった。
そして、まとめには書いてないんだけど、夕方、"居間"でバスキングしてた時にお腹がめっちゃ温かくなってた。これもまた、この日以降にも時々気づいたこと。
ただ、決して元気がないとまでは言えず、食欲もあって周りへの反応も悪くなく、自分からベランダにも出て行った。
実はこの数日位前から、なにかおかしいなという感じがずっとあった。でも、季節の変わり目で、天気や気温がイマイチ安定していなかったので、そのせいもあるのかなと思っていた。

「なんか調子イマイチなのよね~」

だったのかな。。。

かなり長くなるけど、この1週間前からのまとめの部分を載せておく。

今日は全体的にはまあまあな感じだったけど、廊下にも出なかったし、短いスパンのウロウロもあまりなかったから、昨日より運動量は落ちた。
それに、寝かすまでの様子がいつもと違った。特に、左腕だけ茶色のままだったのは、何でだったんだろう。これは、明日もう一度ちゃんと確認しないとダメだ。
それから、夏のような気温の中で7時間近くベランダにいて、そのうち6時間位はお日様に当たってた。まあ悪いことじゃなかったとは思うけど、かなり負荷もかかったんじゃないかな。ずっとこんな感じの天気ならまだしも、9月になってから、なかなか晴れなくて涼しかったり、晴れたと思ったらまた暑くなったり。人間だっておかしくなるんだから、この子達への影響は小さくないと思う。多分、季節の変わり目の仕様変更がうまくいかなくなる、なんてことがあるんじゃないかなあ。
あと、昨日、ママから聞いた感じでは、昨日のウロウロは💩したかったのかなと思ったんだけど、今日はそんな気配はほとんどなかった。

9月24日:まあまあフツー
今日もまあまあフツーな感じだったけど、昨日よりさらに運動量が減った。昨日はベランダを3m歩いたけど、今日はそれもなし。ちなみに、今日この子が目覚めてから寝るまでは約11時間だったんだけど、その内訳は以下の通り。
見ての通りで、ほぼ動いてないw。でも、今日も4時間もお日様に当たれたのは良かったと思う。そして、ケージのスロープで膠着してた4時間も、ボーっとしてた時間も時々はあったけど、概ね周りの動きによく反応してた。特に、儂やママが近くを通ると、「ご飯?」になるのはいつもの通り。
それから、昨日寝かす時にちょっと気になった左腕の色。今日確認したら、お日様に当たっている時はきれいな色になっててわからないんだけど、そうじゃない時は、やっぱり左腕だけ色が濃い。でも、触っても別に嫌がらないし、動きがおかしいとかいうこともなかった。もしかしたら脱皮なのかもしれないので、もう少し様子をい見てみようと思う。
そして💩については、ソワソワから短い時間でスンナリ出たし、💩自体もこの子のいつもの感じだった。

9月25日:ハァ~
今日もそれほど変わらずだったかなと思うけど、少しダウン傾向。とりあえず、朝、廊下を1往復したけど、その後はずっとどこかでペッタンで、全体的には昨日よりもおとなしかった感じ。でも、今日の天気にピッタリな感じの1日だったなとも思った。「ハァ~」(本日2度目のため息w)。まあね、もう9月も下旬だから、気温が下がるのは仕方がない。でも、いきなり下がり過ぎ。それに、お日様位出てもいいんじゃない? 高気圧に覆われてて気圧も高い(2時10分現在、1016hPa)んだしさ。たまに青空も見えてたのに、お日様がいる所いる所に必ず厚い雲があって、お日様が顔を出すのを常に邪魔してたっていうのが、ホント、スゴイわ。
それから左腕の色の事。やっぱり、右腕や脚とは違う感じで色が濃くなったり薄くなったりしてた。今のところ脱皮の可能性が一番高いと思うけど、もう少し様子を見ないとわからないな。

9月26日:動かなかった
今日は一昨日に負けず劣らず動かなかった。動いたのは、狩りの時とその前後だけ。あとは、ほぼ、"居間"のコルクかケージのスロープかケージで膠着。一昨日は動かなくてもお日様に当たれたから良かったけど、今日はそれもなし。それでも、あまりご機嫌が悪そうでもなかったから良かったけど。天気も悪かったし、なにより、昨日から急に気温が下がったから、そのせいもあるかなと思う。
もう少しお日様が出てくれて、もう少し緩やかに気温が下がってくれればいいのになあ。

今日は昨日より少しは歩いたように思うけど、まあ誤差範囲。むしろ、昨日よりもボーっとした感じの時が多かったかな。ここのところ、わずかずつだけど、ダウンしてるかなという印象。多分、天気や季節のせいだと思うけど、少し気をつけてみようと思う。
それから、朝、わりと真剣に出せ出せになってたし、日数的にも💩かなと思ったんだけど、💩はなし。💩したかったけど出なかったのか、それとも💩とは関係なく出て行ったのか。でも、💩前のソワソワらしきものはまったくなかったから、もしも、陽射しを見て出て行ったとかなら、ちょっと見直しちゃうんだけどな~w。
あと、左腕はやっぱり脱皮だと思う。でも、あの様子だと、ハッキリしてくるまで、もう少し時間がかかりそう(byママ)。
今日はこっちの都合で早く抱っこしちゃったから、ちょっとかわいそうだったかも。本人(本トカゲ)は、まだ「抱っこは~?」なご様子じゃなくて、いきなりの抱っこで、「え、ママ、何?」なご様子だったんだよねえ。仕方がなかったとは言え、あきらかに介入になっちゃったので、ちょっと反省。

今日は久々に廊下2往復したしリビングをウロウロしたし、いろいろな動きもわりと速かった。でも、これらはトイレハイの影響。それでも、運動にはなったから良し良し。全体的には、ちょっとアップも大して変わらず、と言ったところかな。
ただ、朝ケージから出て来てブリッジステージから飛び降りた時と、昼過ぎにケージのスロープから飛び降りた時は、いったい何だったんだろう。単にトイレハイだったとも思えないんだよねえ。先にも書いたように、最初はコオロギの気配でも感じたのかなと思ったんだけど、もしかしたら、💩前のソワソワということもあるかなと思った。とは言え、朝は💩前だったけど、昼過ぎは💩の後。でも、今日は4日ぶりの💩のわりには、ちょっと少なかったな(3日間が空くとこういうことが時々ある)という感じ。だから💩が残ってて、まだちょっとお腹が気持ち悪くてソワソワしちゃったっていうこともあるかなと思ったわけ。もちろん、真偽のほどは不明だけど。
で、その💩自体は、水分多目のベチャベチャ💩で、この子にとってはまあまあフツー。尿酸はちょっと硬めで量が多かったけど、これもまあまあフツー。ただ、白い小さな固まりが1つあって、最初尿酸かと思ったんだけど、水に沈まず。「うん?」と思ってルーペで見たら、どうも脂肪のような感じだったんだけど、正体不明なので、ちょっと気にはなった。

こうして、今になって見直してみれば、例えば、ゲーピングとかお腹の温度とか、あの子の死因になったであろう病変と関係があるのかもしれないと思われることがある。でも、それはあくまでも今だから言えること。
まあ、獣医の先生も「初めて見た」というようなことだったんだから、まさかこの時点でわかるわけがないよね。
ただ、どうしようもないことだとわかっていても、やっぱり悔いは残る。なんとかならなかったのかと、どうしても思う。

フトアゴの病気のことを書いたサイトを見ると、「少しでもおかしいと思ったらすぐに獣医さんに」とよく書いてある。
儂、この日この時、おかしいかなと思ったよ。でも、この状態で獣医さんに連れて行って、いったい何がわかると言うの? 
「食欲はある?」→「あります。」
「💩は?」→「まあまあ普通です。」
「元気はあるよね?」→「あります。」
「うん、じゃあ少し様子をみましょう。」→「はい。」
といったところで終わってしまうだろう。
儂、決して獣医さんを責めてるわけでも非難してるわけでもない。それどころか、凄く感謝してる。
でも、ホント何度も書いてるけど、この子達の医療水準がもっともっともっともっと上がってほしいと、心底思う。
まあ、その前に「病気にかからないようにしろや!」って言われそうだけどねえ。
確かに野生の子達は病院なんか行けないけど、ちゃんと生き抜いてるわな。



にほんブログ村 その他ペットブログ フトアゴヒゲトカゲへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

展覧会とお彼岸

2022-09-27 17:21:02 | なんでもかんでも
昨日はお彼岸の最終日。そして儂のワンコの月命日。ということで、お墓参りに行ってきた。

お寺に行く前、ぼあちゃんが亡くなった時に絵を描いていただいた画家さんが出展している展覧会に行ってきた。


場所は以前にも一度行った国立(くにたち)のギャラリー。ワンコのお寺は府中にあって、我が家からだと国立と府中はほとんど同じ位置w。だから、いろんな意味でちょうど良かった。

今回のじーまーさんの作品はこれ。「白牡丹」

額装されてる絵の写真は反射しちゃうので、斜めからになってしまった。この写真をクリックすると、正面からの絵が見れます。
やはりすばらしい。前から何度も書いてるんだけど、凄みと優しさが同居してるように感じられて、それが何とも言えず好き。絵のことはまったくわからないんだけど、多分全部鉛筆画で、豹の周りだけアクリルを塗ってあるのかな?
今回の展覧会のテーマはモノクロームということで、ほぼすべて白と黒の作品。モノクロームっていいよねえ。儂、昔から白黒はかなり好き。余談だけど、学生時代に尊敬していた学生指揮者の先輩は、常に全身黒づくめでとってもカッコ良かった。儂も時々真似してたw。

じーまーさんの作品以外にも、なかなかいいなと思うものがたくさんあった。

モノクロームというテーマだと、やっぱり抽象的なものが多くなるのかな。


この絵、写真だとよくわからないんだけど、ちょっとだけ緑色が入って、それがなんとも言えないアクセントになっていた。


絵だけじゃなくて、こんな作品も。


これはじーまーさんと同じ鉛筆画。当たり前だけど、同じ鉛筆画でも作家さんによってまったく違う。


これ、「ふんっ。」っていうタイトル。ペンギンがエッフェル塔(?)を持ち上げてる。絵その物もいいんだけど、儂、こういうセンス好き。

この日はじーまーさんの在廊日じゃなかったのでお目にかかれなかった。

ギャラリーを出て、府中にあるワンコのお寺へ。
これがワンコ。ぼあちゃんが亡くなった時に、じーまーさんにお願いしてぼあちゃんの絵と一緒に描いていただいた。

お寺に着いたら、まず本堂のお釈迦様に合掌。そしてお花とお線香をいただき、光華殿という所にある千手観音菩薩にお線香を手向けて手を合わせ、それからワンコの納骨堂の前にお花を供えてお骨の前で般若心経を読誦。その後、実験動物の慰霊塔にも手を合わせた。これがだいたいいつもやってる手順かな。
これ、光華殿の千手観音菩薩。この観音様、すごく良いお顔をされてる。

(お寺のHPから拝借しました。すみません。)
ぼあちゃんの火葬と葬儀もこのお寺でやってもらったけど、お骨はまだ我が家にあるので、ぼあちゃんのことはお釈迦様と観世音菩薩にお願いしただけ。もしかしたら、ぼちゃんの一周忌に納骨しようかなとも思ってるけど、まだ未定。

これは2013年の初詣に行った時の写真。本堂の前の香炉台のひだまりで、ネコちゃんが気持ち良さそうに居眠りしてたので、思わず撮っちゃった。

このお寺にワンコをお預けしてからもう50年以上。やっぱりあれからずっとペットロスなのかな、と、最近時々思う。

昨日は久しぶりの良いお天気で良かった。日向はかなり暑かったけど日陰は涼しくて、温度差が苦手な儂にはちょっときつかったけど、少しだけ落ち着けた1日になった。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ごちゃ混ぜ&中身なし

2022-09-25 21:48:07 | ウチの子たち
重い話が続いたので、今日はまたごちゃ混ぜ記事。おまけにほとんど中身がないw。

レオパ達の備忘録
大きくは変わりない。食欲も💩も変わらず。ただ、これまでに比べると、きょろちゃんが外に出たがらなくなって、少し元気がなくなってる感じ。朝も、らぷちゃんはシェルターの外で寝てることも多いけど、きょろちゃんは、ほとんどケージの奥のシェルターの中か上で寝てる。先月まではケージの前面で、周りの騒ぎなんかまったく関係ないっていう感じで熟睡してたのに、最近はケージの奥で寝てる。元気がなくなったのは脱皮のせいかなと思ってたんだけど、脱皮が終わってからも変わらず。
らぷちゃんとしおちゃんは、まあまあ変わらずかな。しおちゃん、今日は昼前からケージの中で立ち上がってたので、和室に作った遊び場に出したら1日中そこにいた。この子、結構ここが気に入ってるぽい。
なお、残念ながら写真はなし。


去年の今日のぼあちゃん
こんな写真ばかり載せててもおもしろくないし、なんかちょっと虚しいんだけど、ま、いいか。。。

朝、"魔法の絨毯"に乗って出て来て、"居間"でメタハラバスキング。


朝から廊下を"タッタッタッター"して寝室とリビングを往復。 


ご飯の後、キッチンに侵入したのでママが即強制排除してそのまま抱っこ。でも5分ほどでテーブル横のラックに。この日は天気が悪くて儂もこの子も「ハァ~」な感じだったみたい。


その後、ママの膝にON。


午後、またもやキッチンに侵入したので、ママが抱っこして連れ出したら、ママのTシャツをガブリ。何だと思って齧ったのかな~。



おでかけ子ザメ
以前にブログに書いた「おでかけ子ザメ」のガチャガチャをママが買ってきた。儂、なんか子ザメちゃん好きw。
子ザメちゃんが座っているのは、いつもスタジアムで一緒に試合を観てるマリサポがくれた北海道土産のはちみつ。いや、これがめちゃくちゃ美味しいー。



World Pharmacists Day
Twitterを見てたら、今日9月25日は「世界薬剤師の日」なんだって。薬剤師になって40年位経つけど、そんなこと初めて知ったw。
世界の他の国々ではこのことについていろいろな話題が出てるみたいだけど、日本ではほとんど何もない。日本薬剤師会のHPにすら乗ってない。
なんだかなあ。。。


そして、リーグ戦が中断してるのでマリノスネタを書いてない。だから宮市のブログが溜まっちゃうので、そろそろ書いておく。

宮市亮19
見た目もかなり改善してきたのかな。やっぱり低気圧は響くんだね。
この日はお休みだって。
DAZNの番組に出たんだ。内田も膝のケガがあったからなあ。
「もうすぐ走れる日も近いかも」ってスゴイ! でも、tp be patient だからね。



にほんブログ村 その他ペットブログへ
にほんブログ村 サッカーブログ 横浜F・マリノスへ
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

またわけのわからないことを #3

2022-09-23 17:12:15 | ウチの子たち
わけのわからないことの3回目。

今日はまず、儂自身のことを少し。

前回の記事に、「親が亡くなっても悲しみを感じない人がいるみたい」と書いたけど、実は儂もその一人だったかもしれない。

儂の父親は88歳で亡くなった。10年程認知症で、母親がずっと自宅で介護していた。そして、亡くなる少し前からは他の病気を併発して入院していた。
その病院から、突然、父が亡くなったという連絡があった。それまでに「そろそろかもしれません」と言われたことはなく、家族にとっては、文字通り突然死だった。詳細は書かないが、主治医から亡くなった時の説明を受けた時に、「医療ミスと言えば言えるかな」と思える状況だった。
病院からの連絡は儂の携帯電話にだった。まず母親に連絡したらしいが、繋がらず、儂の電話にかけてきたようだった。その時儂は車を運転していたので、妻が代わりに電話に出た。そして「お父さん、亡くなったって」ということを聞いた。それから急いで病院に向かうために高速に乗った。でも 、気がついたらまったく違う方向に進んでいた。今いる所から病院にはどう行けばいいのか、そういうことすら考えられなくなっていたんだと、後から思った。よく「頭の中が真っ白に」と言うけど、こういうことを言うんだなと、よくわかった。
亡くなった連絡を貰った時にはこういう状況に陥った。でも、その後はほとんど悲しみを感じなかった。父親は家族の誰にも看取られずに亡くなった。しかも、もしかしたら医療ミスによるかもしれない突然死だった。それにもかかわらず、あまり悲しいと感じなかった。ぼあちゃんが亡くなってから流した涙の量を思うと、父親には大変申し訳なく思う。
別に覚悟していたとかいうわけではない。ぼあちゃんの時の方がよほど覚悟していた。
でも、父親は十分に生きたと思うし、晩年は認知症でまったくコミュニケーションがとれなかったし、介護をしていた母親のことも、このまま介護が続くと母親が大変だなと思っていた。多分、こういう思いが絡み合って悲しみの気持ちが薄れたんじゃないかと思うけど、よくわからない。そんなことではなく、単に儂が薄情なだけなのかもしれない。

また、儂の祖母は83歳で亡くなった。今から50年近く前の83歳なので、寿命を全うしたと思う。やはり晩年は認知症で、この時も、亡くなるまでずっと、母親が仕事をしながら自宅で介護していた。
亡くなる数日前、主治医から「あと2、3日です」と告げられた。そこで、当時浪人生で一番自由だった儂が、夜通し、寝ずに祖母の枕元にいた。そして、まさに亡くなる瞬間に立ち会ったのは儂だった。
儂は子供の頃に両親が働いていたので、この祖母に大事に大事に育てられた。だから、亡くなった時はものすごく悲しかった。ただ、その悲しい気持ちはわりとすぐに薄くなった。この時、悲しさがあまり続かなかったのも、父親の時と同じようなことが理由だったのかもしれないと思う。ただこの時は、悲しみの代わりに、どうしようもない寂しさがずっと後まで残った。

最初の記事に書いた、「寿命と言われるような年齢で亡くなった場合には、『時薬』の効果が出て来るのが少しは早いのかなと思う」というのは、こういった経験からも来ているのかもしれない。
亡くなった時の悲しみがどんなに深くても、寿命を全うしたと思われるような年齢で亡くなると、もしかしたら、自分を納得させやすかったり、あるいはあきらめがつきやすかったりするのかもしれないなと思ってる。
つまり、「もうこのくらいでいい・・・」ということかな。
これ、もちろん自分自身もそれでいいと思ってる。むしろその方がありがたい。

ただ、これがペット(やっぱりこの言い方は好きじゃない)の場合には、事はもう少し複雑になってくるんじゃないかなと思ってる。

ぼあちゃんが亡くなったのは、推定5歳。フトアゴの寿命は5~10歳と言われているので、まあ寿命と言えば寿命だった。でも、あと2、3年位生きてくれていれば、本当に寿命で亡くなったんだなと思えたかもしれない。(と言うことは、やはり今はそう思ってないということなのか。。。)そしてもしかしたら、今よりも多少は納得しやすかったかもしれない、、、なんて、おそらくそうはならなかっただろう。なぜなら、

あの子は儂にとって子供のような存在だったから。

確かにあと2、3年生きてくれれば、人間の年齢で言えば儂よりも高齢者だった。でも、儂はあの子を子供のように思っていた。
誤解を恐れずに言えば、ペットを失うというのは、子どもを失うのと同じようなことなんじゃないのかなと思う。
もちろん、世の中のペットと飼い主(この言い方もあまり好きじゃない)の関係はいろいろだろうから、一概には言えない。ましてや子供の場合の辛さは比較にならないほどのものだろう。ただ、例え比べようがないほどの差はあっても、両者には何かしら相通じるものがあるんじゃないのかなと思う。

また「まる🐾ありがとう」から引用してみる。
~(前略)~昔の人の意識にごく自然に備わっていた死に対するある種の諦念が希薄となり、生への期待が極端なまでに高まっていった。
ペットロスという概念も、おそらくその延長線上にある。動物を飼う目的が使役だった時代には、飼い主は恬淡としていたが、愛玩動物は心の拠り所となりやすい。そうなると感覚的には、ペットの死も肉親の死に近くなる。突然訪れた身近な死は、すぐに受け入れ難い。それが人だけではなく、同居する動物にまで広がったのが、ペットロスという現象なのだろう。
(P.56~)
これが書いてあるのは「人命は地球より重いか」というタイトルの章で、この文章の前にそのことが書いてある。初めから引用してしまうと長くなってしまうし、著作権のこともあると思うので、最後の部分だけを書いた。でも、養老先生が言いたかったことが正しく伝わらないかもしれないので、やはり本を読んでいただきたいと思う。

また、前回の記事に書いたペットロスに詳しい精神科のDr.は、
「愛していたものがなくなる」とき、我々の心や身体にはその影響が出る。これを「喪失反応」という。「喪失反応」は、相手が、肉親、兄弟、配偶者、子供、友人、大切なモノ、自分の身体等のいずれでもだいたい同じ経緯を保つ。この中で一番つらいのが「自分の子供がいなくなること」であり、これだけは別格の極端な辛さが生じる。いずれにせよ、「喪失反応」は、個々で強さや時間経過は異なるが、「なくてはならないもの(あって当然のもの)」である。
といったことを書かれている。これは儂が文意をまとめたものなので、できればDr.の書かれたものを直接読んでいただきたい。

これらを読んでわかるように、今はペットの死は肉親の死と変わらなくなっていることがほとんどなのだと思う。それも、ペットが子供のような存在だった飼い主が多いのではないのかなと儂は思ってる。少なくとも儂はそうだった。
だから、ペットの場合は、実年齢とは関係なく、そう簡単には「もうこのくらいでいい・・・」と納得できないことが多いのではないかと思う。

これくらいが前回の記事で書き残したことかな。最初の記事の最後と同じで、「だから何?」という感じだけどw、結論のようなものが書けるとは端から思っていなかったし、儂はこう思うこう考えるということを、なんとか言葉にしたいと思って書いてみた。

儂は今回のことで、あらためていろいろなことを学ばせてもらったり考えさせてもらった。その中で、ぼあちゃんを失ったことを、まだ完全には受け入れられていないことに気づけたのは、儂にとっては有り難いことだった。
そして、最初に書いた「生者必滅会者定離」が当たり前のことなら、今回のような話をもう少し普通にできるような世の中になるべきだと、強く思った。そうすれば、いざという時に、今よりは少しでも悲しみや辛さを減らせるんじゃないのかなと思う。

それから、これはペットロスのことではないんだけど、ペットの死と肉親の死がほとんど変わらなくなっているのであれば、ここに書いてあることも何かの役に立つかもしれないと思うので貼っておく。

そしてまた、

去年の今日のぼあちゃんの写真全14枚を時間順に。

7時26分 お目覚めから1時間ちょっと経った頃、"居間"で。


7時55分 ベランダの夏用ネットケージ。


9時27分 ベランダの夏用ネットケージ。お日様に当たってちょっと暑い?


10時49分 廊下に出ようとして出ず、この後キッチン侵入。


10時58分 ママにキッチンから強制排除されたけど、"居間"でご飯。


11時55分 ケージのスロープに上って膠着。


12時16分 "居間"でランプバスキング。


12時55分 ベランダに直接出ると、


12時56分 ちょっと警戒態勢でウロウロ。


1時2分 大分慣れて来た?


1時39分 やっぱりケージの中が安心かな?


2時30分 「お日様気持ちいいわ~」 でぷっくん。


3時39分 葉っぱで釣ったら渡り廊下まで来た。でも食べたらまた戻っちゃった。


4時22分 部屋に戻って来たところで儂が抱っこ。


5時半頃にはZzz...になってので、ケージの寝床に戻しておやすみなさい。



にほんブログ村 その他ペットブログ ペット 思い出・ペットロスへ
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちょっと中休み

2022-09-22 11:58:03 | 仏さまのこと
あまり重い話ばかり書いててもなんだから、ちょっと中休み。
でも、こういう話を重いとか暗いとか感じないようになるといいな、とも、ちょっと思う。

毎年春秋のお彼岸には、菩提寺から仏さまのちょっとしたお話が送られてくる。
このお彼岸に送られてきたのが「月とウサギ」のお話。
儂、このお話が好き。


このお話は、元々「ジャータカ」という本に書かれているもので、「今昔物語」にもこの本から採られた話が載ってるらしい。
それと、この「無財の七施」というのもとても大切なこと。儂も心がけたいと常々思ってるんだけど、なかなかなかなか。。。(ガンバル

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

またわけのわからないことを #2

2022-09-21 16:18:00 | ウチの子たち
前回の記事は、あるブロ友さんのところのネコちゃんが突然亡くなったことがきっかけで書いた。そのネコちゃんには会ったこともない。でも、我が事のようにショックだった。悲しいというのとは違う。上手く言えないんだけど、とにかく心が揺れた。だから前回の記事を書いた。書いた内容は以前から頭の中でモヤモヤとうごめいていた事だったんだけど、まだよく整理出来ていなかった。でも、書かずにはいられなかった。そのため、やっぱり何を言ってるんだかわからないような内容になってしまった。
それでも、いただいたコメントを読んで必死にいろいろなことを考え続けた。そしてそこからもっといろいろなことを考えたら、少しだけ道筋が見えてきた。
だからまた書いてみようと思う。
いろいろなことを何度も何度も考えたので、もしかしたら今までと真逆の事を書くかもしれない。それはご容赦いただきたい。

ペットロスのことを書いた時にちょっとだけ触れた、 養老先生の「まる🐾ありがとう」という本にこんなことが書かれている。
本来、生き物の死は“自然の一部”として認識されていたのに、都会はそれを過剰なまでに社会から遠ざけてしまった。
都会は人間の意識が作り出したものだ ~(中略)~ 人間が頭の中で考えた規格通りの環境をこしらえてるうちに、嫌なもの、不都合なものを遠ざけてしまった。中でも、死はどうにも不吉なものだから、都会はなるべく遠ざけようとしてきたのである。
(P.49)
死は人が必ず通る道であり、それと向き合えない方がおかしいではないか。死を意識から遠ざけることを「変ではない」と頑張り、それが文明人だというなら、「じゃあ、あんたは死なんでくれ」と言うほかはない。
(P.54)
儂もずいぶん以前から、「今の社会は必要以上に『死』というものを忌み嫌っているんじゃないか?」と感じている。小説のタイトルじゃないけど、「死」は、実は常に自分のすぐ隣にある極めて自然なこと。だから、やはりお釈迦様が言われている「死は悲しむことではない」ということが正しいんだと思う。
もちろんこれはそんなに簡単ではない。前回の記事でいただいたコメント、
「お釈迦様のように修行したり、悟ったらそれからは解脱出来るのかもしれないけれど…人はなかなか難しいですね。。 」
まったくこの通りだと思う。いわゆる普通の人(この言葉はあまり好きではないけど)は、お悟りなんて死ぬまで得られない。
今から50年近く前、儂の祖母が亡くなった時に、菩提寺のご住職から「自分の娘が亡くなった時、悲しんではいけないのはよくわかっていたのですが、どうしても涙が止まりませんでした。」というお話をいただいたことがある。仏さまにお仕えしてたくさんの修行をされているお坊様でさえそうなんだから、どう考えても凡夫には無理。
(実際、親が亡くなっても悲みを感じない人達がいるらしいんだけど、これは感受性なんかの問題で、悟っているから悲しくないのではないんじゃないかなと思う。)

ただ、確かにそうではあるんだけど、

お釈迦様は単純に「悲しんではいけない」と言っているのではなく、「悲しむことではないのだから、悲しまないように努力しなさい。」と言ってるんじゃないのかなと思う。
このことに限らず、お釈迦様の言われてることには「そんなことできないわw」ということがたくさんある。でも、これらはすべて「できないからこそやる、できるまでやり続ける。」ということだと思ってる。仏さま的な言葉で言えば、「できないからこそ、できるようになるまで精進しなさい」ということかな。そしてそのためにはいくら時間がかかっても構わない。とにかく、できるようになるまで努力し続ける。これがお釈迦様の教えなんだと思う。

とは言え、「死を悲しまないように努力する」なんて、言葉で言うほど簡単じゃない。特に愛するものを失ってからまだ間がない時に、そんなことできるわけがない。
でも、だからと言って何もしないと、もしかしたらそのまま悲しみの中に沈み続けてしまうかもしれない。だからこの時は、どんなことでもいいから考えることが必要だと思う。悲しまないように努力する必要なんかない。場合によっては逆の方向のことでも構わないから、とにかく考え続けなくちゃダメだ、と、儂は思う。
そして、時間が経って「時薬」が少しずつ効いてきたら、自然と悲しまないような努力もできるようになってくるんじゃないだろうか。もちろんそこまでの時間の長さは千差万別。悲しみの深さや種類、その人の背景因子なんかでまったく異なると思う。

そして、本の中で養老先生が書かれていることをもう一つ。
まるは自分の死について考えたのだろうか。
人間は死について考える。動物は、先ほども述べたように、物事を抽象化できないから、死を概念として捉えることができない。 ~(中略)~ 動物の中で死について考え、悩むのは人間だけだと思う。だから、人間の世界には宗教がある。
(P.126~)
動物はおそらく人間が考えているようには死を意識しない。死は、経験した瞬間にその記憶は消えてしまう。だから死ぬということがいったいどういうことなのか、誰も知らない。だから、考えるしかない。 ~(中略)~ 人間は自分の死をシミュレーションできる側で生きており、常にそのような見方しかできない。それをできるのは人間の意識だけで、そうなったこと自体が、人間における面倒くささのそもそもの始まりである。 ~(中略)~
まるは最後まで自分が死ぬということを考えなかったと思う。なぜならそれは、まるの世界ではないからである。
(P.131~)
あまり「中略」が多いと、本来の意味が変わって伝わる可能性もあるので全文を書きたい。でも、著作権のこともあるし、そうもいかないので、できれば多くの方にこの本を読んでいただきたいなと思ってる。

ぼあちゃんも、自分の死のことなんかこれっぽっちも考えたことはないと思う。まったく養老先生の言われる通り。
儂、ぼあちゃんが亡くなる時に、自分が抱いている「死」のイメージを、勝手にあの子に重ねていたんだなと思った。本当は何もわかっていないのに、あの子の気持ちや思いをわかったつもりになっていた。それで可哀そうなことをしたと思っていた。
「長生きさせてあげられなくて申し訳なかった」と思い、今でもそう思っている。でもこれも、あくまでも「死」というものに対する人間の勝手な思いから生まれて来てるのかなと思った。
よく「亡くなって可哀想」と言うけれど、死ぬということがどういうことなのかわかっていないのに、なぜこんなことが言えるのかなとさえ思えてきた。もしかしたら、死後は極楽や天国のような所で幸せ三昧に暮らせるかもしれないのにw。
ましてや動物の場合には、本人が死について何も考えていないであろうから、その子の気持ちを慮るなんていうことは、実は見当はずれなのかもしれない。そしてそうだとしたら、そんなことで悲しんでもしょうがないということにもなるのかな。
それでも人が「死」を悲しむのは、前回も書いたように、亡くなったものとの繋がりがなくなり、それが絶対に元に戻らないからだと思う。やっぱり人が「死」を悲しむのはここなんだと、儂は思う。
でもこれも、ちょっと違う方向から見ると、あくまでも自分を中心に考えればということなのかなと、思えなくもない。「死」というのもがどういうものかわからないんだから、こちら側からは繋がりがわからなくても、亡くなった側からは繋がったままなのかもしれない。まあ、こういう風に思えば少しでも悲しみが癒えるから、いろいろな宗教にそんな考え方があるのかな。
いろいろ考えて行くと、「死」というものをまったく考えない動物の方が、少なくとも気持ちの上では、人間よりもよっぽど安らかに亡くなっていくのかもしれないなと思った。

今回書き始めたことは、自分の中では大分整理されてきたんだけど、それを言葉にして伝えるのはまだなかなか難しい。なので、今回はここまでにする。
でも、もう少しだけ書きたいことがあるので、あと1回だけ続けようと思う。



そして今回も、去年の今日のぼあちゃんの写真を何枚か。

7時半 お目覚めから1時間ちょっと位の頃。

11時48分 ベランダで日向ぼっこして💩してご飯も食べて、"居間"で一休み。

1時46分 またベランダの夏用ネットケージへ。

4時6分 儂の抱っこ。この目つきを見ると「パパでもしょうがないか。。。」だったのかもw。

5時半前にはケージの寝床に戻しておやすみなさい。
この子の状態に初めて違和感を感じたのは、この1週間後だった。

-- 2022/9/26 11:10 追記 --

違和感を感じたのは9月28日だと思ってたんだけど、日記を見直したら9月29日だった。



にほんブログ村 その他ペットブログ ペット 思い出・ペットロスへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

またわけのわからないことを

2022-09-19 19:27:30 | ウチの子たち
悲しいことを目にしたので、以前から思っていたわけのわからないことをちょっとだけ書いてみようと思う。
本当は自分の中でもう少し整理してから書こうと思ってたことなので、今書くと、ただでさえわけのわからないことがもっとわからなくなってしまうかもしれない。でも、何事にも“間”があると思うし、今がその時だなと思ったので、あえて書いてみることにした。
というわけで、意味不明になってしまったらごめんなさい。

生者必滅会者定離

言うまでもなく、「命ある者は必ず死に、出会いがあれば必ず別離があるのがこの世の定め」という仏教の教え。
このことにはまったく異論をはさむ余地はない。だから、「死」というのは忌み嫌うべきものではないし悲しむものでもないと言われる。
これは、亡くなる方にとっても残される方にとっても同じ。ただ、亡くなる方の気持ちや感情は推測の域から出ようがないので、ここでは残された方についてのみ書いてみる。

儂、「死」は忌み嫌うものではないというのはその通りだと思う。でも、悲しむものではないというのは、ちょっとだけ飛躍があるように思う。
確かに、「死」そのものは必定だから悲しむことではない、というより、悲しんでも仕方がないんだろう。でも、その結果として起こること、「会えなくなる話せなくなる触れなくなる見えなくなる・・・」、つまり、亡くなった者と残された者との、仏教でいうところの六根(のようなもの?)による“繋がり”が不可逆的に途絶えてしまう、このことが悲しみを生むんじゃないのかなと思ってる。そして、生前にこの“繋がり”が強ければ強いほど悲しみが深いんじゃないだろうか。また、この繋がり方によって、悲しみの種類も変わったりするのかもしれない。
それゆえに、何事にも執著せずに六根を清めれば、悲しむこともないということなのかな。
でも、普通の人にとって、執著しないとか六根清浄とか、努力はできても完遂するのは絶対に無理だろうw。悲しいのは当たり前だし、極々普通のこと。先のことを考えれば、むしろ悲しむだけ悲しんだ方がいいと思うし、それが今の儂の実感でもある。
そして、この悲しみを減らしてくれるのは、多分「時薬」だけ。他にもいろいろあるかもしれないけど、それらはみんな「時薬」の作用を増強するものかなと思う。

ここまで書いておいて、反対のことを言うようだけど、「死は悲しむものではない」というのも、そうかなと思う時がある。正確に言うと、その時は悲しんでも少し時間が過ぎればあきらめがついてくる、あるいは、悲しみは続いても同時にあきらめもついてくる、というようなことかな。

実はぼあちゃんが調子を落として、もしかしたらもうダメかなと思い始めた頃、そういうことを思い始めた。「生き物だから亡くなるのは仕方がない。でもこの子達の寿命を考えると、まだそれには少し早い。あと3年、いや2年でも生きてくれれば、まだあきらめがつくのに。。。」と何度も思った。
結局そうはならなかったので、実際のところはわからない。想像するに、多分あと何年かして亡くなったら、少なくとも悲しみの深さは変わらなかったか、あるいはより多く悲しむことになったかなと思う。ただもしかしたら、今よりは早くあきらめられたのかな、納得できたのかなと思わないでもない。

例えば、生まれることなく亡くなった場合、寿命と言われるような年齢になる前に事故や病気で亡くなった場合、寿命と言われるような年齢まで生きたけど事故や病気で亡くなった場合、そして、寿命と言われるような年齢まで生きて文字通り寿命で亡くなった場合、それぞれで、残された者の悲しみの深さや種類に違いがあるだろうか。儂は、少なくとも悲しみの深さには違いがないんじゃないかと思う。これを決めるのは、先にも書いた“繋がり”の強さじゃないかと思う。あるいは“繋がり”の種類もそうなのかもしれない。
ただ、寿命と言われるような年齢まで生き、さらに寿命で亡くなった場合には、もしかしたら、「時薬」の効果が出て来るのが少しは早いのかなと思ったりもする。

案の定、何を言いたいのかわからなくなってきたw。「だから何?」と自分でも思ってるんだけどw、それでもやっぱり仏さまは、「悲しむことではない」、「いつまでも悲しんではいけない」と言いたいんだろうなあ。確かに、この世は無常なんだから、悲しみや苦しみだって永遠には続かないはず。
儂、初めてこのキサー・ゴータミーの話を読んだ時に、「そうだな、そうなんだな」と思った。でもその後、「言ってることはすごくよくわかる。でも、うーむ・・・」に変わって今に至ってる。特に、この例え話で出て来るのは子供なんだよね。。。

まあ、とりあえず何が言いたかったかと言うと、今は気が済むまで悲しめばいいし、難しいことは何も考えず何のはからいもせず、自然に任せれていればいいんじゃないかなということかな。
(主にsanchaさんへ)

そして、

こんな内容の日記になんでぼあちゃんの写真?とも思うけど、儂にとっては結構自然な流れなのですみません。
去年の今日撮った写真全14枚を時間順に。実は、この日はベランダに大きなゴキブリが出た日。ぼあちゃんに見つからないように大捕り物だった。

6時49分  "居間"。


6時55分  "居間"。


8時23分  "居間"で温度計のリモートセンサーをカジカジ。

9時46分  ブリッジステージ。

11時17分  ペットサークルで狩り。


11時18分  ペットサークルで狩り。


11時27分  ベランダの夏用ネットケージ。


11時34分  "居間"。

12時1分  リビング。


12時31分  ベランダでママの抱っこ。

12時42分  ベランダの夏用ネットケージ。

1時47分  ママに抱っこされて脱皮をカリカリ。「ヤメテー」w。

2時  リビングのスチールラックにIN。


2時5分  そのままZzz...。


この後、4時半頃にママが抱っこして、5時半頃にケージに戻しておやすみなさい。



にほんブログ村 その他ペットブログ ペット 思い出・ペットロスへ
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Jリーグ 第30節

2022-09-19 08:01:44 | F・マリノス
残念だけどしょうがない。

試合の入りは5連戦の5つつめと思えないほどファイトしてるな思ってたんだけど、時間が経つにつれてエネルギー不足になってきたかなと感じた。昨日の蒸し暑さもあったかも。
それでも、選手達はファイトし続けようとしていたから、なんとか勝たせてあげたかった。上から目線かもしれないけど、昨日はホントにそう思った。
まあ、引き分け上等の相手に勝つのは、容易じゃないわ。それでも、コンディションが万全だったら勝てたかなとも思うんだけど、今の状況だと、さすがにそこまでの力は出なかったね。試合後のコメントを読むと、選手達もよくわかってたみたい。

レフェリングやVARについても思うところはあるけど、言っても詮無いことだからやめておく。ただ、シーズン終盤のここに来て、なんでこんな低レベルなよくわからないレフェリングが続いてるのかな。それがちょっと不思議なので、どなたか教えて下さい。
このことも含めて、試合後の監督の記者会見読んで、儂も同じようなこと思ってたからワロタw。こういうのを、ホントに留飲が下がると言うんじゃないかなw。
Q. 試合をゆっくり進めるような札幌のプレーはF・マリノスに影響はありますか?
A. 正直イライラはします。
実に素直な答えだ。よっぽど頭に来たんだねwww。そりゃあ来るよね、ねえ菅野くん💢
Q. VARについて。また選手たちのVARに対する姿勢について
A. 選手たちが混乱する。どっちなんだと。見るの?見ないの?という基準。例えば西村の場合は足首の靭帯損傷を負うような怪我があったのにVARが介入されなかったが、今回は彼らの仕事をした。
あれだけのケガを負うような時にVARは介入せず、今日のような時は介入するってねwww。
これについて言えば、この記事にあった選手の話を読んで、やっぱり本心では納得していないんだなということがわかったわ。

儂は、他所の事より、とにかく自分達が勝ち続ければいいだけだと思ってる。ただ、引き離せる時に引き離しておかないと、必ず痛い目に合うとも思ってる。だから昨日の引き分けはとてもとてもとてもとても残念だし、正直ビビる。その理由は2つ。
  1. 勝ち点差5で変わらなくて良かったと思ってる人もいるかもしれないけど、2013年は残り2試合の時点で勝ち点差5だったんじゃなかったっけ? 儂も含めて、多くの人が「大丈夫」って思ってたよね。でも、最後に2連敗して優勝逃したんだよね。
  2. ここで中断に入る。そして次はウチが苦手の中断明け(あくまでも儂の印象)で苦手のアウェイ、それも大鬼門の豊田スタジアム。ここ、これまでの成績は2勝4敗4分で勝率20%だからね。10回戦って勝ったのは2回だけ。だから3勝目にすればいいって? そういう考えが軽い。言うだけなら簡単だけど、鬼門は舐めたらいかんのよ。
儂、実はこれをずっと考えてたので、昨日はなにがなんでも勝たないダメだと思ってたんだわ。ちなみに、こんなこと書くと言霊になるかなとも思ったけど、かえってエイヤーで全部吐き出しちゃった方いいんじゃないかと思ったので、ハッキリ書いてみたwww。

そりゃあサッカーなんてやってみないと何が起きるかわからないさ。でも、また「予言者なの?」とか言われそうだけど、相手は川崎なの。川崎を崖っぷちに追い詰めることに失敗したのは、この前の「等々力劇場」に次いでこれで2度目。そこんとこも良く考えた方がいいと思うよ。確かにここ2試合、川崎は足踏みしてるけど、今日ウチが右に倣えしちゃったから、間違いなく息を吹き返したと思う。我が家のフロサポの機嫌を見てても、それがよ~くよ~くわかる。


そして、

宮市亮18
リハビリじゃなくてもうトレーニングの域になってるってスゲーw。
やっぱり同じケガを負った選手のことは気になるんだね。これはよくわかる。



にほんブログ村 サッカーブログ 横浜F・マリノスへ
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ごちゃ混ぜ

2022-09-17 17:03:27 | ウチの子たち
今日は8月6日に続き、また話題ごちゃ混ぜ。

レオパ達の備忘録
先週今週と、全体的にはらぷちゃんもきょろちゃんもしおちゃんもそれほど変わりないかな。
朝儂が起きて来ると、しおちゃんはもちろん、最近はきょろちゃんもらぷちゃんもシェルターの中で寝ていて、夕方になると出て来ることが多い。暑さが一段落してきてるからかもしれない。
ただ、らぷちゃんは先々週の後半から先週末位まで、きょろちゃんは先週末から昨日位まで、それぞれシェルターに引き籠もり気味。夜になってもなかなか出て来ないこともあり、ちょっと元気がないのかなと思ってた。らぷちゃんときょろちゃんの元気さが変わり番こだなと思ったw。
きょろちゃんもらぷちゃんも元気がなくなる前に色がくすんでるかなと思ったので、シェルターに引き籠もりだったのは脱皮のせいかもと思ってた。でも、どっちも、脱いでるところはもちろん、真っ白になってるところもなかなか見れない。最近、脱皮がはっきりわかるのはしおちゃんだけ。
それでも、昨日の夜、やっと「出して~」になったきょろちゃんの手足の指を見たら、ちょっとだけ脱皮が残ってたので、やっぱりそうだったみたい。
らぷちゃんは今週半ば位からはわりと元気になってきたんだけど、脱皮の痕跡は見つけられず。
みんな食欲は変わってないし💩もまあまあだから、大丈夫かな。

9月15日 午後4時2分のらぷちゃん。この直前にシェルターから顔を出して目を閉じてたんだけど、カメラを向けた途端にこの顔。

まったく同じ日時のきょろちゃん。こちらはカメラを向けてもこのまんま。


ついでなので、去年と一昨年の今日の【ぼあちゃんの飼育日誌】も貼っておきます。また写真だけでも見てやって下さい。


ヴェルディ レクイエム
ヴェルディのレクイエムのことを書くのはもう何回目かわからんけど、YouTubeを徘徊していたらたまたま出て来た、バーンスタインのロンドンライブ。
ドミンゴもライモンディも若いなーと思ったら、52年前だったw。あらためて、儂も歳とったわけだと思ったwww。この2人も、そしてアーヨロもヴィージーもホントに晴らしい声!
そして、バーンスタイン。儂はこの頃のバーンスタインの指揮する姿に圧倒的に傾倒してた。情熱や自己陶酔があふれ出てる指揮ぶりに、まさに陶酔したw。儂、大学時代は学生指揮者だったんだけど、バーンスタインのこの指揮の影響はかなり大きかったかも、カッコだけだけどwww。
そして、この演奏会の後にスタジオ録音されたのがこれ。
確か、このレコード(LPレコードねw)が発売された時の「レコード芸術」という雑誌の批評に、「アインザッツ(だったか子音だったかは?)の不揃いが目立つ。バーンスタイン自身はこれに納得してるのか?」みたいなことが書かれてた記憶がある。50年以上前の記憶なのでかなり危ないけど、当時、儂も「そうかな」と思った記憶もあるw。
今聞いてみても、確かにスタジオ録音じゃないような感じの雑なところもあるなと思うけど、まあそれも含めてのバーンスタインじゃね?と思ったw。


わけのわからない話2つ
最近、「そんなこと考えて何になるの?」みたいなことが多くて、自分でも「どうした?」と思うんだけどねえ。まあ多分、ぼあちゃんとむくちゃんという命を失ったことに関係してるのかな。
まず一つはこれ。尊敬する中村桂子先生と松本紹圭師の対談。とにかく読んでいただきたいなと思う。
ここに出て来る「グッド・アンセスター」という本はまだ読んでないんだけど、近いうちに読むつもり。「よき祖先になれるか」って極めて大事なことのように思う。
もう一つはこのニュース。
実際結果はどうなるかわからないし、いろいろ批判的なことも言われてるみたい。でも、少なくとも今の状況で、少しでも良い方向に進む可能性があることを批判するのはどうなのって思う。
こういうことを批判する人って、単に多くの意見と反対の事を言いたいだけとか物事を白か黒でしか考えられないとか、そんな人が多いのかなと、儂は思っちゃうんだよね。
どんなことでも100%正しいなんていうことはあり得ないし、デメリットや問題点やできない理由なんかをあげつらって、「だからできない」、「だからやっても意味がない」などと言う(昔の儂w)ことこそ、正しくないと思うんだよね。


P.S.
さっき、よくコメントをいただいているsanchaさんのブログを見たら、サンジちゃん(sanchaさんのネコちゃん)が急死したとブログに書いてあった。
あまりの衝撃で言葉を失った。。。
もう勘弁してほしい。。。


にほんブログ村 その他ペットブログへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする