連休、わたしは友達と六本木ミッドタウンへ。
ひとりの友達は地方から出てきたばかり、
しかも車椅子なので東京を知らない。
電車の乗り方などの訓練の意味合いもあり、
他仲間と共に東京散策することに。
なぜ、メルセデスベンツには障害者が働いていないの?
決めた!
わたし、絶対に六本木ミッドタウンで働く!
自信を付けてもらいたいという親心半分、
障害者である身の上を、
現実の厳しさを理解してもらいたかったのだ。
きらびやかな東京が憧れではなく、
彼女には射程範囲になぜか映ってしまった。
途方に暮れたのは、むしろわたしの方だった。
わたし仲間は脱力したまま数日を過ごす羽目に。
高校中退、社会経験ゼロの30才を目前にした障害者が、
健常者でも選りすぐりの逸材しか門戸が開かれない社名を口にしたとき、
身の程を知らせる大変さに、ため息しか出てこなかった。
わたしは障害者を差別しているわけではない。
ただし、いろいろな人の手を借りてようやく成立する生活という現実が、
電車ひとつ自分ひとりでは乗れない現状から、
なぜ、自立が容易であると思えるのが不思議だった。
なぜ、エリート集団の中に入れると思えるのかが、
理解に苦しむのだった。
わたしの起業はストレスマネジメント分野だ。
その中でも教育に力を入れたいと思った理由は、
こうした出来事の積み重ねにある。
自分を正しく認識することから、
他者への理解や自分または他者との関わりが明確になる。
自己評価が低くても問題だが、高くても厄介だ。
機会の平等は必須事項だ。
だからといって、向学心なく努力しない者は、
障害者健常者関係なく、社会は必要としない。
※文中、友人である障害者への厳しい発言がありますが、
支援する側の苦悩を突きつけられたがゆえ、ご理解ください。