本当の黒幕は、私の場合、保険会社だ。
被害者はどうしても加害者へ怒りをぶつけてしまう。
が、加害者は被害者との接点を持つなと強要されるが、被害者はそれを知らない。
どのような話になるのかはわからないが、
最善を尽くし、挑んでくる。
黒人初のアメリカ大統領が誕生した・・・と報道がなされる。
が、彼はケニア人の父、白人の母の元に生まれた「ムラトー」
(発音が違うかもしれませんが、白人と黒人のミックス)であり、黒人の血だけではない。
そこから差別が見え隠れするのは私だけでしょうか?
一滴でも黒人の血が入ると、IDには「ブラック」と記される。
一見、白人にみえてもだ。
そこに違和感を感じるのは、私だけなのだろうか・・・と選挙報道を見るたび、
黒人たちの置かれた現状を正確には伝えきれていないと思えてしまうのはどうしてなのだろう。
友人に「おめでとう」コールをする。
熱狂しているNYやCAなどが目前に広がる。
歴史に立ち会えた私たちを待ちわびる次のテーマは、さて、なんであろう。
ふと、JFKが浮かぶ。
なぜか、オバマと重なってみえてしまう。
免許の更新に行くと、案の上、できなかった。
障害者手帳、診断書、診察券などすべてコピーしていた。
警視庁は「慈恵医科大学」で障害の有無を判定してもらうらしく、
形式の診断書をもらい、一ヶ月以内に再度、免許センターへ行って、
その後、本部の指示を仰ぐらしい。
視力は0.1だった。
で、今度は免許更新ができない。
警察には「正直ですね・・・」と言われたが、
交通事故に遭っている以上、被害者にもなりたくなければ加害者にも、
だから、車には一生乗らないと思います、と伝えた。
実際のところ、乗らないのではなく“乗れない”が正解だが。
その後、区役所へ行って、警察の人が教えてくれた「障害者年金」について
係りの人と話をした。
私の場合は事故当時、社会保険だったため管轄の違う、
最寄の社会保険事務所を教えてもらったのだが、そこで精魂尽きた。
結局、自宅に戻り、横になった。
で、電話連絡をして、郵送可能な書面について説明を受けることにした。
が、電話口に出た年配の男性の態度はとんでもないもので、
「予約をするか、窓口に来い」という。
でも、その“約束”ができない体調のため、障害者扱いになっているのですが、
長時間の外出はおろか、約束の日時に出向くなど、通院以外は不可能です、と言ったが、
なら、手続きはできない、と怒鳴られた。
そこで食い下がるわけにはいかない。
男性に怒鳴られる覚えなどない私は「担当者を女性に替えてください」と静かに伝えた。
すると、さっきまで「郵送など受け付けない」と言っていたものを
「大丈夫です」とあっさり。
この対応の差はなんなのか、と不思議に思うのは当然ではないのだろうか。
障害を抱えるとみえてくるものがある。
それは、人の本質だ。
私は基本的に警察は苦手だが、今日は本当に丁寧に対応してくれたし、
区役所の方々も親切だった。
が、問題は社会保険事務所だ。
全員ではないにしろ、これだけの問題を取りざたされていても、
それを“自覚できない職員が存在すること”は
残念であり、悲しく、税金をつかってふざけるな!!と言いたい心境にもなる。
今日ですら、この有様なのだから。
先日、社会保険事務所から一通の書面が届いた。
封を開けるとそこには“傷病手当金の不支給について”と題した一枚の味気ない通知で
なぜ“不支給であるか”が簡潔に記されていた。
そして、私はその理由が、つまり、“不支給”である理由と現実との間には
まったく別の事実が通用してしまっていることに気付き、
社会保険事務所へ問い合わせをし調査を依頼した。
結果はこうだった。
“有給を使ったことになっているため、約2ヶ月近い期間、給与の支払いがなされている”と。
それは事実とは反する。
私は当初、復職するつもりで体調不良を理由に休業した。
が、有給扱いは認められなかったし、会社都合で退職したのは今年2月、
退職日時も遡って去年末とされ、会社の都合で話し合いができなかった間の保険料も支払い、
また、退職日時が去年末とされていたために、
国保への切り替え時も、保険料は今年初めから支払う羽目になった。
総額にして、100万以上の金額を、
障害を抱えた私へ、確信犯的に会社は押し付けてきたのだ。
それが現実だった。
でも実際には“会社の都合”で日付の変更を操作されていた。
もちろん、私はその事実を知る術を持たずに、最近まで過ごしてきたのだった。
去年のものですら、勤務した給与が支払われたのは、実際には今年2月になってだ。
それまで“傷病手当”について会社側の担当者へ何度問い合わせしても対応せず、
書面(実際には社印)を捺すことすらしなかった。
でも、私は医療を受けるためにお金は必要だったし、もちろん、生活をしていく上でも。
でも、体調が悪く、仕事はできない。
起き上がれないほどの不調、それは会社は知っていた。
障害を抱えていること、その障害を抱えたままでは転職は難しいことなど、
それを知った上で手段選ばずであったのだから、
私は人間を怖いと思った。
しかし、それは畏怖の領域ではなく、人間の欲のなせる業だと考えさせられた。
私は結果的には自殺を考えてこなかった。
それは娘がいたこともあるだろう。
盟友の存在も大きい。
けれど、一番大きな要因としては、
卑怯な人間たちのために“なぜ私が死を選ばなければならないのか?”という意地に過ぎない。
とはいえ、その意地を持ち続けるには体調は容赦してくれず、
なんども折れそうになり、
終いにはすーっと、電車に吸い込まれていくような感覚すら持つほどだった。
私は鬱ではない。
しかし、その私ですら、吸い込まれていく感覚に、自分の意思など通用しないと悟ったのだ。
自殺の問題は、自己責任という安易な言葉で片付けられるほど単純ではない。
それが自己へ向かう場合は“自殺”となるが、それが他者へ向かう場合は“殺人”となる。
何食わぬ顔で生きていて、自分は病気とも自殺とも関係ないと思っている人も多いだろうが、
間接的に人を死に追いやっているかもしれないという意識は、
この問題を語る上で、必要であり、最重要課題であると私は考えている。
15分にひとり、
単純計算しても“90人/日”の日本人が自殺している。
毎日、日本のどこかで、死を実際に選択する人がいる。
私は23歳のときに親友を、26歳のときに同級生を自殺で亡くしている。
その他、交通事故や病気で亡くなった友人を含めると、その数2桁におよぶ。
残された者、私を含めた残された者がその後、どれだけ苦しむのかを味わった。
そして、生き抜いてやる・・・とようやく思えるようになっていく。
無念の死を選ばずおえなかった友人たちの鎮魂のためにも、
死がなんの解決にもならず、
むしろ、その死によって利益を得たり、救われている人間の存在を知って
“生死について”考えざるを得ない20代を、青春を私は送った。
今ほど自殺者について取り沙汰されることの少なかった90年代、
厚生省(現 厚生労働省)から発表される白書などを国会図書館で探し
関係文献から実情を把握するよう努めることにした。
でも、限界だった。
世の中は“その人が弱いから自殺するのだ”と考える傾向にあったし、
そこになんの疑問など誰ももっていなかったのだから。
私は“変わり者”でしかなかった。
いち早くこの問題、つまり、日本の自殺者数の異常さを叫んだのは、
アメリカ人の友人たちだった。
彼らはセラピストでもある。
アメリカの現実と日本のそれとの間の温度差や相違に
どのような関係性があるかわからないが、
無関心であっては絶対にならない・・・と私を抱きしめながら呪文のように耳元で囁いた。
国際空港で、米国から帰国する東京便のチェックインを待つ間、
ぎゅっと力が込められた両腕の中で“私は自殺について”考えてきた。
あるNPOが調査したものによると、自殺をする要因には複雑な理由が絡み合いながらも
半数を占めるもの、それが「健康上の問題」であった。
私も他人事ではない。
そして、自殺を選択する者、自己責任ではない現実を、すこし話したいと思う。
続く・・・・・
【パリ2日時事】
経済協力開発機構(OECD)は2日、
先進国を中心とする加盟30カ国の雇用状況を調べた報告書
「雇用アウトルック(2008年版)」を発表し、
日本については男女間の雇用格差が著しい点を問題視、「緊急対策が必要だ」と注文を付けた
それによると、07年の日本の男性の就業率は92.8%で、
加盟国中アイスランド、メキシコに次いで3位の高率。
これに対し女性は67.4%で、トルコ、メキシコ、イタリアなどに続いて下から7番目と、
依然低い水準だ。
報告書は、日本女性の42.5%が高等教育を受け、
OECD平均の28.5%を大幅に上回っている点に注目。
「女性の過少雇用は貴重な人的資源の大きな浪費であり、
緊急に対策が講じられるべきだ」と指摘した。
↑
女性の過小評価は今後の企業の将来を左右し兼ねない。
ぜひ、この機会に考えてもらえたらと願う。
アメリカの象徴とも一時言われた“スターバックスコーヒー”が
大規模閉鎖に踏み切るニュースが世界に配信された。
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/us_economy/?1214981755
収益減=閉鎖=失業者の増加
この構図は他業界へ広がっていくことは、避けられないだろう。
事件の際、必ずといっていいほど報道機関を介して
「母親が厳しすぎた」とか「母親が甘かった」という表現を耳にする。
“父親が・・・”とはまず第一声としては聞いたためしがない。
暗黙の了解が報道のあり方にも少なからず影響しているのだろうけど、
“父親は仕事をしているため、子育ての責任はすべて『母親にある』”と私には聞こえる。
時代がかわろうと、女性が社会進出して共働きになろうと、
基本的に子供の養育にかかわること=母親の役割りとして、
社会は厳しく見張っているように思えるのは、私だけなのだろうか?
母子家庭の問題の取り上げ方ひとつとっても、女性ばかりの責任が叫ばれる中で
そこには必ず“男の関与”がなければ派生しないのに、それは棚上げのままだ。
なにかおかしくないか?
その父親は・・・といえば、居酒屋タクシーで接待を受けているかもしれないし、
ガード下の飲み屋で、上司や同僚や部下にぐだぐだやっているおやじかもしれない。
もしかしたらキャバクラで鼻の下を伸ばしてにやけているかもしれないし、
帰宅後に茶碗を洗って、洗濯をたたむ世の鏡かもしれない。
そんなことはさておき、私事で恐縮だが、
父親や母親世代が受けた家庭内でのしつけや教育を調べると
報道自体がその世代という時代錯誤のまま、現在に至っているのではないか?と疑いたくなる。
むろん、法律は時代が進化しているというのに古い体質のままだし、
それに関わってみると、女性の地位向上を今でも訴えたい衝動に駆られるのは事実だ。
なんで女ばかりが責められるのだ?
覚せい剤使用で捕まった芸能人の母親も謝罪会見していたが
そもそも男の甘っちょろさは語られることなく、
女ばかりが強いとか弱いとか詰られるのは納得がいかん。
そもそもなんでこの時期に“居酒屋タクシー”なんだ?
そこにはもちろん問題はあるのだろう。
けれど・・・なのだ。
こんな書き方をすると、私のような馬鹿がいるから官僚が税金を無駄に使うのだ!!と
言われかねないのだろうけど、
不穏な密告社会の空気を嗅いでしまうとき、
問題は別にあるように思えて仕方ないのだが・・・・・・
容疑者は派遣先に出勤すると“自分の制服であるつなぎがなかった”ために
「制服がない=解雇」という発想に結びついてしまったのではないか?と
新聞には書かれていた。
容疑者にどのような理由があろうと、人を無差別に殺してはいい動機にはならず、
また、無差別でなくとも、
他者を殺めてはいけないという根底が揺らいでいるように感じた。
知人は遊びから帰ると、第一報がこの報道だったために
「憤りを感じてしまい、思わずメールした」と短く心境を語った。
私もショックだったために、
「なにが起こっているのか視覚から入る情報がうまく消化できない」と返信に宛てた。
その後、その話題に触れることはなかったのだけど、
戦争のようだ・・・・と亡くなった祖父の写真をみながら私は語りかけていた。
これは容疑者とはまったく関係ない発言として聞いて欲しいのだけど、
そもそも男性が、しかも、働き盛りの年代が“派遣社員”でしか勤務できない現実に
まず私は驚いてしまった。
その一方では、企業は過去最高の利益を更新し続けている。妙だ。
私も“派遣”というシステムを知らぬままに、前職は丸7年も派遣社員として勤務した。
言うまでもなく勤務内容は「正社員」とかわらないものの、
賞与や昇格がなく、職種移動や希望も出せないため、雇用自体は実に不安定でしかない。
その中で会社側(社員といった方がいい)は物同然のように人材を誤用していて
それが目に余る状況も何度も目撃してきた。
私の場合は派遣といっても給与査定などは自身で行えるという、
これまた不可思議な立場にいられたために、給与面に関しては社員以上だった。
が、雇用の不安定さにおいては、他派遣と一切変わりなかったのだとは思う。
ここまでつらつらとわけのわからないことを書いてしまったが、
要は派遣としてでしか仕事にありつけず、月給もわずか20万足らずで
自立ができるのか?
ひとりの生活だけでも困窮するのが目に見えてはいないか?と思った。
無欠勤で働いて20万だとすれば、病欠など資本である体を壊したらすぐさま減給となる。
では、結婚できるか?
結婚はできたとしても、子供を産み、育てる資金は20万円では到底まかなえないだろう。
誰もが当然のように自分の未来予想をしているものだと、できるというのは過去の産物であって
希望が持てないということはそういうことだ。
明日がみえない闇の中で生きている人は
今の日本にはどれくらいの数がいるのだろう?と思うと、正直、ぞっとしてしまった。
希望は犯罪の抑止につながる。
少なくとも、私はそう信じていたい・・・
※犠牲者の方々にはご冥福をお祈りすると共に
ご遺族および被害に遭われた方、そのご家族にはご心痛申し上げます。
熱狂的なカーニバルのような騒ぎの後のツケは、
結局、乗せられた側、ここでは被害者が負う結果となったのは残念なことだ。
ここ数年の間、ある聞きなれない疾患名についてマスコミはこぞって取り上げていた。
その治療を推奨する医師や患者が積極的に全面に出ていたし、
全国では一斉に訴訟が起こされていた。
がしかし・・・・・
今年はじめ、その訴訟は全面敗訴となっていると担当弁護士から報告を受けた。
診断も治療も経過も独断過ぎるのだと説明され、
私も独自に調べてきた結果からすると、当然だと思ったものの、
そこに振り回された患者や被害者の将来を思うと
胸が痛くなって、ここに書くことすら躊躇を覚えたほどだ。
冷静に考えればそれは当然の結果なのだ。
医療もマスコミも予後をまったくといっていいほど取り扱ってはいない。
某医学学会でも、その疾患名についての口演には
根拠とされる症例があまりにも曖昧な取扱だと
反論が会場を沸かせることも珍しくなかったからだ。
私の場合は別途、頚椎の不具合が画像所見として証明できるからよかったものの、
所見がないままに不具合だけを訴える者は、
医療や司法に置き去りにされてしまう。
被害を受けた事実がありながら、その補償がなされない現実は、
生きるなと言っているようなものだ。
証明できるからといって私も安泰なわけでは決してなく、
これから刑事・民事事件の処理がようやくはじまる。
かれこれ事故事件から3年半も要した意味は、
私たち車社会で生きる者たちへ
なにを課題として伝えようとしているのだろうか・・・・・
本当の闘いはすべての処理が終了したあと、
その本番をきっと迎えるのだろう。