風の生まれる場所

海藍のような言ノ葉の世界

空や雲や海や星や月や風との語らいを
言葉へ置き換えていけたら・・・

風の旅人

2008年09月29日 11時27分41秒 | エッセイ、随筆、小説

 


雑誌、風の旅人が届いた。
辞書のように、どのページをめくっても、それぞれの個性が心地よく心身に刺激を与え、
写真はともかくとして、卓越した文章力に、本を前にして、深々と頭を下げる私。

書けないというのは、私にとって拷問に近い。
愚文であることは間違いないが、それでも“書く作業”に救われてきたし、
そこに光を見出していたためだろう。
ふと、それを夢の中で思った。

いよいよ・・・というべきか、それともとうとう・・・とでも。
障害者手帳を持つ立場になった今、
私は心の整理ができていないようで、朝が来ることも夜が更け行く時間すべてが、
どこか他人事で、現実味がなく、それでいて、書けないという自覚が津波のごとく襲いかかる。
私にはなす術なく、流されるだけだ。
もがくことはとうに無意味であると知っているし、
あれこれ考えるだけで、答えのない問いの中で彷徨うだけ。

ただし、風の旅人のページをめくるときだけは、
自分が復活する。
まるで、その到着だけを楽しみに息をしているかのようだ。
そして、作品を時間をかけ、丁寧に拝読する。



※風の旅人
http://www.kazetabi.com/




入眠と覚醒と夢と五感

2008年09月14日 14時21分56秒 | 医療





常に練習をしている。
再診を間近に控えた今日、診察時間を有意義に使うためにシュミレーションを行っている。
しかも、夢の中でも、なにをまず言い、なにを頼み、なにを訴えるのか、
我ながらここまで緊張していることを自覚させられると、ほとほと嫌気がさしてくる。
投げ出せるならとうに投げ出したいものだと何度も思ったが、
今秋で4年、よく耐えてきた。

不思議なことにこの一週間ばかり、覚醒時の不快も頭痛も頚椎痛も消滅している。
多少のふらつきやめまいがあるものの、
この程度なら生きていけると思えるほどに快復した。
が、反面、この快復から奈落の底にいつ落とされるのかわからない恐怖が影のようにつきまとい
実際のところ、おちおちしてはいられないのが悲しい現実なのだが。

現実の生活において、ここまで痛みを感じないのは交通事故後、初めてだ。
が、脳というものを観察していてすごいと思うのは、
夢の中で“痛みを再現”する能力があり、あたかも「油断するな!!」と肩をたたくようで
生活は一層、慎重に慎重を重ね、転んだり、怪我をしないように気遣う毎日となった。

強力な足裏踏みで暇さえあれば足裏を刺激するようにしている。
頚椎に無駄な負荷がかからないように気をつけながら
母がつくった蕎麦ガラクッションで頚椎から背骨をストレッチ、
呼吸法を行いながら骨格強制を行い、水分を3L/日摂取、
新しく処方してもらった漢方と相性がよかったのだろう、わずか2週間で体調はいい方向へ。

要するに、自分の心身が欲するものだけを行い、
出来る限り、横になって過ごす。
快方前は痛みも酷く、1日中眠い状態が続くが、
その後、体調が一気に底上げされる。

とはいっても、生活費の問題や養育など、病人が病人でいられない環境の日本において
容易なことほどいかに困難を強いられるのかを身をもって体験してきた時間を
次回、某大学病院の教授には訴えたいと思う。
しばしシュミレーションをくり返し、悔いの残らない再診を。





夜と霧

2008年09月05日 22時08分41秒 | 医療




ここで必要なのは、生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。
私たちが生きることから何かを期待するのではなく、
むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、
ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。

コペルニクス的転換が必要なのであり、
もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、
わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。

生きることは日々、時々刻々と、問いかけてくる。
わたしたちはその問いに答えを迫られている。
考えこんだり、言辞を弄することによってではなく、
ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。

生きるとはつまり、
生きることの問いに正しく答える義務、
生きることが各人に課す課題を果たす義務、
時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

なぜ、生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える。


続く・・・



ヴィクトール・E・フランクル「夜と霧(新版)」みすず書房より引用



ちなみにご存知のとおり、「夜と霧」はナチスドイツの占領下にあった
アウシュビッツ強制収容所を経験した心理学者である著書の、静かな書だ。



解離障害

2008年09月03日 18時27分22秒 | 医療





なぜ、それに気づいたのか・・・というと、
独り言、しかもそれが堪能な英語であるために「いつの間に?」ということになった。

もともと「自分の傾向を知る」ためにはじめたブログだったが、
夢と現実の境界がない私にとって、
「本当の出来事なのか、つくりものなのか」は
よく質問を受けてきた。

実際に某出版社編集長にも「なにを考えているのか頭をかち割ってみてみたい」と
事あるごとに言われ、
「そんな風に言われても、なんと説明すればいいのかわかりません・・・」と
返答するしか私には術がなかったのだ。

解離障害という聞きなれない言葉が登場したのは、
私の健忘が断片的にしか記憶をつかさどっていないと自覚したためだ。

統合失調症との相違は
「幻覚や幻聴が自分を攻撃するものとしての認識ではなく、
本人はそれを楽しんでいるところにある」と主治医に言われ、
「これがなくなったら書けなくなるので困ります!!」と確かに私も答えている。

まさか・・・の連続だ。
自分が障害を抱えて、それがおそらく一生ものの付き合いになる確率が高まっていく中で
便利とはいえ、車社会に生きる私たちにとって恩恵と危険が背中合わせであり、
不幸にも交通事故に遭った者たちにとって、
事故は一瞬にして、人の、私の人生を変えたのだと
いまさらながらに認識させられ、ちょっと胸が痛み、目頭が熱くなった。

悔しいとか悲しいとかではなく、
得体の知れない感情とでも表現すべきなのか、
なにかよくわからないが、
メランコリーやセンチメンタルでもない領域からの指示なのか、
失恋をしたときに似た感情を持ったのは、
あまりにも美しい夕日をみてしまったためだろうか。

攻撃的な文章もたくさん書いてきた。
が、それは自分でも自覚がある。
とはいえ、オブラートに包んだ表現を好むのかといえば、
それも違うのだと思う。
私は、私の、私らしい表現方法があるのだろう。
自己満足に、傾向をみるだけに書き続ける作業は、
一生継続しても、楽しめそうな気がする。