風の生まれる場所

海藍のような言ノ葉の世界

空や雲や海や星や月や風との語らいを
言葉へ置き換えていけたら・・・

千の沈黙の声

2011年05月25日 19時21分19秒 | エッセイ、随筆、小説




沈黙の声を拾い上げたとき、
その数が千にものぼることに驚愕する。

恋人へ沈黙の声を届け終えたばかりのわたしは、
いつもよりすこし早めに熱めのシャワーを浴び、
これからの人生を想った。


北アルプスをのぞむ小さな宿、
アルペンルートを歩く散策の過程で、
白川郷の美しい景色の中から、
あなたとのことを真剣に考えてきます。
その後にお手紙を送ります、とある。


わたしがいる施設でも、
声にならない声が聴こえる。
それら千にものぼる沈黙の声を、
わたしは聴かなかったことにはできない。


あなたの役割は、
そうした声を拾い上げ、
あなたの言葉で世の中へ届けることでは?


恋人からの追伸に添えらたメッセージ。
千の沈黙の声をわたしの手で、
わたしの想いに変えて、
世の中へ届けることが、
あなたの天命、寄り添い、添い遂げる姿を
見守り続けたい、とある。


※タイトルの「千の沈黙の声」とは、
シチリアの乳児院、児童養護施設で過ごした女性が、
その過酷な日々をつづった著書、
「千の沈黙の声 わたしは施設という名の地獄で育った」
(中央公論新)からの引用です。


社、エンマ・ラ・スピーナ著 泉典子訳、税別1900円


寄り添い

2011年05月23日 05時35分05秒 | エッセイ、随筆、小説


体に寄り添うようにしてくださいね。
そうでなければ、あなたの体が可哀想でなりませんから。

とある場所へ。
わたしがメディカルスパ、セラピーをお願いするセラピストを待つホテルロビー、
どこからともなく漏れ聞こえてきた会話の中に、
体に寄り添うようにしてくださいね、というフレーズがあった。

自分の体に寄り添うという発想から、
いろいろなことが生まれる。
たとえば、こころに寄り添う。
たとえば、人生に寄り添う。
自然や地球、もっと言えば宇宙なんて規模の大きなものにまであてはめられる。
あなたの悲しみに、辛さに、苦しさに寄り添う。
ただそれらが過ぎ去るのを共に、寄り添うことは、
傷に蓋をする従来の発想からは思い浮かばない。

久しく購買意欲が湧かなかった雑誌類だったが、
わたしはその雑誌の作り手、
編集後記に書かれていた編集長のひとことに、
魂を奪われた気持ちになった。
いや、実際に魂を盗まれたまま二ヶ月が過ぎようとしている。

それはアエラが特集した今回の震災におけるもので、
わたしが感じていたもやもやとした違和感そのものだった。
震災直後から日本は頑張れキャンペーン一色に染まり、
日本中が被災者や被災地のためになにかやることに、それらを結びつけた。
実際に尽力されている方々へは本当に頭が下がる。
けれど、あまりにも美談化され過ぎているようにも思えてならなかった。

日本は頑張れる。
日本は強い国。
そのキャンペーンは、被災者からは出ない類の言葉だ。
それは頑張ることを無意識に強要する。
人間というものは、本当の苦しみや悲しみに遭遇したとき、
すぐに涙が出ないものだとわたしは思う。
わたしの交通事故被害を例にたとえると、
わたしは笑うことよりも泣くことに時間がかかった。
ようやく涙が頬をつたい、次第にわんわんと子供のように声を出して泣けたのは、
生活の立て直し方を考え、多少の安心を感じる余裕が出てきたころ、
事故から六年の歳月が流れたある雨の日曜日だった。
人間は弱さやもろさを嫌というほど味わい尽くしたあとに、
立ち上がろうという気力がエネルギーとして使うことができるとわたしは思えてならないのだが。

編集後記にはこうある。
人が絶望に打ちひしがれている時、
どんなことばをかければいいのか。
浸水してくる車内から屋根に逃げ出し、救助を待つまでの間、
3人で車の屋根で過ごしました。
雪も吹き付ける寒い夜。
祖父は「助かるぞ、助かるぞ」と声をかけていましたが、
だんだん声も出なくなり、桜井さんの腕の中で静かになりました。
低体温症でした。
彼女に対して、「頑張れ」「立ち上がろう」といったメッセージは
どんな励ましになるのだろうか。

いまは、歩みを止めてじっくりと哀しみに向き合えばいい。
精神科医の香山リカさんの言葉も印象的でした。

体に寄り添う。
こころに寄り添う。
あなたの哀しみに、辛さに、痛みに寄り添う。
寄り添うということは、責任がなければできない。
しかし、寄り添うという行動は自分の体も他者への労わりも同様に
いつの日にか歩みだす一歩を内包する力そのもののように思う。


※途中、アエラ臨時増刊号NO.15を引用しています。
そこにありました個人名を記載してありますことをご理解ください。
そして、被災者の皆様には心よりお見舞い申し上げます。
微力ながら、目の前にいる被災者である友人を支え、
他者の人生を左右しかねない重責に押し潰されないよう、
またわたしの役目を最後まで果たさせていただきたく存じます。





日本を語る前に、わたしたちが知らなければならない現実がある。
それは、東北は日本に切り捨てられてきた流れの中で、
宮沢賢治が生まれた。
原発の所在地を辿ると、地方の過疎地と重なり合う。






THE POWER パワー

2011年05月19日 13時18分17秒 | エッセイ、随筆、小説


シークレットの続編、パワー。
たまたま立ち寄った本屋の平積みを目にした。
ネガティブ全開のわたしは藁をもつかむ思いで、
そのままレジカウンターへ。

わかっている。
この系統の、自分の心持ちを変化させるとの内容を読み、
自分も実践すれば、明日が、わたしが、人生が変わるような錯覚に
しばし現実逃避を切望していることなど、
言われなくてもわかっている。

振り返れば闘病に時間を割かれた30代を思うと、
無駄に40代を過ごしたくはないと願うものの、
妙な焦りに苛まれ、最近は苦しんでいた。

そもそも無駄な時間こそが、人生の正体なのではないだろうか。
ふと、そんなことを思い、
カフェでコーヒーを啜る。
ふふふ、と笑う。
バカなことばかり考えるのが、わたしの仕事みたい。

さて、パワーの読後、
またこのテーマにて書いてみたいと思う。

いつもいつも、わたしの拙い愚文にお付き合いくださる皆様、
本当にありがとうございます。
こんな文章でお目を汚させるのは申し訳ないと思いつつも、
やはり、みなさまに読んでいただく幸せがわたしの活力でもあります。
ありがとうございます。



幸せになりたくない人間はいないだろう。

かみさまとニンゲン

2011年05月15日 19時47分38秒 | エッセイ、随筆、小説


人間が言います。
かみさまはいます。
かみさまの代わりを司る人間がいます。
わたしは人間ではなく、神の領域にいます。
だから、絶対に大丈夫ですよ、と。

信じなさい。
素直に、疑問など抱かずに、信じるのです。
布施はあなたを幸せにする徳そのものです。
一円でも多く徳を積むことで、
あなたもあなたの大切な人も幸せになることが出来ます。

人間は神ではありません。
この世には絶対と言い切る自信も根拠も神様も
そもそも存在していません。
だからこそ、自分の頭で考えを熟すことが大切です。
考えること、何気ないことを疑問に思う力こそが、
あなた自身やあなたの大切な人を護る盾になるからです。

日本の未来、原発と政治と宗教

2011年05月14日 17時16分42秒 | エッセイ、随筆、小説


副都心線明治神宮前(原宿)駅7番出口から地上へ。
すると、デモ行進の長い行列、
その光景が表参道や原宿とは似つかない異様さを含んでいたからか、
一瞬、自分がどこにいるのかがわからなくなった。

嘘はもうたくさん。
ひとや時や問題をすり替えるだけで、
本質はなにも変わってはいない。
江戸友禅の美しい色彩の日傘をさす年配のご婦人が怒りを顕にする。
日本人はどこまで無知でお人好しなのかしらね。
疑問を持つことを放棄したままだから、いつまで経つても幸せにはなれないのよ。
まずは自分の頭で考えなきゃ。
こんなことをするエネルギーがあるなら、
被災地の復興にそれを注げばいいのに。

デモはある政治政党、某宗教団体信者によって執り行われていた。
そこだけが日本とはかけ離れたような色、ニオイがした。
普段は日の目を見る類ではない人々の列を目前にして、
わたしはある種の恐怖や違和感を覚えていた。

世の中に対する憤りのような負のエネルギーは誰しもが持っているものの、
その矛先、捌け口を誤ると、他者との共存はむずかしいなる。
だから、どこかの団体に所属することで孤立化は免れるのだろうが、
自分や他者の幸せからは、ひどく距離を置く結末が待ちわびている。
わたしは一体、どこへ向かおうというのだろう。

デモのキャンペーン内容は以下のとおりだ。
1.天変地異は現政権への天罰仏罰だ。
2.原発はクリーンエネルギーだ。
3.風評被害に惑わされるな。
4.その他

原発の裏には海外からの圧力や政治的思惑がある。
利権蠢く中、
なにかに、誰かに利用されない人間になることが、
結果、自分や他者、
わたしたちのいまや未来を護ることに結びつく。
















八正道についての語らい

2011年05月08日 22時12分24秒 | エッセイ、随筆、小説


航空公園駅にほど近いあるカフェのテラス席で、
東京友禅絵師である知人と人間を語った。

こころを正しく整えること、
身体を正しく整えること、
言葉を正しく整えること、

そこから人間の器を推し量り、
自分の棲む水を間違わないようにと助言いただく。
そうしなければ、大切なエネルギーを無駄に消耗するだけだ、と。

正見、正しい知見
正思、正しい考え
正念、正しい思念
正定、正しい瞑想
正業、正しい行為
正命、正しい生活
正精進、正しい努力
正語、正しい言葉

悪行から離れることで、苦を消滅させるメカニズムを知見することからはじめる。
美しいものを描き、見えない世界を、力を、時を味方につけたいのであればまず、
八正道を日常で実践してみよう。
五蘊盛苦に振り回されないために。



意味から離れること

2011年05月08日 07時42分36秒 | エッセイ、随筆、小説


人間には意味を探し彷徨うDNAがインプットされているのだろうか。
だれかを好きになるときの意味、
だれかを嫌いになったときの意味、
これをやる意味、
これを考える意味、
生まれた意味、
生きる意味、
死ぬ意味や生まれ変わる意味までいくと、
意味のないこと、意味のない人や存在を、
糾弾したり罵声の対象にしたりできるため、
対立の構図が要因に生み出すことが可能だ。

あの人は感性が乏しく、人間的な頭のよさに欠如する。
そうして、わたしとあなた、または、わたしたちとあなたたちは違うのだと表現することで、
優性的な物言いが物事の本質をすり替えてしまうように思う。

人間はなにか意味のあることに関与していると思えるときに
自分の存在意義や
自分の無力さを強い光の中で隠し込む恍惚に浸れる。
それは熱狂が一時的に様々なものを忘れされたり、
繋ぎ合わせたり、仕舞い込むだけのことで、
そこには可視化できる意味などない。
そもそも意味だとおもっているもの自体が意味ではないかもしれない。

わたしが意味から離れたいと痛切に思ったのは
わたしの身の上に起きた出来事が土台とはなっていたものの、
今回の震災、特に原発問題が決定打となった。
人を、社会を変えるために立ち上がり、意味を探し彷徨うのではなく、
そこで一喜一憂するのではなく、
わたし自身のために、目前にいる大切な友達のために、
わたしのできることをひとつ、またひとつと積み重ねることこそが
おそらく生きることだと気付かせてもらえたからだと思えてならないからだ。

わたしに意味が必要だったとき、
わたしはその意味に振り回され、消耗することが多かった。
だからこそ、もっとシンプルになりたいと希んだのだろう。

意味から離れたい。
そこから、見えてくるもの、感じるもの、与えられることにだけ精を尽くしたい、と。

鳥たちの会話に起こされ、清々しい気分で朝を迎えるとき、
わからないものはわからないままにしていていいのですよとの教授を
ふと思い出す。
意味を探し彷徨うから、世の中が複雑に見え、騙されてしまう危うさが付き纏うのだと。























詐欺師であふれる国

2011年05月05日 09時10分17秒 | エッセイ、随筆、小説


明治以降、日本国政府は、誰かにババを引かさないと成り立ち行かなかったことを思い出す。
わたしたち交通事故被害者然り、
過去を振り返れば被爆者や戦争の被害者、
水俣病、薬害がらみ、次々とババを引かされた人たちを挙げることは容易だ。

そして、今回の震災の被災者、
もっといえば、福島第一原発放射能漏れによる健康被害は
近い将来のわたしたちに降りかかる大問題だ。
だからだろう、政府は繰り返す。
健康被害は「いま」はありません、と。

ならばお聞きしたく。
いつ被害が明らかになるとお考えになり、その責任はだれがどのように取るおつもりなのか?

詐欺師で溢れかえる国、日本。
どこをみても、見回しても、見本になるような経営者とはお目にかかれない。
先日、焼肉屋えびすで死亡者まで出した食中毒事件での会見、
責任という意味すら理解できていない者が主張する言葉は、
もはや発言の機会すら与える必要のなさばかりを露呈するものでしかなかった。

国も大企業である東京電力の経営陣も、
上記、逆キレ会見と同等であるとの見解は、多くの方々の苛立ちをみれば一目瞭然だろう。

今一度、考えて欲しい。
仕事とはなにか、を。
一流大学を出て、ブランドスーツに身を纏い、
しかし、やっていることが詐欺である場合の仕事は、
仕事と呼ぶに非ず。





光と、影と

2011年05月01日 14時55分27秒 | エッセイ、随筆、小説


可哀想に。
どれだけ辛かったのだろう、と思った。
たかが一年前に写真館で撮影した一枚の写真を前に、
この7年を振り返る。

わたし、笑うよりも泣くことに時間がかかった理由がわかる。
それは、身体の痛みに耐えるだけで精一杯で、
泣くことにエネルギーを使えなかっただけだということだ。

ESTEBANのブラウンノートというフレグランス系の香を焚く。
ひらひらと舞い上がる白煙、
愛犬がすやすやと眠りながら、時々、もごもごと口元を動かす仕草、
知人からの誘いのメール、
母との口論、
風に遊ばれるカーテンの音、
そうした他愛ないことがわたしの日常で、
すべてが愛おしく、大切で、思わず抱きしめたくなる。
ぎゅっと、まるで恋人を包み込むように。

物事には光と影がある。
その相反する存在同士が実はこの世の成りたちの最初であり最後でもあり、
生や死を考えていくときに似ているとふと思う。

だから笑いが尊く、幸せである時期を存分に味わいたいと願うのは、
この一瞬一瞬が、二度と出会うことのない出会いの積み重ねだからだと気付いた。

さよなら、可哀想なわたし。
そして、こんにちは。
去年よりは明るくなれたわたし。