風の生まれる場所

海藍のような言ノ葉の世界

空や雲や海や星や月や風との語らいを
言葉へ置き換えていけたら・・・

情報操作について

2011年11月30日 05時26分40秒 | エッセイ、随筆、小説


情報操作については、わたしは交通事故を契機に痛感させられた。
どのようなことかというと、例えばこんな感じだ。

病傷名を取り上げるとき、原因不明とされてきた○○は原因が解明されました。
治療法は○○病院の○○医師がこのようなことを行っています、と紹介。
すると、○○医師の治療を受けた患者が登場し、
先生のおかげで完治しました、と発言する。
新聞紙面上では満面の笑みの患者が掲載されていたり、
テレビでの特集では、生の声として、インタビューを受けている。
その前提は、「元気になりました」や「治った」をアピールするためにだ。
が、実際にはその治療法では快復していない。
なぜ、そのような断言がわたしにできるかというと、
病気仲間がその役割を担わされたことが過去にあったためだ。

友人曰く、何十箇所もたらい回しにされ、ドクターショッピングを余儀なくされた患者にとって
医師や医療者の理解や共感は何ものにも変え難い宝なのだという。
また、たとえ1%の望みしかない治療法であっても、
そのわずかな望みにかけてみたいとの心境が生まれる。
なぜかといえば、それだけ体調の不具合や不調は辛く苦しいものだから。
また、ようやく見つけた理解者である医師を信じ切っているため、
この医師が救世主のごとく映り、冷静な判断がしずらくなってしまう。

なぜなら、それだけ医療や医師に理解されず、
ズタズタに傷付けられ体験を皆がさせられている背景がある。
もう他の医師を探さなくていいという朗報ほど、
患者を安心させ、救済する手立てはないのだから。

その医師からお願いされる。
○○さん、今度取材を受けるので、マスメディアに出演して欲しいと。
以前よりは体調がよくなったことをお話してください、と。
友人は治療によって劇的に快復したかのごとく、誘導されたと気づかないまま質疑応答に応える。
ある部分のみを切り取り、友人が笑ってケラケラした表情であればなおさら、
受けてには「治った」印象を与える。
が、いまでもその友人は治るどころか寝たきりでいる。
その当時を振り返ると思うのは、お世話になっている医師のお願いを断れなかったし、
もし断ったり治療の悪評を発言したものなら、
病院から放りだされでもしたら、また医療難民になってしまう。
ドクターショッピングで消耗させられるのも傷付けられるのも懲り懲り。
だから協力したという。

原因不明の痛みや症状で苦しんでいるひとは世の中には多数存在する。
手術やわたしたちのような交通事故の後遺症を抱える患者は、
医学が進歩するに従い増加する。
医療側が考える命を救うことと、わたしたち患者が考える健康を取り戻すこの両者間には
解釈も双方の温度も、もっといえば目標や利益が相違するためだ。
一命を取り留めることは大切なことだが、
それとその人が生きていくために必要なことや体調の負担軽減とは別問題なのだ。
命を取り留めても、一生莫大な医療費用が必要な体では、
医療費用を捻出できない=死を意味する。

不定愁訴が主訴の場合、(症状が多岐に渡り不調の原因、自律神経に関わるもの等))
西洋医学では対応できない場合と多々遭遇する。
医師はおばけでもみるかのように、教科書どうりにはいかない取扱説明書のない患者に苦慮する。
しかも、慢性化した場合の患者は医師の不利益、
つまり、多忙の原因にはなっても利益にはつながらないため、
快復しない患者を前に、あるときは性格の問題にしてみたり、精神科受診を強く勧めたりして、
厄介払いに必死になる。

となると、もしかしたらわたしを理解し救済してくれるかもしれない望み、
医師や治療法を求めて、全国から患者が殺到する。
その分野で弱者の味方、神の手のごとく取り上げられる医師の予約
数年待ちという事態も不思議ではないのだ。

情報操作について追求するのであれば、
医療分野では手術の成功率などがいい例だ。
例えば、そもそもリスク高い患者を受け入れていないとか、
手術可能で、なおかつ失敗するリスクのない患者を入り口の時点で選別すれば、
病院側はとてつもない数字を作り出すことは可能になる。

余談ではあるが、
例えば国立職業リハビリテーションセンターが
アルバイトやパート、非正規雇用でも就職という過大解釈ありという中では、
あり得ない数字が就職率として算定される。
また、国立障害者リハビリテーションセンターがセンター内での事故隠蔽をすれば、
ここで発生している事故は、数字上では「ないこと」として、
広く世間一般に向けた印象操作が可能になる。





































国立障害者リハビリテーションセンターについて②

2011年11月28日 19時04分31秒 | エッセイ、随筆、小説




社内での事故や怪我は労災となる。
社内だけに留まらず、通勤に関してもそれにあてはまる。
学校での事故や怪我もそれ相当の対応となる。
が、ここ国立障害者リハビリテーションセンター内での転倒事故に関しては、
3週間経過した現在でも、なにひとつ対応をしない。

日本という国や国民性の特性や縮図であるのかは知らないが、
真摯な対応ができないのであれば、こんな施設は潰してしまえばいい。

税金がどれほどかかっているのかは後日お知らせするが、
少なくとも、厚生労働管轄の、日本一だと謳われるリハビリテーションセンターの現実がこれならば、
国として必要な施設ではない。

無駄に税金が使われるのであれば、ここの予算を東北の復興へまわせばいい。
なんらかの不自由さを請け負ったわたしですら強くそう思うのだから、
どれほどずさんな対応であるかは、想像容易いでしょう。













国立障害者リハビリテーションセンターについて

2011年11月25日 18時58分12秒 | エッセイ、随筆、小説


もし危ないと思うのであれば、四つん這いで移動してください。


入寮時、車椅子専用のお風呂を使用するように強く言われた際、
立位であるわたしが怪我をした場合の責任の所在は?と質問したことを思い出す。
担当者であるケースワーカーは返答に困っていたが、
こんなずさんな対応がまかり通っていることがまず信じらなかった。
障害者になるということは、こういうことなのか。
障害者といっても様々なので、権利や人権などを声高く叫ぶつもりはない。
が、疑問を払拭できない出来事があまりにも多くて、
とにに税金の使い途、福祉の闇深さに辟易させられるのだ。

ここは国の、障害者リハビリテーションセンターである。
だれしもが想像するだろう、
障害者に配慮したシステムが導入されていると。

先日、わたしは共用部分である場所で転倒し、手足を骨折した。
こぼれた水に気づかなかったわたしにも落ち度はあるが、
こぼれた水を拭けない利用者との共同生活自体が、
そもそも無理の押し付けに感じてしまうこの頃なのだ。
幾度となく危険については言及してきたが、
改善はもとより、話を聞くまでに至らなかった。
また利用者が騒いでいる。
風呂場で転倒し何針も縫った利用者がいたり、
イジメによる車椅子転倒で頭部強打した利用者に対しても、
まともな対応は皆無のまま、今日にいたるわけだ。
確か、去年は食中毒被害を出しながら、
その後も衛生管理は万全ではなく、
賞味期限切れの食品は出回る始末で、気づいた利用者のものだけを回収している始末。
ここでの論理は「自己責任」なのだそうだ。

利用者の中には前科者もおり、
薬物乱用履歴のある者も少なからず在籍している。
当然のことながらこうした情報は、
入寮後に利用者から注意事項として聞かされて知ることになる。
部屋に侵入してこようとした輩がいたが、
もし襲われても「自己責任」で、センターには一切の責任はないのだそうだ。

センター内で怪我をしたわけだが、
センターとしての対応はまったくなされていないのが現状だ。

鷲田清一著書、大人のいない国を読む。
障害者リハビリテーションセンターでは日本一だと聞く施設の内情は
この国の縮図か、この国の本来の姿か、この国の狂気が内包されている。
この国で夢や希望を望む者たちが、本当は無知なのだと思い知らされる。
そもそも、この国には大人などいないのだから。


※記録として事実を残したいとの意向があり記載しました。
暗い話に終始し、申し訳ありません。
























赦す

2011年11月21日 09時49分24秒 | エッセイ、随筆、小説


あなたが意味にこだわるというのならば、
そっと告白しましょう。
わたしたちが生まれてきた理由は、赦すためです。

魂に刻まれた記憶を、
ネガティブな思いを、
些細なことで自分や他者を傷つけたこと、
いまも過去も、もっと以前から、
もしかしたらあなたの名前がいまとは違うかもしれない遠い日へ遡る。

赦す。
あなたを抱きしめて欲しいのです。
あなた自身が、かけがえのないあなたの心身を、存在を。






浄化された朝に

2011年11月18日 07時19分38秒 | エッセイ、随筆、小説



朝が浄化される光景を眺めていると、
「あっ!!そうだったのか!」と気づくことがあった。

継続する時間、毎日の中で、朝は昨日からの連続・・・と見せかけつつも
本当は切り離された時間なのだということ。

過去からも、昨日からもなにひとつ制約を受けない中で、生まれ変わる時間。
だから、誰でもが「新しい自分」に生まれ変われる。
新しい自分と出会える。

落葉樹の遊戯、鳥たちが朝の訪れを知らせる。
岐阜の街並みを歩き、この場所から生まれる風と語らい、自分の矯正に励む。

高山線に乗り込む。
駅員と他愛ない会話を交わし、優しく響く方言にこころ奪われていく。

浄化された朝に、生まれ変わった「新しい自分」がさまざまなひとや出来事と
ユニゾンを奏で、魂を震わせる。

生きとして生けるものすべてが愛おしい。
なぜなら、あなたはわたしだから。
ありがとう。





放射能と日本人消滅論

2011年11月16日 22時07分49秒 | エッセイ、随筆、小説

あれから10年の歳月が流れた。
東京電力が放射能を垂れ流したせいで
日本人が国土から消滅した。
世界中に非難したわずかな日本人がいるとはいうが、
日本人だとは口が裂けても公言できないという。
それはなぜかというと、
世界の爆発的人生増加を懸念した一部の指導者にとって、
一連の原発事故は好都合だったというのだ。
そして、わたしたちは消滅したのだ。

もし仮に生きていたとしよう。
不安を煽るわけではないが、
なぜかこの時期に議論もせず参加表面したTPP問題がかたやあり、
震災復興とは口先ばかりで、具体的な支援策などなにも行われない。
医療が海外から輸入されるように急いだひとつには、
日本人すべてを網羅した皆保険制度を崩壊へ誘導する目的が強かったのだ。
しかも、加工食品に混入した遺伝子組み換え食品によって、
ガン発症率は1.5人にひとり、
ほとんどの人の死因がガンということになった。
平均寿命は56歳、
稼ぎすべてが医療費に消える毎日を実感したところで、
ガンからは逃れることはできず、
また、保険制度や医療に追い込まれていくのが庶民の行く末だ。

わたしたち日本人が生きていたなら…
いまさら考えたところで、
わたしたちはすでに歴史上の人種に過ぎないのだ。

神よ。
なぜ、東京電力を助けたのだい?






オウム真理教事件と殺人犯の接点

2011年11月11日 21時30分37秒 | エッセイ、随筆、小説


あなたの視線の先に映る世界は何色なのだろうか。
そして、あなたが背負う事件の真相や闇を窺い知るはずもなく、
わたしの目前にいるあなたはあなたである反面、
あなたではないような印象を感じてしまうのはなぜだろうか。


殺人犯というイメージは皆無で、極悪非道さやその過酷な過去を微塵にも匂わせない無邪気さは
あなたのおそらく一面であるのでしょう。
それとも、人として生きる道とようやく出会えたというのか。
12年の刑期を終え、あの事件の真相を追求するどころか、
遠い昔話のように、風化の運命を辿る。
あなたの視線の先にはどのような世界が広がっているのだろうか。


在日韓国人の友人が一冊の本を差し出す。
「これ、前に言っていた在日世界を緻密に取材した本」と。
ブックカバーの下から見えるタイトル、
コリアン世界の旅 著者 野村 進。


わたしが在日世界をライフテーマにしていることを知った友人は、
日本人が知らない現実を知ってほしいと思ったのだろう。
確かにわたしが今まで縁を引き寄せてしまうコリアン世界よりも過酷な現実が記され、
また、わたしたち日本人が何時の間にかすり込まれている在日への差別感情を
冷静に考察したいとの思いが浮標の役割を果たす。


そして、その本の中に登場する友人は通名ではなく、
半島系、つまり、韓国朝鮮人の名前で登場するのだった。
しかも、オウム真理教の村井氏を刺殺した犯人として。


人を刺し殺す感触はどのようなものなのだろうか。
自分の意思がおよばない世界で生きなければならない背景には一体、
なにが動き、なにが消され、なにをうやむやにしようとした意図があったのだろうか。
殺人犯という過去を持つ友人がわたしの目前にいる。
人生や運命というものを思う。
わたしの頬をつたう涙には、どのような意味があるのだろう。
雨音を聴きながら、しばし自問する。






イケメントランプ

2011年11月04日 23時13分12秒 | エッセイ、随筆、小説


イケメンの写真を集めてトランプにしよう!
と、向かった先は新大久保だった。

母と娘がコリアンタウン新大久保で食材を買い出しするというので同行することに。
ヨン様の等身大マネキンに抱きつく母を他所に、イケメンの物色を。
韓流はわかるような、わからないような…レベルのわたしだが、
世界共通、やっぱりいい男は眺めていたいと思うもの。

俳優の写真を興味本位で眺めていると、
タイプのイケメンがわんさか出現、結局のところ韓流の罠にはまる(笑)

イケメンに癒され、ニヤつき、幸せ気分に浸かる。
あ~~~
オバさんの仲間入り、もしや? もしや?(笑)



※写真と記事内容はまったく関係ありません。






インナービューティー ワークショップ 青山

2011年11月03日 12時25分58秒 | エッセイ、随筆、小説


病人の気持ちがわからんと。
癒しだかなんとか口先で言うのは簡単でもな、
本当にひとの気持ち、身体、人生に寄り添うってことは、
壮絶な人生を送った者でなきゃ。
そのくせ、誰よりも爽やかに涼しい顔をして、
苦労なんぞあたしは知りませんという雰囲気なら、そりゃ本物だがな。
普通や平凡という呼称をひとは使いたがるが、
ここで生きているひとは、だいたい普通で平凡な人生など送れないっちゃ。
お約束事、お役割事、お決まり事。
さぁ~てと、ひと助け、ひと助け。



インナービューティーの追求をライフテーマにしているひとりの女性がいる。
青山でワークショップを開催するとの連絡が入り、
今夜、合流することに。

彼女が日本はもとより、世界各国で幸せに生きる人を見続けた結果、
ひと助けというキーワードにたどり着いたと言う。
内面の美というと、曖昧で、解釈がいかようにもできそうだが、
幸せや自己実現というある意味での人生の成功を突き詰めていくと、
わたしたち人類の壮大なテーマのようで、こころ踊り出す。


さ~てと、ひと助け、ひと助け。