試合が終わった。
結果はPKでの敗退となったけれど、
日本人が持っていた団結力をみさせていただけた試合は
夢や勇気に気付く機会となって、
私は感動しなながら試合観戦に釘付けとなっていた。
ある選手にメールを送った。
感動をありがとう。
私がなぜ言葉にこだわるのか・・・に続き、
ある大手出版社社長が指摘した「書く本質への鋭い考察」の一部をご紹介します。
私が交通事故に遭ってから5年7ヶ月、
いまから3年半くらい前でしょうか、
友人が「読書も書く作業も好きだし、ブログで表現したら?」と提案されたのをきっかけとして、
文章を書くことへ意識するようになっていきました。
それは楽しくも厳しい道のりでもありました。
どうして厳しいのか・・・というと、まず自分の才能のなさを突き付けられる作業で、
しかも、多少でも感情を使い、動かし綴るので、
そこに記憶障害や失語という障害が追い討ちをかけ、書く作業は一層困難を極めていきました。
でも、書きたい。
書くことで、表現することで、
それが私が生きているという存在を肯定してくれる行為なのですから。
(愚文を目にしなければならない方々には本当に申し訳なく思っております。m_ _m)
*
私が弊社の代表になり三年が経ちました。
思い返せば就任直後初めて自費出版の世界をみて、
いちばん驚いたことはその刊行点数の異常な多さでした。
案の定、大手といわれていた一社はその後しばらくして悲惨な末路を辿り、
純粋に自費出版を望んでいるたくさんの人々に不信の芽を植え付けました。
はたしてこのような従来の自費出版の形態が健全な出版といえるのだろうか、
構造的な問題があるのではないか、
改めて抱いたそんな疑問から私たちの新たな取り組みは始まりました。
社内で議論を尽くした結果、至った結論は極めてシンプルなものでした。
「良い本を作れば、周りは必ず応えてくれる」。
そして誓ったのです。「日本一、質の高い自費出版本を出す会社にしよう」と。
その後自費出版を希望する多くの著者の方々に出会いました。
そこで改めて感じたのは
「書かざるを得ない何かを抱えて生きている人たちがこんなにも多いのだ」ということでした。
人生の終着点が死である限り、私たちはみな不安、絶望、恐怖を背負って生きています。
その思いに対処する方法は人それぞれですが、それらと向かい合い、思索し、
その痛みを少しでも和らげる行為のひとつが「表現」なのです。
逆をいえば何の不安もなく、十全に生きている人に表現は必要ないでしょう。
私たちの仕事は皆様のそんな「心の在り方」を文章という形に置き換える行為のお手伝いをすることです。
しかしこの作業は生易しいものではなく、片手間にできることでもないのです。
お互いの決意と信頼が必要であり、当然量産できる類いの仕事ではありません。
単に紙に文字が印刷され、カバーが付いたものが本ではないのです。
私が本当に残念に思うのは、安易な自費出版本が多いことです。
もう少し踏み込んだ編集という工程を加えればいいものになるのに、そこを端折る。
これでは折角の作品の芽を摘み取っているようなものです。
その証左が夥しく出される自費出版本の数です。
重ねてもう一度言います。
人の精神を形にして世に送り出すのはそんなに簡単なことではありません。
朝から相当なテンションで電話をかけてきた彼が疎ましく、
「ごめん、疲れているんだけど」と掠れた声で伝えた。
彼が姪っ子の運動会に顔を出した昨日の出来事など私の関心事ではなかったのと、
頭痛がめきめきと頭を締め上げていたので、
「悪いんだけど、今、その話を聞かなければならないのかな?」と続けた。
私の機嫌が悪いことが癇に障ったのだろう。
私の脳の禁忌事項を伝えていたはずなのに、いつのまにか、
彼が私への不満を列挙しはじめていた。
ときに声を荒げ、えんえんと続きそうな政治家の無駄な演説のようだった。
なんどか溜息が受話器を通して彼の耳にも届いているだろうと思った瞬間、
「高次脳機能障害は君の問題であって、僕には関係ない」と言った。
それってどういうこと?と心の中で思った。
あまりにも唐突な出来事に、私は言葉を失った。
私がなにかを言うと、その数倍の、津波のような言葉の多さに、
私はすぐさま呑み込まれてしまう。
転々とする話題が苦手なことや、声のトーン、大きさなどが脳を直撃するために、
聞いていることがやっとという話題があることは、以前に彼へ説明したはずだった。
けれど、人間というものは、都合の悪いことは忘れてしまうらしく、
障害の禁忌を説明しない君が悪いのであって、僕のせいにするな、と。
「高校生じゃあるまいし、大人の男の言うことじゃない。格好が悪すぎる」
なぜだろう。
私の体調に障るために、なにかを言おうとすると遮られてしまう。
なぜ、聞く耳をもてないのだろう。
なぜ、言われたことを一度腹の奥底に沈めて、じっくりと考えることには結びつかないのだろう。
政治家の無駄な演説と携帯が壊れたのかと信じてしまうほどにしーんと無言が繰り返されたのち、
「とても残念としかいいようがない」とストレートに打ち明けた。
続けて、
「疲れてしまっているのよ。体中の痛みに耐えることもさることながら、
あなたのこれからの生活やビザの期限や解決できないでいる問題を考えるだけで
疲弊していく自分がいる」
似たような喧嘩を繰り返してきたものの今回が違うと確信するのは、
このまま忘れてしまうのではないかと懐疑する余地もなく、
本当に彼や彼と過ごした日々を、私は忘れてしまう瞬間があることだ。
信じがたいだろうが、彼の名前も思い出も忘れてしまっていく。
それらを記憶のヒダにしがみつかせても、自分でも気づかないうちに、
それが現実だという事実すら探し当てられないままに、
消去されてしまうかもしれないと思えてしまうから怖い。
脳の禁忌を踏んだことによって、反撃に出たのだろう。
記憶は存在そのものを消し去ることで、あったこそすらなかったものにできる。
それは相手にとっては、とても悲しくつらい出来事になる。
いつからだろう、
ポジティブに、前向きに・・・・・という言葉の呪縛に囚われてしまったのは?
心の自由を奪われたかのように、
ポジティブ・前向きでなければまるで生きる資格がないみたいだ。
それが病者・障害者の中にも蔓延していて、
どこまで自分を痛めつけたら気が済むのだろうかと思ってしまう。
毎日ジムへ通い、まだ何か出来るだろうと自分の可能性を見出すことに躍起になる。
でも、心身は悲鳴をあげている。
その声になぜ素直に耳を傾けてあげられないのだろう。
もしかしたらその呪縛に囚われてしまっているのならば、
呪縛から解き放つことこそが、健全な社会への第一歩ではないか。
ポジティブ・前向きも、ネガティブ・後ろ向きも、2種類あることに気付けると、
きっと気持ちは楽になるはずだ。