風の生まれる場所

海藍のような言ノ葉の世界

空や雲や海や星や月や風との語らいを
言葉へ置き換えていけたら・・・

縁とは・・・・・・

2007年10月24日 00時04分44秒 | シャーマンズボディ






今日で38歳になってしまった。

ちぇっ、とでも舌打ちしたいと思いつつも、

実ははやく40歳を越した自分と早く会いたいのだ。




今日は自分の疾患について、

免疫学を仕事としている某省の友人と通院後、ご飯を食べた。

私は今日まで彼は政府関係の研究者だと聞かされていたのだが、

獣医であることを今日、突然、なぜか聞かされたのだった。

うちに男の子たちがやってきたことなど伝えていないというのに、だ。

いろいろな動物を、もちろん、人間をも含めたそれの扱いは、

ある種、免疫の設計における相違を確認することができる。

しっかし、バースデーサプライズにしては符号し過ぎ。






とはいえ、

今読んでいる「聖なる予言」でも偶然が必然であると感じる出来事が多々起こる、とある。

確かに符号や不思議なご縁に恵まれ、私は本当に助けられているなぁ~と思う。

思わないと絶対に罰があたる。

縁とは本当に不思議で、糸が結ばれたり、育まれたり、絡まれたり、切られたりしながら、

この現実の世界を、見えない世界が動かしていく。

それが毎日の正体であり、だからこそ、注視または着目するに値すると私は考えている。

 

 

お母さんは明日から、点滴ですら外出するたびに後ろ髪を引かれる思い、

娘を育てたときのようにこの子をひとりで置いていくとき感じるのかと思うと、

小さな命の重さから「今でしかならないものの存在」を嗅ぎ取ってしまうのだ。

この子との縁もそう。

今日の獣医であった友人とも。

他の多くの方々とのご縁は「今でしかならないものの存在」であり、

そこからでしか私は救済されることも知恵を与えられることもなく、

また、成長することも不可能だったと今日つくづく、一日中考えていた。








縁とは不思議だ。

けれど、それは本来不思議なものではないとも思う。

人生という引かれた線と重なり合うものが縁となり、

平行である者とはいくら毎日顔を突き合わせても縁として育めないものの方がおそらく多い。








少し頭の中が混乱しているが、

この子が甘えてきて、お母さんをしている自分に母性が芽生えてくると、

育てあがる娘とはまた違う、愛情や責任を感じる。

 

 

 

縁とは・・・・・・・

その答えなど今は知らなくてもいい。

縁を育んでくださった方々が元気で幸せでありさえすれば。











聖なる予言「私的事情」

2007年10月21日 09時27分56秒 | シャーマンズボディ









私の信頼するおしゃれな街で開業をしている主治医と某大学病院の教授の顔が交互に浮かぶ。

共通する彼らへの信頼の根底には“勇気”“責任”がキーワードとして

私の髄液内で浮標する。







検事は言った。

「事故前に責任ある生活をしている人とそうではない人では、

罪の重さが違ってくるのですよ」と。

私の空っぽでしかない頭では理解しかねていると、それに気付いたのか、

「責任ある生活をしていない人は事故や事件を起こす確率が非常に多く、

それを正さないための結果として、被害者を生み出していくのです」と言った。







確かに、と思う。

加害者になった方々が潔く罪を認めたという話は、私の周囲では聞かない。

私の場合もそうだった。

自分の生活背景や仕方ないなど答えにならない言動を繰り返され、

あげく、文句があるなら裁判でもなんでも起こせ、と怒鳴られ、電話を切られたのが最後だ。

そうした一連の出来事の詳細を検事は緻密に証拠として私に聞き取っている。

何度も何度も電話連絡をくれ、気になることは気になったときに、

納得のいくまでその問いの背景にある理由や、それがなぜ必要になるのかの説明を加え、

私を安心させてくれる。

この人と共に闘っていくのかと思うと、初対面で私に厳しいことを突きつけ、

どの程度の心理状態で、どの程度の内的強さを持ち合わせているのか、

つまり、裁判に耐えられるか否か、

その裁判が金銭目的でやるやらないの判断になるのかを見極める作業として、

刑事の判断が民事にも影響を及ぼし、全面戦争となり、あなたの補償額が軽減する、

または、逆に訴えられる覚悟はありますか?との質問に対して、

来週までの返答の猶予を与えるから、考えてみなさい、と言われた。

私は答えるだろう、補償の減額よりも嘘偽りのない事実をつきつけ、

少なくともサンデードライバーではない車の運転を糧とする方が起こした事故であり、

その被害者をどのように取り扱い、その後の被害を重篤に与え、人生を左右させたのか、

それを私は法廷で訴えたい、と言うだろう。

私のためではある。

けれど、今後、被害者になる方々の役に立つような前例を残しておきたい、と。

 

 

 

聖なる予言、

私的事情を動かし、私の勇気も試されている。













聖なる予言

2007年10月20日 19時49分18秒 | シャーマンズボディ








カフェの窓側、

木漏れ日が銀色のフレームに弄ばれるみたいにペン先が紙上をミラーボールの輝き、

きらきらと目映い光を放つ。

それを見ている私は魔法の世界へ迷い込んだアリスのよう。

ゆらゆらとした光は氷が浮き沈みする水面がそこから屈折し壁へ反射すると、

またそれは違った世界を醸し出す。

七色の虹をつくり出したり、ジャズの流れる店内で心は旅をはじめる。

ここにありながら、ここにはいない。






改革は「第一の知恵」からはじまる。

この知恵は最初は必ず何かを追い求める感覚となって、

無意識のうちに表面化してくる。

生活の中で、今までとは違う、もっと強烈で、勇気の出るような一瞬を味わう。

でも、この体験が何なのかも私たちは知らないし、

どう持続すればいいのかもわからない。

だからそれが終わってしまうとまた平凡な日常に戻るけれど、

なんとなく不満で、何かを追い求めるようになる。







また、相手が自分の世界に住むように期待して

自分のやりたいことに必ず参加させようとすると、エゴの衝突が起こる。







写本には主導権争いのために男女も同じ人と長く付き合うことができなくなるだろうと

紀元前600年に書かれたそれには記されている。

改革は、20世紀の最後の20年、つまり、1960年ごろから徐々に始まる、と。






現代社会のほとんどの病気は、

この追い求める気持ちに原因があるけれど、

これは一時的なものでいつかは終わると覚えなさい、とある。

最終的には「自分が何を求めているか?」、

より深い充足感を与えてくれる体験が何なのかに気付く。

それが完全にわかったとき、私たちは「第一の知恵」を獲得する。

”偶然の一致”に気付いたとき、それははじまる。







人生の神秘という言葉に私は釘付けになった。

チョコレートケーキを最後の一口だけ残し、

人生の神秘の真っ只中にいる自分こそが神秘であり、すでに第一の知恵、

つまり、偶然の一致が毎日のように繰り返される日々を過ごし、

他者との知恵の交換によって、自分を護る術、自然やその法則を知り、

今という私の立ち位置がある。

体験こそがその証拠となり、結果が証拠の後押しをする。







シーフードのぺペロンチーノがテーブル横を通り過ぎたとき、

風と食欲をそそる香りが私のとなり、空いている椅子に腰をかけた。

臨海のレベルに達するまで、この偶然の一致に気付く人は数を増やし、

次の世紀がはじまるころ、つまり21世紀の現在はすでにその中にある。







続く・・・・・・








参考文献 「聖なる予言」 角川文庫



※この書籍をご紹介くださった方へ御礼申し上げます。

 素敵な本のご紹介、ありがとうございます。今後とも、宜しくお願いします。

 

 




 


Body Life

2007年09月06日 01時50分28秒 | シャーマンズボディ








すべては起こるべくして起こり、

最も抵抗ない道を波に乗って進んでいくように感じられる。

目まぐるしくさまざまな出来事が起こっても

何もしていないように感じられる。

老荘思想ではこれを『しないこと、not doing』

あるいは、無為と呼んでいる。





シャーマンズボディより







生理がいつもよりすこし早めに体を浄化する。

タイ自体の天候は悪くはないものの、

早朝の頭痛と頚椎痛は日本よりひどい状態に陥ってしまっている。

 





そういえば、なのだ。

というか、やはり、とでも言うべきか。

オリエンタルホテル・バンコクが火災だとホテル従業員から聞いた。

日本人観光客も煙を吸って軽症だというものの、

病院に搬送されたらしい。

確かに、サイレンの光が未明に窓外を走り去っていき、

私は彼を思ったのだ。

まさに彼自身の仕事がそれだからだ。






予感は裏切らず、やはり私の行く場所や行こうとしていた場所、

行ってきた場所に何かが起こる。

オリエンタルには火災が起こる数時間前、

夕食後に立ち寄ろうとしていたことを、ふと今思い出した。

南房総のシャーマンは言うだろう。

あなたは守られていますから、大丈夫ですよ、と。








今日は明日の手術に備え、

彼とシンクロしている私自身が落ち着く時間を過ごそうと予定した。

早朝エステへ行き、その後、ホテル近くにあるネイルサロンへ、

外側が美しく仕上がった頃、手術を控えている彼から

「千疋屋の巨峰を美味しくいただきました」というお礼のメールが届いた。

それは術前ではなく、術後の、下を向いたままでも食べられるように、

店の人にすぐに食べられるように下準備してもらっていたのだ。

美味しく食べてくれたのなら満足です、と返信に宛てた。

思っていたよりも落ち着いた印象を持て、私も安心できた。








BANYAN TREE HOTELの最上階にある

OPEN RESTARANTへ行き、

夜景を見ながら食事をした。

急に動悸が激しくなり、私は会社の方々よりも一足先にホテルへ戻った。

というのも、ドレスコードも会話も日本人の恥をさらすようで、

手術前日の彼を静かに思う時間には相応しくない、

そう思ったのが動悸の理由だろう。

私たちの席近くで商談をしていた日本人には怪訝な表情を浴びせられ

私は謝罪するしかなかったのだから。

こんな素敵な場所で、下ネタ以外の会話ができない人たちは

私だって軽蔑に値する。

いや、いい年齢を重ねているのに、と思うのだ。

セックスの数だけを生きがいのように、

女を物同然に扱い、排出することに取り憑かれてしまっている人たちは

私には動物以下に見えてしまうのだ。

先進国の性のしわ寄せも、それ以外の国の女性が行っているとしたら、

私は同じ女として、正直言葉がないのだ。

彼らはかわいそうなことに、満足するセックスを、

愛する女と交わした経験がないものと想像容易い。







あと数時間後に開始する手術に備え、

私も準備をするとしよう。

そして、彼や彼を執刀する主治医のチームは奇跡をもたらすだろう。

彼の笑顔が浮かぶ。

ありがとう、という声が聴こえる。










シャーマニズム・イニシエイト(加入)

2007年09月04日 14時17分41秒 | シャーマンズボディ







朝4時に目覚める。

しばしバンコクの朝、東側の空が白んでくる光景を眺め、

今日がはじまる瞬間を私は祈りを捧げるために費やしている。

5時からはじまるカフェで何杯ものコーヒーを飲み、

ボーイたちと他愛ない会話を楽しみ、

読みかけの本のページを開き、

それをめくり、気に止まる言葉をノートに記す。

そして、あなたを思う。






短い言葉だけが無機質に届く。

大丈夫、心配いらない、おやすみ、入院完了など。

けれど、あなたも私を思っているわ。

その中に、背景に隠された思いが痛いほど伝わってくるのだもの。

だから私は鼓動が高鳴ってしまい、

激しい動悸としてあなたとシンクロしているの。





自分に必要な力を与えられるため。

だから、一度、死を経験することによって、

あなたは以前にも増して十分に生きることができる。

そして、私も。





※神様(友人)、ありがとう。

 私はあなたの言葉に支えられ、そして、救われているわ。

 私がタイにいても、あなたとも結びついている。

 国境も時差もそのすべてなど関係ない世界で、私たちは生きている。

 いや、生かされているのね。

 ありがとう。



 


カエラム

2007年09月01日 08時06分53秒 | シャーマンズボディ

 

 

 

カエラムとは、

「空」あるいは「天」を意味する。

精神的な状態が身体と結合された後、

周囲の世界と結び付けられる。

すべてが一になる場、一になる世界に共存する。







生と死をみつめたこの3年間の日々は、

自分自身の痛みを体現しているからこそ、

人はあなたを求め、

あなたに話を聞いてもらうだけで安心を取り戻し、

救われていくのではないでしょうか。

 



その3年間こそがあなたの人生への影響であり、

今後の導きとなり、恩恵とも結びついているのでしょう。

あなたがそれを与える側になりつつあるのだと思います。

快方はそのお知らせに過ぎません。








タイへの渡航を控え、静かな週末を送る予定だった。

ところが関西からある会社社長が餞別を渡したいとの連絡を昨夜もらい、

今日、お会いすることになった。

そう何度もできることじゃないから今回は甘えなさい、と。








友人の大手術がタイ到着2日後であるため、

早速、昨日のうちに病院へメールを送った。

その病院は地方にありながらも画期的なシステムを導入しており、

患者宛や担当医師宛にメールを受付、

それを本人に渡してくれるサービスがある。

旦那でも彼氏でもないが、病院という場所に一抹の感情を持つ私は、

入院翌日、手術前日にお見舞いの品が届くように手配した。

主治医へも送ろう。

ご挨拶とお願いを手紙に認めようと思うが、

私が今まで医療にかかってきた経緯を書き記せば、

きっと、理解してくれるだろう。

誤解ではなく、理解だ。





たまたまというか必然というか、

執刀医である主治医は整形外科頚椎専門医でもあった。

私は脳神経外科の主治医と相談して、

この人を整形外科医側からみたセカンドオピニオン医師に選ぼうと考えている。

何かメッセージを感受するのだ。

その内容はよくわからないけれど、

自分中心の視点から、

自分も参加者のひとりでしかないという視点への根本的な転換が、

ここに隠されているように思えてならないのだ。








痛みを持つこと、痛みを知ることによって

カエラム(空や天)へ一本の道筋ができたのではないか。

私は子供の頃から決して平凡な人生など送ってはいないが、

交通事故、処理、医療、家族、健康、人生、目標というテーマは、

この世のすべてを内包し、私にとって辛く苦しい時間ではあったが、

素晴らしい贈り物をしてくれたとも思えるようになった。








自分のできることをさせていただく。

自分の持っているものを差し出させていただく。

それが道となるなら、私にはそれ以外の道などないのだろう。







※一部、シャーマンズボディの内容を使用している箇所があります。

 

 



 


男たちへ、見栄ではなく意地を

2007年08月29日 13時37分59秒 | シャーマンズボディ







男に限ったことではないが、

今日はあえて「男」に焦点を当てて話したいと思う。

それは最近の男には意地がないというか、意気地ともいえるのだろうが、

相手の都合で私を呼び出しておきながら、割り勘で・・・と言った言葉に、

ひどく私が驚いたことから端を発する。






割り勘が悪いということを言っているのではなく、

年上で、稼ぎも私よりも上で、相手の話を聞くために時間を要したことが、

割り勘・・・・・という一言で、私は「後悔」という二文字が脳裏をぐるぐると渦巻いた。

この人は銀座に勤務している。

誰もが知っているビルの管理会社だ。

彼の目的は「相談」ではなく「私」であることも最初から読めていたことだった。

だからはっきりと面と向かって言わなければ、

銀座に出入りできる自分ではなくなるような気がして、あえて時間をつくったのだ。






お金をかけずに、いや、お金をかければというものでもないが、

女遊びをしたい、既婚者でも独身のように遊びたいなど、あまりにも虫はよすぎないか?

私には男のあしたが見えてしまう。

金を追いかけても金に潰される。

金に追われても金に潰される。

資本主義は自由だ。

だからこそ残酷で冷酷なことを忘れてはならないのだ。






40代50代の男より、私には年下の男の子たちの方が有能に見える。

それは若さという特権を生かし、感性を研ぎ澄ませ、

自然の流れをじっと眺めていることが、彼らには出来ているように映るからだろう。







見栄を張る男は5万といる。

ただし、意地を張れる男がどれほどいるというのだろう。

江戸に縁のある場所では、よくそうしたことが話題にのぼる。





某会社の社長なんですがね、

昼食代のソバ代まで領収書を切るんです。

そのときは美味しいとおっしゃってくださるのだけれど、

仕事を離れると、自分のお金では絶対にここにはきませんの。

自分のお金を使わないということは、それで男の程度がわかるというものです。

うちとの縁もその程度なのだと思うようにしていますが、

それでも意地というか人情というか、ソバ代くらい、自分で支払わない根性が

私たちには非常識に映るのです・・・・・・・






私も同感なり

 

 

 


シャーマニズム・死への行進

2007年08月19日 14時21分41秒 | シャーマンズボディ






人間の業とでも言うべきか。

私はそのほかの言葉を今は見つけることができずにいる。

2年半振りに夜の新橋へ行くと、

うつろな目をした灰色に染まった何人もの中年女性が路上生活をしていた。

一瞬、インドか? と自分の目を疑った。

けれど、表示された新橋駅の文字、銀座のネオンを確認し、

やっぱりここは日本なのだと思うと、悲壮感と絶望が漂う街の臭いに

一瞬、吐き気を覚えた。

めまいがして、信号を待っているわずかな間ですら長い時間に感じられた。





インド・オールドデリーの喧騒の中で、時間の止まった場所がある。

そこには乳飲み子を抱えた女性が、母乳などでない枯渇した胸を赤子に吸わせ、

うつろな目をしてどこをみるわけでもなく、

焦点の合わない視線を町へ投げ、ふと思い出したように手を差し出す。

私にも生きる権利はあるのだと、

その指先からわずかながらの主張を、恵みを掌にのせるために、

その一瞬だけに生の力を込め、使い果たすようだ。







そこを行き交う13億のうちのどれくらいの人間の足や膝にぶつかるたび、

倒れたまま起き上がる気力も失せた状態で、赤子も泣く力がない。

そのためか、私は死を身近に感じてしまう。

生きている人間から死を感じることなど日本にはかつて出くわしたことがない。





見て、廃人ね・・・・・







自分でも無意識に発した言葉に友人はひどく動揺し、その後、激怒した。

生きている人間に向かって、

この国の現実に唾を吐くようなことを二度と口にするな。

ヨーロッパ系の友人と、その後、3日もの間、

言葉を交わすことなく過ごし、私は毎日のようにオールドデリーに通った。

結果、一ヶ月間、オールドデリーへリクシャーを走らせたのだ。

この世を、人間を、業を知るために。








混沌とは何か。

天地のまだ分れなかった状況の臭いがインドには残されている。

そして、混沌とは相違する力が、日本にも押し寄せてきたのだ。

それを多くの人は目にしながら、現実を直視せず見過ごしている。

それを感受してしまったのだろう。

何かをする気力も失せ、私は腹底から吹き上がるマグマのような力と

格闘することになってしまった。

自分であり、自分ではない状態。

ブログや文章を書けなかった理由は、きっとそこにあるのだ。

業に触れると、感受する力の勢いが強過ぎるせいで、

自分のバランスすら失ってしまうようだ。








人間の業の中には、欲が存在し、

欲しいと思う心よりもむさぼり欲しがる心が、すべてに勝ってしまっている。

私にはそんな風に世の中がときどき見えてしまう。

それを無意識に感受した途端、身体を業が取り巻くのだ。

私自身のものではない、業に埋め尽くされてしまう。








五種の欲望とは、

五官(眼・耳・鼻・舌・身)の五境(色・声・香・味・触)に対する欲望。

感覚的欲望ともいう。

また、財・色・飲食・名(名誉)・睡眠を求める欲望をも意味する。

ちなみに六欲とは、凡夫が異性に対して有する6種の欲を指し、

色欲、形貌欲、威儀姿態欲、言語音声欲、細滑欲、人相欲、

眼・耳・鼻・舌・身・意の六根に関する欲望を意。








そうした負の、バランスの欠いたエネルギーが充満すると、

天地変動が起こる。

最近、地震が続いている。

タイへの渡航前、私が日本から離れる予定がある。

今までテロや地震などに見舞われた土地に、

私の予定が関与しなかったことは一度もなく、

前日までその場所にいたとか、行く予定をキャンセルした場所だとか、

移住する場所を離れると、何かが起こり、私は救済される。








死への行進に足並みを揃えてはならない。

特に業に関するものに、バランスを欠くことは危険なのだ。









シャーマニズム・知者への道

2007年08月14日 10時41分22秒 | シャーマンズボディ









何が人の寿命を決めるのであろうか?

なぜ幼い頃に暴力的に人生を奪われる人がいるのだろうか?

自己成長は世界の変化とどのように結びつくのだろうか?

シャーマンは夢を明晰に見ることでワークを行い、

ヴィジョンを追い求め、身体の感覚に従い、自然を敬う。

つまり、アイデンティティや履歴から自由になった後の出来事を

ワークするのだ。

出来事を俯瞰(ふかん)する側に自分を位置づけることができれば、

成長のひとつの目的は達せられたことになるだろう。





※俯瞰とは、高いところから見下ろす、全体を上からみる意。


シャーマンズボディより









祖父または祖母、すでになくなった友人たちの細胞と

連動している身体感覚と共に私は生きている。

それは私の娘や子孫や周囲の友人たちへも必要であれば

連動するのであろうことは気付いている。

細胞というよりも内面、つまり魂の呼応や気脈の一致は

時空を超越した全体像がそのすべてであり、

そこに生や死、その間にある「生きる」物事に影響を与え、

それを私たちは運命や宿命と呼称する。







自分が何者であるのか、

あるいは何者になろうとしているかに焦点をあてるのではなく、

あなたの自覚に焦点をあてていく。

そこにはさまざまな国や民族などの伝統が織り交ぜられ、

召命を聞くこと ―  その道が人生を満たしてくれるのだ。







祖母なのだろうか、

吊るした浴衣を何度も落とし、風のない場所で風鈴を鳴らし、

私に語りかけてくる。

明日は灯篭を流すためだけに一日を費やす。

娘も一緒に、父も一緒に、と問いかけると、

今度は風があるのに風鈴の音色は聞こえてはこない。

それが祖母の存在を証明しているのだろう。






何か見えないものの感覚に護られていることはわかる。

それが私の身体から痛みを吸い取ってくれたことも、

迷いの道から進むべき道を指し示してくれたことも、

危険の察知も、知者との出会いも、

その護りの中で生かされていることが私なのだと理解した。







明日の灯篭には「ありがとう」と書こう。

祖父母たち血縁者のためだけではなく、

すでに亡くなった多くの友人へ、

戦争や災害で亡くなった方々への敬意を思いを共に流そう。








※写真は「0404」さんの作品です。






 


シャーマニズム・注意力

2007年08月13日 11時20分22秒 | シャーマンズボディ









「第一の注意力」とは、

日常的な現実に対する注意力を呼んだ。

「第二の注意力」とは、

思いがけないプロセスに対する注意力を育み、

この注意力が夢見のプロセスを感知することを呼んだ。






注意を払われたことがあれば、

第一の注意力によって話を聴いてもらい、

理解されることがどのような体験であることを知っているだろう。

しかし、第二の注意力が払われると、

より深い充足感を得ることができる。






第一の注意力は、

私たちが日々の仕事をこなし、定めた目標を達成し、

自分のアイデンティティを保つのに必要な自覚である。

一方、第二の注意力は、

普段無視している内的ならびに外的な出来事、

主観的な体験、非合理的な体験に焦点を当てる自覚である。

第二の注意力は、

無意識(夢のような)動作、偶然の出来事、

うっかりした言い間違えといった、

四六時中生じている自発的なプロセスへ向けられたものだが、

それは夢見の世界への鍵なのである。






そうしたシグナルが普段の生活の邪魔になる場合、

とりわけそれが克服すべき疾患であると解釈されや場合には、

消され、抑圧され、癒さなければならないと思うだろう。

しかし、特別な意識状態にあるとき、

たとえば昏睡状態や恍惚状態のとき、創造的なダンスを踊るとき、

そして、スポーツやセックス(愛情のある)をしているときに、

あなたは第二の注意力が中心となる状態に入り、

ドリーミングボディを生きはじめる。







あなたを外側から見る他者は、

あなたのドリーミングボディの体験は理解できないかもしれない。

それはあなたに予測不可能なことをさせるために、

他者はあなたがドラッグをやっているか、

至高体験を経験していると考えるだろう。

しかしあなたの内面では、馴染み深いけれども、

やはり自分でも理解し難い感覚や働きが体験されている。







それらの自然な展開に従うと、

あなたは根源的な何かとの結びつきを感じる。

そういった経験に開かれていくと、

時空間や世界から独立した自己の全体性を体験するのである。







シャーマンズボディより

 


 

 

私は小さいときから、そうした世界観の中でしか生きていない。

いいや、生きてこれなかったといった方が正しい。

だからこそ、親や大人は私を理解することができなかったのだと、

今の私ならわかるのだ。





尚、これは自身の内側の感覚によるものであり、

人間が人間を勧誘する類のものにより得られるものとは相違することを

ここに追記する。

これは自分自身の人生の問題であり、

人生を左右するプロセスだと私は解釈している。

 




※写真は「mimitsuki」さんの作品です。