風の生まれる場所

海藍のような言ノ葉の世界

空や雲や海や星や月や風との語らいを
言葉へ置き換えていけたら・・・

病、障害と生きる

2010年05月31日 09時47分10秒 | エッセイ、随筆、小説



直面する問題、
それは生きていかなければならない過酷さを
物語るようだと思った。

ある大学病院で開催されているワークショップでは、
慢性疾患に関する取扱いを、
自らが学ぶというコンセプトのもと行われている。

母子感染のB型肝炎患者、繊維筋痛症、慢性疲労症候群、
躁鬱など、いろいろな人が集まっている。
とりわけ、年齢の近い女性たちと仲良くなったことで、
彼女たちの抱える胸のうちを知ることとなった。
魂を掴まれたように、私は言葉を失っていく。
結婚や子供を持つという当たり前に思えることが、
彼女たちには用意されていないのだから。

生きていくことで精一杯、
娘や恋人の存在に救われている私は、
罪悪感に苛まれてしまう。
障害者扱いになる病気や障害というだけで、
彼女たちよりも護られ、
彼女たちよりも救われている。

ふとわきあがる疑問。
なかなか死ねないものよ、と
ある患者の言葉が脳裏に焼き付く。

私も苦しんできた。
いいや、いまも生き地獄の最中にいる。
けれど、私がその状態でも、
この異常さに潰されずにいられるのは、
希望をみているからだろうか。
うまく言葉に表現することはできないのが歯痒い。
が、生き抜いてやるという腹の据わりが
複雑化した物事をよりシンプルにみせてくれるのか。
いいや、きっと違う。
物事を考えられるだけの余裕や環境が整っているからこそ、
自分を客観視することも可能になるだけのことだ。

病気になることによって、社会からみれば脱落者になってしまう。
資本主義という社会構図の中では、健康も資本のひとつなのだろう。


*前回の末語に「続く・・・」としましたが、今回とは関係ないことを
ご了承ください。







恋人へ、病気や障害とともに生きるということ

2010年05月18日 10時05分44秒 | エッセイ、随筆、小説




 

Drunken Tigerの8:45HEVENをBGMに、
私が切り出したのは別れ話だった。
韓国ソウルから帰国した彼は目を白黒させながら、
「なにを言い出すのだ?」と言って戸惑いをあらわにしている。

あなたがいない間ね、私がソウルから帰国した後ずっと、
あなたと私の将来について、厳密にはあなたの幸せについて考えさせられる自分がいた。
このままでは窒息してしまいそうなほどにに苦しんだからこそ、
正直な胸のうちに耳を傾けて欲しい。
そして、あなたの率直な意見を聞きたいと思っている。
五木寛之氏の「覚悟」を読んだ影響もあるだろう。
それを私にあてはめたとき、
あなたへ気持ちを吐露することこそが、私の覚悟だったように思えたから。

しばしの沈黙のあと、コーヒーをテーブルに運びながら「聞くよ」と彼は言った。
「でも、だからといってそのすべてを受容するかどうかということは別」と加えるまさに最中に
受信したメールには「先を読みすぎない。自分の気持ちに正直にね」と書かれていた。
30年来の男友達から。
天邪鬼のような私の性格をよく知っているひとりだ。

韓国へ帰って、家族や友人が祝福してくれるような人、
たとえば国籍の問題ない韓国の女性と結婚することが一番いいんじゃないかって思っているの。
それはね、私自身の逃げでもあるだろうし、いろいろな批判に耐えるだけの気力がないこと、
なんかね、障害になり得るものと闘い続けることに疲弊してしまっている。
未婚の母、あなたよりも年上であるし、日本人でもある。
そこに心身の不安定さや障害を抱えた身の上となれば、なにも言わない人なんていないでしょう。

疲れた。
あなたとの将来を、ふたりの幸せを愛しく思えば思うほど、
あなたへ、ご家族へ、友達へ申し訳ないなって気持ちに押しつぶされてしまいそうで。
だからなにも言わないで別れてほしい。

カップが手の甲にぶつかったのだろうか、
コーヒー色にテーブルが染まった。
混乱しないわけがない。
それは彼の落ち着きのなさや真っ赤な目元をみれば余計な言葉など必要ないことがわかる。
と同時に、病気や障害とともに生きるということが、
予想していた以上に自分には重く圧し掛かっている現実を恨めしく思った。
それが人生や運命だと言い聞かせ、自分を、魂を鎮めることに躍起になっている。
後悔するだろう。
ここで彼と別れたなら、きっと私は一生後悔する。

一緒に韓国へ行かないか?
結婚しないか?




続く・・・






恋人へ、高次脳機能障害と混乱

2010年05月10日 05時35分58秒 | エッセイ、随筆、小説




たった1回のことじゃないか、とあなたなら言うだろう。
なぜそれが私に思慮を与える時間になってしまったのかという現実を突き付けられたとき、
愕然とする姿が目に浮かぶ。
きっと、溜息を漏らすだけしか手立てのないあなたが私には見える。
私が言葉を連ねるとき、あなたにできることは閉口するだけだということを。

大切にする、とあなたは言った。
私たちが韓国ソウルのアックジョンで落ち合ってから、
たしか4日が過ぎたころ、
あなたは「あなた自身」に気づいた。
そして、深く深く反省をした。

なぜ私たちが喧嘩をしたのか、なぜ喧嘩になってしまうのかを考えたのだろう、
それはあなた自身が持っている世の中や日本人に対する屈折した感情と、
あなたが持っていないアイデンティティ、否定し続ける国籍、それへのこだわり、
こわだりではなく執着と言い換えてもいいだろう。

私の内側にずっとひかかってきた最大の棘は、
「あなたは私をなにも知らない」という現実だ。
あなたはなにも知らない。
私を、私の考えも、思いも、抱える心身の苦痛も、なにもかも。
それを突き付けたとき、愕然とするあなたの姿が私にはみえてしまった。

韓国でも日本でもあなたは「あなた自身」のことばかりを話す。
それを私はうんうんといって聞く。
聞き役に徹している。
昨日の夜、寝る前にふと話がしたくなって韓国へ電話をかけたけれど、
電話の呼び鈴が10回、これ以上鳴らしても出ないのだとわかったとき、
白々とする感情が私を冷静にさせたとき、あなたの家族にはなれないのだとふと気づいた。
これはね、ソウルで私たちの将来、結婚の話をしたから家族になるだろう・・・という類のものではなくて、
もっと精神的な、私が大切にするところの家族、それはもっと深い話になってくる。

ソウルの渋滞は東京のそれとは相違しているので、
あっという間に時間の浪費を余儀なくされる。
だから、交通手段の選択や1日の動線を計画することが本当は大切なのに、
一見、行き当たりばったりにみえる私の方が必ず目的地まで辿り着き、計画を消化する。
ガイドブックを手放さず、何人ものソウルの友人の手助けを借り、綿密な計画だけは立てるあなたなのに
目的地まで辿り着けずに、何度も何度も予定を変更する。
結果、計画は計画だけで終わり、自己嫌悪に陥る。
でも、それはあなたが腰を落ち着かせていないだけのことで、
欲張りで、一気になんでも行おうとする悪い癖なのだということには一向に気づく気配がなかった。

あなたにはなにがみえているのだろう・・・と思った。
視線の先ではなく、あなたのこころに映し出される風景は、どんな色を、かたちをしていて、
それがどのようにあなたに影響するのだろう。
私の腹が沈みきったせいか、ここ半年くらいの時間が走馬灯のように目前でさらさらと流れたあと、
どっと押し寄せてきた疲労でしかない重さに、体が身動きが取れない。
きっと体ではなく、こころが、精神が混乱をしている。
相反する感情が消化できないままに沈殿し続けたつけが、今、この瞬間に押し寄せてきたのだろう。

仕事のこと、友達とのこと、家族のこと、日本人のこと、韓国人のこと、関係ない人たちのこと等・・・・・

決定的だったのは、あなたの優先順位への疑問だった。
わかりやすく言うなら、優しさだと信じているものは弱さでしかなく、
自分への陶酔、いい人であり続けたいという自己満足のために
犠牲にしているものが、人がなんであるかがまったく理解できていない。
それが私には残念であり、恐怖や不快という負の感情にしか結びつかないために、
私自身がないものとしてきた「本音」と、とうとう向き合う必要に迫られたのだ。

感情が不安定なのは自覚している。
あなたが私をいくら健常者とみなし、普通だと思い込んだとしても、
あなたの目には、私は映っていない。
それは本当の私ではなく、あなたがみたくない私を省いた私でしかないので、
私の本心をもし知ったなら、溜息しか出るはずがない。
それが私たちの距離感で、温度差で、もっというなら価値や優先順位などを決定していく素に。
すべてのはじまりがそれであるから、差異となって現実に反映する。










南信州の癒しかほり

2010年05月04日 23時53分09秒 | エッセイ、随筆、小説





南信州へ行った。


韓国から帰国するやいなや、そのまま長野へ向かうために新幹線に飛び乗る。
グリーン車を予約したと申し訳なさげに報告をする知人と座席で落ち合い、
柿の種を頬張りながら、高次脳機能障害について熱く語ってしまった。
ぽりぽりと乾いた音が車内に響き渡るものの、
乗客はわずかなので、今日のところは勘弁いただけそうで胸を撫で下ろす。

数名の医師を紹介したいとの知人からの申し出を快諾した私だったが、
まさか長野だとは知らなかったので、過密スケジュールに体調が持つかが急に心配になる。
韓国から帰国したばかりだということも内緒、疲れたとは口が裂けてもいえない状況には
さすがに溜息が漏れ出しそうなので、口元に自然と力が込められてしまう。

盆や正月は決まって祖父母宅のあった長野の山間で過ごしたことを懐かしむ自分がいる。
あれはなんといったか、名前はとうに忘れてしまったものの、
毛並みのよい褐色のサラブレッドを祖父からプレゼントしてもらってからというもの、
私は祖父の山まで馬を走らせて、いくつもの夏を過ごした。
いんちきな絵日記を書き、祖父と夕顔を剥いた。
戦争の話をうんうんとわかった素振りをして聞いていた時間が、
今は妙に懐かしい。
長野の空を見上げると、青く透き通る空のどこかに、祖父が隠れているような気がしてならない。

社会復帰はどのような職業を希望するなど、なんとなくでも青写真はみえていますか?
せっかくだからテラスで風を感じながら、あなたのことを聞かせてください、とA医師の提案。

真っ白な雲がぽかぽかと浮かび、鳥のさえずり、焙煎されたコーヒーの香りが鼻先を擽っていく。
えっと・・・・えっと・・・・えっと・・・・と確か三回、一気に繰り返した後、
文章を書く仕事しか思いつきません、と答えた。

緋色の太陽が南アルプスの向こう側へと吸い込まれていく。
さらさらとペンを紙の上でしばらく踊らせたかと思うと、
あなたの文章は実は手元にあったので、読ませていただいています、と医師は私の愚文を広げた。
緋色よりも一段強い朱に似た色に頬が染まった。
自分でも恐れ多いことを言っていると自覚しているのです。
でも・・・・・・

本を読んだり、文章を書くことが楽しくて楽しくて仕方ないのです。
人と話をして、影響を受けた方々のことにも触れた文章を書きたいのです。

南信州の癒しのかほりに包まれていると、
すべてがうまくいきそうな予感に胸が躍った。
先生、だめでもともとです。
でもどうか、大それた社会復帰への構想ですが、どうかご教授お力添えいただきたく。
お願いします。

満天の星空を眺め、いくつもの流れ星に願いを託す。
消炭色の深みある色彩の中に、金色の月と、スワロフスキーのような星たちがユニゾンを奏でる。
あの馬の名前はなんといったか。

 



 


水俣病54年

2010年05月02日 08時44分43秒 | エッセイ、随筆、小説





本日付、讀賣新聞社会面の記事を読み愕然とする。
全被害者を救済するのに54年もの歳月が費やされている。
公認確認から54年なので、この「公認」を勝ち取るまでの尽力を考えると、
正直、言葉が出ない。

ただ閉口し、紙面に視線を這わせるだけ。
諦めずに闘ってこられた方々の思いに想像を馳せるとき、
私は涙をこらえることができずに、文字が滲んでしまい、うまく読み進めることができない。

高次脳や軽度外傷性脳損傷という病傷名の社会的認知を考えると、
それだけの時間的覚悟を強いられるのかと思うと、背筋が凍った。
弁護士との協議は、今後の、私の交通事故処理はもちろんのことながら、
高次脳や軽度外傷性脳損傷における概念をどのように提示していくか・・・も考えられている。
交通事故との因果関係を立証していく困難さは、なにもこの病名だが原因ではなく、
資本主義という社会構図の中で生活をしている以上、
損保が支払いを行うという当たり前にみえる行為自体が、
利潤を損なうことに密接に結びつくのだから、払い渋りを行い、弱者を見切り、主題のすり替えや
主張をうやむやにすることでしか、利益の追求ができない構造であることを、
消費者である私たちは知っておく必要があるだろう。
自分が被害者になる前に、ぜひ。

昨日、弁護士(元)の中坊先生が報道番組に出演されていた。
社会派弁護士として、もし現役であったならば、私の案件をお願いしたい方であった。
その先生が弁護士免許を剥奪された後の生活を表現する言葉として、
「忍辱(にんにく)」の日々を送っていると言われたとき、人間をみたような気持ちになった。

人は生きていく上で、夢や希望ややりがいや生きる意味のようなものを
必要とする場面に出くわす。
それは健常・障害・病者という枠組みで議論できるものではなくて、
人間として生を享受した以上、心の動きからは開放されるものではない。
むしろ、その呪縛によって、人間はよくも悪くも、善にも悪にもお面を使い分けられる。

苦しみや痛みに耳を傾けるべきだった。
水俣病54年の歳月、諦めないという腹の据え様を教授いただき、
韓国から持ち帰った甘い茶葉を浮かべた茶を啜る。
私自身のために、被害者救済のためにも、私は諦めないと心に誓う。



 


韓国の恨、日本の怨、高次脳機能障害者から

2010年05月01日 10時33分28秒 | エッセイ、随筆、小説





韓国、ソウルへ。



渡航して気持ちが幾分楽になったのは、
日本と距離を置いて生活ができる方法が見つけられたからだろう。
最終的には日本を捨てる選択も私の手中にあるわけだし、
第一、息苦しさに押しつぶされながら、傷つきながら、不信や失望といった負の、
怒りにしか結びつかない感情を鬱々と沈殿させるだけの日々に
心身を疲弊させる必要はないとの気づきは
私に付けられていた枷やぶら下がっていた鉛を、降したような気分だ。

そして、自分が深く気づいている事実と直面した。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)などという専門的な呼称をたとえ用いなくても、
私が負ってしまった傷、この6年間で請負ってきた日本社会の恥べき実態や現実を整理した。
そこから薬剤を調合し、あわや身体の一部に溶け込み始めていたそれに塗布できたことは、
この旅一番の恩恵だろうと思う。

ここでいう薬剤とは、まさに旅先で出会った方々との触れ合いや優しさ、
また、自分という本来持っている立ち位置、興味関心、自信の回復を意味している。



視点を変えるために、私とはいろいろな意味で縁深い地、韓国ソウルへ向かった。
最初にこの国に渡航したのは1980年代、最後は90年代初頭、
それから考えると目覚しい発展に度肝を抜かれたというのが正直な気持ちだ。
ITや国際化に関しては完全に日本は出遅れているし、
今の日本は、日本人同士が傷つけあっている事実にも気づけないほどに思考が麻痺していて、
そのくせに、特にアジア諸国に対しては、今尚、自国の優生を叫ぶだけの時代遅れ感が否めない。
まさに、日本はどこへ向かおうとしているのだろう・・・・・と、私自身も考えさせられる羽目に。


タイトルの「韓国の恨(ハン)、日本の怨(オン)」は、両国を表現する言葉として
しっくりと私にはくる。
具体的な説明は長くなることと勉強が必要なため今回はしないことにする。
ふと思うのは、日本の怨が蔓延する土壌として、
私たちはいつの時代にも「口封じ」をさせられてきたのではないかと考えるところがあった。

私にはどうしても「責任」という二文字が付き纏っていて、
最近では「責任の取り方すらわからない」「そもそも責任という概念すら抜け落ちている」
日本を垣間見続けた結果、他者へ向けられる「怨」の感情が消化しないまま心のどこかで彷徨っていて、
それが日本人の喪失につながっているのではないか、と思えるのが不思議だった。

結局のところ、無関心や無責任な行動は、いずれ自身を苦しめるだけにしか作用しない。
でも、それに気づくのは、それを請負う立場になったときでしか、
無関心がゆえに気づけない。
書けば書くほどに難しい文章にしなならないのが無才である証拠なのだろうが、
帰国したときに驚いたのは、日本人自身が沈殿させている怒りは、
本来無関係の他者へ即、向きやすい危うさを抱えていて、
それは弱者は自分より弱者を探し出し、そこに感情の捌け口をみつける傾向がわかったときの恐怖だ。
怒りは、自分の抱えている生活や仕事に対する不満かもしれない。
けれどそれらは、決して他者へ向けられたからといって、解決には程遠い。
そう考えると、高次脳機能障害に関する会議に出席するたびに思うことは、
解決するためのアイデアや提案まで辿り着かず、怒りだけをぶちまける場面に
しばしば遭遇してきたことと共通するように思った。


以前、ニューヨークで会社を経営する方が言っていたことを思い出す。
日本は完全に出遅れている。
でも、それに気づいていない日本人が、日本人をますますダメにしていくようで残念だ。
私も今回の旅をとおして、同じ意見を深めたことは、言うまでもない。