直面する問題、
それは生きていかなければならない過酷さを
物語るようだと思った。
ある大学病院で開催されているワークショップでは、
慢性疾患に関する取扱いを、
自らが学ぶというコンセプトのもと行われている。
母子感染のB型肝炎患者、繊維筋痛症、慢性疲労症候群、
躁鬱など、いろいろな人が集まっている。
とりわけ、年齢の近い女性たちと仲良くなったことで、
彼女たちの抱える胸のうちを知ることとなった。
魂を掴まれたように、私は言葉を失っていく。
結婚や子供を持つという当たり前に思えることが、
彼女たちには用意されていないのだから。
生きていくことで精一杯、
娘や恋人の存在に救われている私は、
罪悪感に苛まれてしまう。
障害者扱いになる病気や障害というだけで、
彼女たちよりも護られ、
彼女たちよりも救われている。
ふとわきあがる疑問。
なかなか死ねないものよ、と
ある患者の言葉が脳裏に焼き付く。
私も苦しんできた。
いいや、いまも生き地獄の最中にいる。
けれど、私がその状態でも、
この異常さに潰されずにいられるのは、
希望をみているからだろうか。
うまく言葉に表現することはできないのが歯痒い。
が、生き抜いてやるという腹の据わりが
複雑化した物事をよりシンプルにみせてくれるのか。
いいや、きっと違う。
物事を考えられるだけの余裕や環境が整っているからこそ、
自分を客観視することも可能になるだけのことだ。
病気になることによって、社会からみれば脱落者になってしまう。
資本主義という社会構図の中では、健康も資本のひとつなのだろう。
*前回の末語に「続く・・・」としましたが、今回とは関係ないことを
ご了承ください。