風の生まれる場所

海藍のような言ノ葉の世界

空や雲や海や星や月や風との語らいを
言葉へ置き換えていけたら・・・

やすらかにやわらぐこと

2007年08月07日 05時17分37秒 | LOVE&PEACE







じいちゃんが夢に出てきた、と娘は言う。

午前4時、夏の朝ははやい。

いつもなら、海へ出かける朝の気配だ。






いまさらながら麻疹にかかってしまったらしく、

熱や風邪や不調に慣れていない娘。

私はずいぶんと昔にベッドを並べて本を読んで寝かしつけたり、

保育園での出来事を聞いたことを思い出して、

老老介護ならぬ病病介護を案外楽しませてもらってる。






娘の看病をしたくてたまらない彼氏。

一週間も会えないなんて、俺には我慢できん、とのメール返信に、

一緒に旅行に行くんだから、それを糧に、と知恵を与えた。

ぐずぐず言うと麻疹は治らないし、

旅行にも一緒に連れていかないってお母さんが言ってる。

いや、私は言ってない。

けれど、功を奏した様子、愛情を深める時間だと思って、

俺は快復を願っているよ、だって。

いい男になるよ、きっと、この少年は。




じいちゃんは聞いてくるらしい。

「戦争は終わったのか?」と。

午前4時に起こされた私は、返答に困ってしまうのも当然だ。

その質問は去年までは夏になると私の夢にしばしば登場して、

「たぶん、終わっていない」と私は答えた。

靖国の、韓国の、中国の、被爆者の、戦争犠牲者の、

日本人も日本人として戦った多くの外国人兵士への問題も

なにも解決していない。

私なりにそう思うから「戦争は終わっていない」と思ったまま言った。

すると、すごく寂しそうな表情を浮かべた祖父は静かに消えていくのだ。

あの世でも「戦争」が気になるのだろうか。

何度も送られてきた赤紙によって、

祖父の青春は、祖母を巻き込んで、同級生たちも戦友も、

その若い命を散らしていく姿こそが、青春そのものだった。

そして、それを国家のためとして英雄扱いされたのは、

わずか62年前の日本の現実だ。





国家とは、命を奪うもの、

祖父の独り言を私は幼いながらに聞き逃さず、

その意味を今でも考える。

考えることを国家のためになど、決して放棄などはしない。

いい男になるだろう少年を、娘の将来を、

その先には戦地があるなど私には言えない。できない。

まして私はそんな国ならなくていいと思っているのだ。

子供の将来を、命を、差し出す親が、どこにいるというのだ。







核クライシスと言われる今日の世界において、

その原因は米国であり、広島と長崎に投下された原爆だ。

主原料であるウラン235とプルトニウム239。







1945年、8月6日、ウランを用いたものが広島に、

同9日、プルトニウムを用いたものが長崎に投下された。







米国は極秘裏にマンハッタン計画を亡命ユダヤ人を中心に

技術者や科学者を総動員させた国家計画を推し進めていた。

当時の科学部門リーダーはロバート・オッペンハイマーだ。

1945年7月16日、ニューメキシコ州アラモゴード軍事基地近郊の砂漠で

世界初の原爆実験、コードネームはガジェット。

原子爆弾は2つ、残存していた。

資料によると投下後の調査が比較的可能な地域を選択されたとの記述もあり、

米国はどうしても核実験を「戦争」を大義名分として

使用結果を知りたかった意図が見え隠れする。





私たち日本は世界でも唯一の被爆国なのだ。

私の友人たち、と前置きをした上で私見を述べるのであれば、

彼らは原爆投下の結果を、

私という日本人と出会わなければ知らずにいただろう。

凄まじい議論を繰り返した。

あるとき、写真集を渡した。訪米のプレゼントとして。







原爆は戦争を終結させるために必要であったと米国人の多くは信じ、

現在、イラクやアフガニスタン、イランへその大儀を押し付けるために

何度も同じ過ちを犯し、大量殺戮を繰り返している。

それが米国だ。国家だ。

そして、それに加担している日本も例外ではない。

私たちの税金を使って、国家が殺戮に加担する。






じいちゃんに申し訳がたたないのだ。

戦争で犠牲になった多くの人たちへ、

戦争が終わったなどと私は言えない。

私たちのあしたを私たちが考える。

鷹派である総理は、どのような心境で記念式典に参列しているのか、

私が記者なら詰問してみたいと思う。






米国で出会った日本人の多くは、

広島や長崎出身者であることを隠している現実に私はショックを覚えた。

それがなにを意味するのか、

国民は国家を見据えるためにも、考えることを放棄してはならない。







戦争犠牲者の方々のご冥福を心からお祈りします。

そして、今の私たちの生活があることを、心から感謝すると共に・・・・・





 

追記として

被爆者の惨状は米国の厳しい報道規制によって、
すぐには世界へ伝わらなかった。
日本人の多くが惨状を知ったのは、アメリカの占領が終わった1952年。
原爆被害を初公開した『アサヒグラフ』には
焼けただれた顔や焼死体の写真が掲載され人びとに強い衝撃を与えた。





参考文献など



日本残酷写真史(作品社)

http://www.excite.co.jp/book/product/ASIN_4861820952/

原爆

http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/genbaku.htm